2005年05月12日

自動人形

 初めまして。当家の女中頭を務めております、フローレンス・ジルベルシュテインと申します。失礼ですが、貴方様のお名前をちょうだいしても――ああ、承っております。申し訳ございませんが、主人はただいま少々手が離せないと申しておりますので、応接間にてお待ちいただけますでしょうか。――恐れ入ります。それでは、こちらへどうぞ。ああ、コートをお預かりするのを忘れておりましたわね。これは失礼をいたしました。
 ただいま紅茶をお持ちいたします。少々お待ち下さいませ。

 お待たせいたしました。どうぞお召し上がり下さい。――はい?ええ、じき参るかと存じます。主人が参りますまでは私がお相手を務めさせていただきます。
 あら、主人が申しましたでしょうか。はい、間違いなく、私は自動人形[オートドール]でございます。ボディーは軍用の義体に主人が手を加えまして、勝手に AFG-03 と型番を振りました。ええ、もちろん登録されておりませんわ。本来の義体のパーツ以外にいくつものパーツを寄せ集めて作られておりますから。
 主人は私を悪戯心の具現と申しますわ。無駄な機能が付いているからでございましょう。――は?例えば、でございますか?そうですね、例えば私の左目には赤外線カメラが内蔵されておりまして、当家に入られる方々の荷物をチェックさせていただいております。――はい。申し訳ございませんが、貴方様のお荷物も確認させていただきました。主人は敵も少なくないものでございますから――お心遣い、痛み入ります。他には……私には人間のそれとほぼ同じ仕組みで体内の老廃物を排出するようになっています。――はい、そういうことでございます。本来は別の方法での除去も可能なのです。それをわざわざ残しておいたのです。特に何の役に立つわけでもございませんのにね。

 ――軍用の義体を使っている理由、でございますか。それは簡単ですわ。私に武装させるためでございます。現在は大したものは持っておりませんが、体内に火器を内蔵しましたり、対装甲車用の重武装を扱うのは一般の義体では難しいですし、出力や筋力も一般のものとはかなり離れております。戦闘に限ったことではなく、様々なことができます。
 え?あら、お詳しいのですね。お考えの通り、私には自動人形三原則は組み込まれておりませんわ。私の“本能”は2項目しかございません。いかなる状況下であっても主人の撤回のない限りその言葉に従うことと、常に思考し成長すること、この2項目のみが私の持つ絶対の鉄則でございます。――ふふ、私は感謝しておりますわ。自分の主を守る能力を、主人は完全な形で私に与えたのですから。
 確かに一般の方は不安を覚えられても仕方のないことでございますね。ですが、刺客に遠慮して止めることのできぬ護衛に何の意味がございましょう?私は今の主人のために生きることに満足しておりますわ。それに主人も私同様、野心や権力欲とは無縁の人間ですわ。貴方様もご存じかと思いますが……。ええ、ですから外から攻められぬ限り、私はただこの館を管理し主人のお世話をしているだけで満たされますわ。
 ――貴方様は聡明な方ですわね。私の忠誠を「愛」と表現した方はいらっしゃいませんでしたわ。おっしゃる通り、私は主人を愛しております。――私の行動は完全にプログラムで制御されておりますが、私の思考は“本能”に基づき常に変化し成長しております。既に主人も私の思考を、プログラムを辿ることで読み取ることはできません。知るのではなく、他の人間と接する際と同じく、判断しているのですわ。私の思考の限界を取り払ったのも主人でございますから、こうなることはわかっていたのでしょう。
 ――あら、主人が降りて参りましたわ。その、私からお話ししておいてこう申しますのもなんですが、今の私の話はご内密にお願いできませんでしょうか?――まぁ、ありがとうございます。――それは……恥ずかしいではございませんか。お茶を淹れ直しますわ。失礼いたします。

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2005年04月17日

身分違い

「あ、お疲れさま」
 仕事を終えたのか、キッチンに姿を見せた稔[みのる]に妙[たえ]が声をかけた。稔は中の様子を見て、妙1人しかいないことに気づいた。
「お疲れさま。三船さんは?」
「先に上がったわ。お疲れなんだって」
 女中頭の三船はここのところ、下のお嬢様の入学準備と新人の世話に追われていたのを稔も毎日目にしている。年齢もあって疲れがたまっていても仕方がない。
「大変だね、三船さんも」
「そうね……。でも他人事みたいに言うけど、稔君も大変なんじゃないの?」
 稔は微笑んで、手を振った。
「俺は大したことないよ。大塚さんの引き継ぎカンペキだったから」
 稔はつい先週、前任の大塚翁から安井家執事の役目を譲り受けたばかりなのだ。実際、3年間みっちり教育されているとはいえ25歳で貴族の執事を務めるのは容易なことではない。主から心配する声を聞かされた妙は、それを気遣っているのだ。
 それをありがたく思いながら、顔では意地悪そうに笑った。
「俺より妙の方が大変だろ?今日も何やらいくつも届いてたな」
「……そうね。開けてないけど」
「もったいない」
 少し表情が硬くなった妙に、稔は軽く言った。彼女の部屋には今朝届けられた手紙が2通、小包が3箱、封も切らずに置いてある。どれもプロポーズだったり恋の表明だったり、とにかく男性からの物ばかりだ。その中には貴族の名前さえあった。
「もったいないことなんかないわ。私はおつきあいする気なんてないもの。手紙はともかく物は使えないでしょ?」
「貴族の男もいるだろうに。真田の御曹司なんて、旦那様もいつだか褒めてらっしゃったぞ。家柄はともかく若いのによくできるって」
「貴族だからってお付き合いする気にはならないわよ」
 妙はそう言ってため息をついた。稔から渡された小包の中に、真田家の長男からの物もあったのだ。郵便物は全て稔の手を経ることになっているので、差出人をのぞかれたことを咎めることもできない。稔は彼女の様子を見てぼそりと言った。
「鬼堂の坊ちゃん、か」
 妙は無言のままだが、蛍光灯で白く照らされた頬がわずかに染まった。稔は、幼い頃から一緒に育った同僚のわずかな変化を見逃さなかった。考え込むように腕を組む。
「あのお人は全然攻めてこないな。最近よく見えるわりに美奈お嬢様にはお会いにならないから気はあるんだろうに」
 美奈、というのは今年16歳になったばかりの安井家の長女である。24歳になる鬼堂家の長男とは釣り合わないこともないのだ。自分のことをこれ以上突っ込まれたくない妙は、慌てて話を逸らした。
「わ、私のことより自分はどうなの?」
「身分違いの恋は俺には無理だなぁ。娘を中流貴族の執事にやろうなんて貴族がいるとは思えないし、ここのお嬢様はまだ小学生だしなぁ」
 安井家の次女、加奈のことをわざわざ言ったのは、美奈は貴族の子息との結婚を考え、既に方々に打診しているからである。
「別に身分違いじゃなくてもいいじゃない。旦那様について余所のお屋敷にも行くでしょう」
「……俺みたいなデキる男はみんな気後れして話しかけようとしないんだよ」
 わざとらしくため息混じりに言うと、妙は口元で笑った。
「はいはい。稔君黙ってたら恐いから誰も声かけようとしないのよ。自分から声をかければいいじゃないの」
「俺、理想が高いからな。その辺のメイドじゃいまいちこう、積極的になろうと思えないんだよな」
「ふふ、それじゃ確かにダメね」
 妙はそう言うと、コーヒー煎れてあげる、と言って席を立った。時代がかったモノトーンの制服をまとった幼なじみの後ろ姿を見ながら、稔は無言で彼女の作るインスタントコーヒーを待った。

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2005年02月26日

夜明け前の少女

夜明けは近かった。
今はまだ、家の中では自分の手の形がうっすらとわかるぐらいだ。
かち、かち、と壁に掛かった時計が秒を刻む。
一晩中、それを聞いていた。
毛布に座り、膝を抱えたままで。

ラジオから聞こえてきたのは、母国語で語られた、祖国への攻撃宣言。
王に投降を求めるそれは、子供の私が聞いても、宣戦以外の何者でもなかった。
国軍兵の父が、ぎり、と歯を食いしばったまま何も言わなかった。
普段は陽気な人なだけに、その思いがどれほど深いものか、想像もできない。
父は、祖国を愛している。
私も、祖国を愛している。
今、祖国は外国の軍隊に攻められ、踏みにじられようとしている。
毎日のように伝えられるわずかな報道から、知っていた事だ。
しかし、この夜明けが血と爆弾の嵐を呼ぶのであろう事を、私は初めて実感した。
ぞくり、と背筋が冷えた。
思わず呟いた神の名は、部屋の隅っこに転がった。

王が悪い、と外国人は言う。
それが本当なのかそうでないのか、学校もまだ出ていない私にはわからない。
私にとって「悪い人」は、他人を傷つける人であり、物を盗む人であり、他人をだます人だ。
王がそうなのか、そうでないのかは、王に会った事もない私にはわからない。
ただ、こうして丸くなって夜明けを待っている私の上に、その王を倒そうとする兵隊が爆弾を落とすかもしれない。
それは、王が悪いせいなのか、外国人が悪いせいなのか。
わからない。
ただ、これだけは言える。
私は、私の家族は、悪い事はしていない。

膝を抱いた私の腕が青白く染まった。
膝頭につけていた額をそっとはがし、目を上げた。
夜が、明ける。
『今日』が始まる。
青空の下に、嵐が来るのだ。
私は固まりしびれきった足で立ち上がり、台所に行った。
口にした水は、それが最後の一口かもしれない事など知らないかのように、いつも通りぬるかった。

連作:「夜明け前の兵士

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夜明け前の兵士

夜明けは近かった。
今はまだ、自分が今いる甲板の端がなんとかわかるぐらいだ。
かち、かち、と腕に巻いてある時計が秒を刻む。
一晩中、それを聞いていた。
愛機にもたれて、座り込んだままで。

ラジオから聞こえてきたのは、母国語で語られたかの国への攻撃宣言。
王に投降を求めるそれは、同国人の僕が聞いても、宣戦以外の何者でもなかった。
反対派の僚友はため息をつき、そのまま2人とも何も言わなかった。
普段は明るい奴なだけに、その思いがどれほど深いものか、想像も付かない。
彼は、祖国を愛している。
僕も、祖国を愛している。
今、祖国は他国に銃口を向け、その王を脅かしている。
毎日のように伝えられてくる大量の情報から、知っていた事だ。
しかし、この夜明けと共に爆弾を抱えた僕が飛び立つのであろう事を、僕は初めて実感した。
ぞくり、と背筋が冷えた。
思わず呟いた神の名は、波間に漂い見えなくなった。

かの国の王が悪い、と我々の国は言う。
それが本当なのかそうではないのか、バスケ一直線だった僕にはわからない。
同じ船に乗る僚友達も、侵略をすべきかどうかでまっぷたつに割れている。
どちらが正しいのかは、僕だけじゃなくきっと誰も知らず、ただ自分が正しいと信じているだけだ。
ただ、こうやって夜明けを待っている僕の国に、かの国の兵士達が爆弾を投げ込むかもしれない。
それは、王が悪いせいなのか、僕らが悪いせいなのか。
わからない。
ただ、これだけは言える。
民は、一般市民は、悪い事はしていない。

投げ出していた左足のつま先が青白く染まった。
腕にもたれかかっていた頬をはがし、目を上げた。
夜が、明ける。
『今日』が始まる。
青空の下に、嵐が来るのだ。
僕は固まりしびれきった足で立ち上がり、船室に行った。
口にした水は、僕の手が赤く染まるかも知れない事など知らないかのように、いつも通りぬるかった。

連作:「夜明け前の兵士

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2004年11月15日

The Rock Star

 「サラマンドラ・ラストステージ」というポスターの貼られた300人収容の会場には、観客がひしめいていた。下手をすると踊る隙間もないほどの超満員。メジャーデビュー直後に、女性絡みでスキャンダルを起こして解散せざるを得なくなったバンドのラストライブとは思えない熱気に、会場主が驚いたほどだ。
「いっぱい来てるわ」
「嬉しいことじゃない。最後なんだし、多けりゃ多いほどいいよ」
 袖に観客の様子を見に行っていたベースのリザが戻ってきた。少し緊張した面持ちの彼女にドラムスのカイトが気楽に応じると、そうね、と気が抜けたように笑った。この最後の時に和やかなのはこの2人だけだ。スタッフは自分の仕事を完璧にするのでピリピリしているし、残る3人のメンバーにも笑い合う余裕はなかった。リザたちを咎めるでもないが、応じようともしない。
 リーダーであり、リードギターのハイルはメンバーの誰よりもこの日を忌避していた。自分が集めた初めてのバンドであるサラマンドラでメジャーデビューまでこぎつけた時は、まるで夢の中にいるような気分だった。と同時に、自分の宝物を手にしたばかりの少年のように、そのことを誰よりも大切に思い、メジャーシーンに執着していた。日々の練習やライブの手配だけでなく、プロモーションとしての様々な活動にまで手を広げる必要があれば、第一にハイルが動き、他の4人の尻を蹴飛ばすように動かした。
 だからそれをあっさりと粉々にしたスキャンダルに、ハイルは猛烈な怒りを覚え、それを隠そうともしなかった。仕方なくやったことではない、不誠実さと不注意から起こったことだ。発覚した時点では致命傷になるとは限らなかったが、デビュー直後で実績がなかったことと、人脈のなさが凶と出た。事務所はスキャンダルの原因となったヴォーカルのケイジを切るよう指示したが、それはハイルにとって解散指示と同義だった。
 咎め立てたハイルと、基本的に悪いことをしたとは思っていないケイジは激突した。実際に、口で言い合うだけでは収まらず、事務所の一室でつかみ合いになったのだ。リザとカイトはすぐに退避したが、リズムギターのシンは間に入って必死で止めた。止めた結果、頭に血が上っているハイルにもケイジにも散々ののしられた挙げ句、押しのけられたはずみで眼鏡を割ってしまい、危うく失明するところだった。様子を窺っていたカイトがすぐに連れ出し、幸い大事には至らなかったが、2人の間に立った者の気まずさがずっと残っていた。

「はーい、本番5分前でーす!」
 スタッフの声に、5人は無言のまま一斉に立ち上がった。一度袖に集まってプログラムの最終確認をし、体と心の緊張をほぐす。やがて観客席の証明がすっと落ちた。間断なく続いていた観客のざわめきが、わぁーっという歓声に変わる。スタッフの方を一度窺ってからカイトがまず駆け出し、すぐにリザが続く。シンは一瞬とまどってからその後を追う。ハイルは厳しい顔を崩さないままケイジを振り返った。ケイジは何も答えない。ハイルも何も言わずに、ステージに駆け出した。4人がそれぞれ楽器を構えた。それを確認して、ケイジもファンの前に姿を現した。

 インディーズバンドのライブだとは想像できないほどの熱気が会場に充ち満ちていた。このバンドの姿を見るのは最後、というだけではない。この場に集まった客の半数以上は、実はサラマンドラを見に来たのではなかった。客席が暗くなり、全員の視界にステージが浮かび上がった。その時を迎えた観客は、歓声でメンバーを迎えた。
 このバンドは余計なタメを嫌う。すぐに1人ずつステージに駆け込んでくる。まずはドラマーが、続いてベーシストが。この順番も常に一定だ。それぞれのファンや関係者がより大きな拍手や歓声を上げる。リズムギター、そしてリードギター。4人が楽器を構え、すぐにでも演奏できる状態になると、ヴォーカルがゆっくりと入ってくる。その瞬間、これまでの4人への歓声をかき消すような叫びが会場全体から上がった。
「今日で終わりだ!」
 ケイジが叫んだ。轟音のような歓声がぴたりと止んだ。もう一度、ケイジが叫んだ。わぁっと一声だけ、観客が応える。
「思いっきり行くぜぇ!」
 その声が消えるか消えないかのうちに、カイトがハイハットでカウントを入れた。4つの楽器が同時に吠え、観客の声に高められながらの最後の音が流れ始めた。

 ハイルはじっとケイジの横顔を見つめていた。体はリズムを取り、ギターを操っているが、その視線は手元でも客でもなく、マイクを両手で握りしめてかじりつくように歌うケイジの姿を追っていた。メインスピーカーを通じて会場に響き、モニターから自分の方へと返ってくる声は、かつてハイル自身が身震いするような驚きを感じた力を全く失っていなかった。むしろ日々の練習やライブを重ねてきたことで技術も喉も鍛えられたのか、輝きを増している気がする。それが嬉しくもあり、悔しくもあった。とびきりの原石は自分のバンドの中でより大きく育った。そのケイジに自分の曲を歌わせられるのはこれで最後だ。

 ケイジはほとんどトークを挟まず、ほんの一言二言叫ぶだけで次の曲へ移る。実際喋って繋ぐのは苦手だからなのだが、サラマンドラでは無理をする必要はない。曲の数も集中力も、DJが繋いだように切れ目のほとんどない演奏に十分耐えうるからだ。ライブ中にケイジが最も心地よく感じるのはこのことだ。歌いたいと思えば、いくらでも歌える。そして曲も演奏者の腕も、ケイジの求めるレベルを十分クリアしている。
 サビを歌いきり、ハイルの指が指板を踊る。機関銃のように流れ出る音にケイジは乗るだけでいい。ハイルは悔しさも怒りも、そして喜びも全てをごちゃまぜにしてギターに載せた。一瞬閃いた理性が、フレーズの途中で一度だけ顔を上げさせた。リザと視線が合った。それを意識すると、すぐにギターに意識を集中した。
 ケイジは乗るだけでいい。リザの視線に乗って送られた指示のままに、カイトとシンはリザのアドリブのフレーズにタイムラグなしで合わせた。楽譜上では16小節しかないはずのギターソロが、当然のように17小節目を通過していったのだ。カイトはソロの間中、穴があくほどハイルを見つめている。次から次へと流れてくるソリストの音にポリリズミックなフレーズを当てていくための、カイトの癖だ。そのカイトをリザとシンは冷静に見つめ、揺らぐビートを抑えて揺るぎない基盤を構成する。
 ソロが終わりに近づいているとは客は思わなかった。それでもハイルのソロに絡むように入ってきたケイジのヴォーカルは、そのまま半分ソロのように音量を絞って弾き続けるハイルの意図をしっかりと掴んでいた。そのまま楽譜に戻り、曲は終わりに向かう。

 ライブの終わりは、これまで発表したことのない曲だった。聞いたことのない曲名とモニターにどっかと腰を下ろしてしまったハイルの姿に、客は一様にざわめいた。イントロはざわめきにかき消されそうなほど静かなフレーズだった。ディストーションを切ったエレキギターは鎧を脱いでしまったような細身の音だ。それにケイジの歌が入った。もうざわめきはない。どれほど驚いていようと、ギターと声が一体化したような音に聴き入るしかなかった。
 最初は立って歌っていたケイジも、すぐにハイルの隣に腰を下ろした。最初は定位置を動かなかった残り3人もそれぞれに動いた。シンはそっとギターをエレアコに替え、リザはステージの真ん中に座る2人に寄っていった。カイトは立ち上がると、ドラムセットの影に置いてあった一対のウッドブロックを片手に、椅子をもう片手に持ってドラムの前に出た。椅子をリザに差し出して座らせると、自分はその側に立ってウッドブロックを両手に持ち直した。
 これまでに一度もやったことのなかった編成だった。シンがアコースティックの音でソロを取り、機械のようにロングトーンを鳴らすリザの隣で、カイトがこれも機械のようにウッドブロックを3拍目に打ち鳴らす。ソロが終わるとシンは音を止め、4人が残った。3人の伴奏を得てケイジは、深い水の底のような、静かで穏やかな別れを歌い続ける。そこには既婚の女性と浮気をしていた男の俗な臭いはなかった。
 音が止み、同時に照明がすっと落ちた。一瞬、止みと静寂とがライブハウスの中に訪れた。それが染み渡った瞬間、爆発するような歓声が起こった。アンコールの手拍子が響き始めるが、それを拒絶するように、通常照明が観客と誰もいなくなったステージを照らし出した。

 ライブを終えた後、スタッフに5人で挨拶に回った。これまではそれぞれに挨拶を交わしてはいたが、こうやって全員で回ることはなかった。最後だから、とハイルが連れて回っているのだ。こういうことはあまり好かないケイジも、神妙な顔で、とはいかないまでも大人しくついてきて、一緒に頭を下げて回った。
 それも終えて、自分たちの片づけが終わると、5人は揃ってライブハウスを出た。室内の猛烈な熱気に慣れている体には、10月の夜の空気は寒いほどに感じられる。普段なら反省会を兼ねて飲みに行くのだが、今日はなんとなく最寄り駅に向かって歩き出した。ライブの後の心地よい脱力感と寂寥感とに包まれて、駅に着くまで誰も口を開こうとはしなかった。
 ケイジ、ハイル、シンの3人が一方、カイトとリザがもう一方に乗る。一本しかないホームはそれなりに人が立って、思い思いに電車を待っていた。ライブ自体が終了してから結構経っているので、客にぶつかることはなかった。そうでなければ、まだ誰もこの5人に気付くことはない。
 ケイジたちの乗る電車の方が先に着いた。駅内のアナウンスでホーム全体が騒がしくなった。
「じゃあ、またな」
「おう。またどっかで一緒にやろうな」
 ハイルが手を挙げると、カイトがにこやかに応じた。続いてシンと、そしてケイジと握手を交わす。リザも極力明るく、別れの言葉を口にした。
「オマエらさ、俺がこれまでやった中で一番うめーよ」
 ケイジの言葉は唐突だ。最後まで変わらないその調子に、リザは思わず笑った。カイトは正面から褒められて少しはにかんだ。
「じゃーな、ケイジ」
「おう」
 3人はドアが閉じられる寸前に順に列車に滑り込んだ。と、最後のケイジの肩がドアに引っかかった。ぐお、と呻いたのがカイトの耳にまで届いた。思わず先に乗っていた2人が両側からドアを押さえながら、なんとかケイジの体を中に引っ張り込んだ。駆け込み乗車はおやめ下さい、というアナウンスと、残ったカイトとリザの笑い声に見送られて、電車はするすると駅を離れていった。

posted by alohz at 03:40| Comment(0) | TrackBack(0) | [短編]音楽的 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年11月01日

仕える者

 日が暮れる頃合いになって一気に3人が帰ってしまい、急に静かになった部屋で、あたしと典子[のりこ]は2人、ちびちびと日本酒を傾けていた。おっさん臭い、と言われようが、これが一番美味しいんだからしょうがない。さっきまであれだけきゃーきゃー騒いでたのが嘘みたいに、ぽつぽつと言葉を交わしながらぽつぽつとお酒を口にする。
 中学からの仲良し5人組で鍋をしよう、と言い出したのは誰だったか。全員が無事に大学生になってから1年弱が経って、雪が降るんじゃないかってぐらい冷え込んだ正月過ぎ。材料を持ち寄りにしたら野菜とお餅ばっかりになったから、どうせお菓子もないし、と買い出しに行った。そのついでに近所にある酒屋でビールから日本酒までいくつかアルコールも仕入れた。今あたしたちが飲んでるのもその残りだ。
「前に麻耶[まや]に会ってからどれぐらい経ったっけ」
「……もう半年ぐらいじゃん?前にあったの夏だもん」
 典子が聞いてきたので、あたしは少し考えてから答えた。そっか、と簡単に答えた典子は、たぶんあたしと同じことを考えてるだろう。麻耶だけじゃなくて、あたしたち5人が前に集合したのが夏だった。その時は5人で徹夜で飲んで、いろんな話をした。
「半年もありゃ、いろいろあるか」
「そうね……」
 やっぱり、同じことを考えていた。初めは1人だけ餅を持ってこなくてみんなの喝采を浴びた麻耶が、酒が回る頃にはその話題で今回の再会飲みの主役になった。たぶん素面だったら言ってくれなかった、と思うぐらい、重大で突拍子もない話だった。

「麻耶んとこはいいよねー。彼氏すっごい優しいんでしょー?」
 そう話を振ったのは、ついこないだ前の彼と別れたばかりのあたしだった。同い年だったのだけど、どうにも冷たくて、あたしの方が耐えきれなくなったのだ。麻耶は高校3年の時に付き合い始めた4つ年上の彼氏と、もう2年近く続いてる。
 ちょうど隣に座ってたあたしが、どうよ、と肩で肩をつつくと、少し顔を赤くして小さく頷いた。酔ってても酔ってなくても、自分の恋愛話にだけ妙に照れるのはこの子の癖だ。おおーっと全員の視線が集中する。少し小さくなった気がするが、それでも嬉しそうな幸せそうな顔をしてる。
「いいわねぇ。一緒にいれば優しいし、ちょっとした物ならおごってくれるし、誕生日は忘れないし、毎回駅まで送ってくれるし、ねぇ?ちょっと変な人だけどいーじゃん」
「うわ、いいなぁ。あたしの彼氏、どこ行っても送ってくれたことなんかないよ」
「てゆーか雫会ったことあんの?」
 雫、はあたしのことだ。前に一度、麻耶と彼氏が一緒に歩いてるところに偶然会ったことがあって、その時に挨拶だけじゃなくてお茶まで一緒にしたから、なんとなくどういう人かは知ってる。見た目には十人並みのやせた人だったけど、麻耶にすごく気を遣ったり優しく接してるのはすぐにわかった。
「あるある。なんかねー、麻耶のこと本当に大切にしてるって感じだった」
「で、どうよ最近」
「……最近……って言うか2、3ヶ月前ぐらいからなんだけど」
 うんうん、と全員。
「先輩の家に住んでるの」
 いきなりの爆弾発言に、全員が目を丸くした。誰もグラスを口にしてなかったのはラッキーだったかもしれない。
「ちょ、ちょっと待って。麻耶、あんたもう同棲してるってこと……?」
「ど、同棲って言うか……居候って言うか……」
「同棲じゃん。もう毎日アツアツって感じ?」
「ちょ、ちょっと違うの。そういうのじゃないのよ」
 照れてるせいかどうもまごまごと要領を得ない麻耶本人を置いて、あたしたちはてんでに騒ぎ合った。同じ大学1年の友達が1年半付き合ったとはいえ同棲始めれば、そりゃあショックだ。それも、5人の中で一番恋愛経験の少ない子が。
「じゃあ何?毎朝おべんと作ったりしてるわけ?んで夜は晩飯作って風呂湧かして、あなた、ご飯になさる?それともお風呂?みたいなことを」
「典子、古い」
 麻耶は照れていても突っ込みは忘れない。
「お弁当も作ってるけど、家のことは全部私がやってるよ。その代わり、私家賃とか食費とか全然払ってないの」
「へー。じゃ労働奉仕ってことか」
「うん。学費だけは親に出してもらってるけど、生活費は最初にちょっともらったっきり全然くれないから……」
 親の話になると、少し表情が曇った。麻耶の両親はずっと仲が悪かったし、麻耶も四六時中いがみ合っている両親と一緒にいるのは苦痛だったらしい。親と仲が良くないのはあたしたちもよく知ってるから、自然にみんなフォローする。
「ま、でも、先輩働いてるし、麻耶の分まで稼いでくれてるんでしょ?」
「うん」
「ならいんじゃない?第一先輩がいてもいいって言ってくれたんっしょ?」
「いーなぁ、愛されてんじゃーん」
 あたしは半分フォロー、半分本気でため息をついた。ついでにほとんど空いている缶ビールを缶のままあおった。
「まあ飲め、雫」
「おうよ」
 グラスには既に次のビールが注がれている。見れば、麻耶も珍しくサワーを全部飲み干して、ビールを少しばかり口にしている。みんな大体そんな感じだ。
「いてもいいって言ってくれたっていうか……」
 麻耶が微妙な顔でさっきの話を続けた。典子がすぐに後を継ぐ。
「いろって言われた?」
「うーん。俺のもんになるなら一生飼ってやるって」
 即。場が静まりかえった。
 麻耶はそれに気付いてもいないみたいに、ビールをそーっと飲んだ。胃まで運んでから、独り言みたいに続けた。
「私も最初びっくりしたの。だけど、親とケンカして飛び出して来ちゃったみたいな状態だったし、先輩んちに夜中にいきなり行ってね、泣いたの。そしたらその晩は泊めてくれたんだけど、次の日に、家に戻るなら送ってくけど、ここにいたいならいてもいい、って言ってくれてね」
 少し間があったけど、誰も口を挟めなかった。
「家に帰りたくなかったから、私が先輩といたい、ってまた泣いて、そしたら、俺の物になるか、って。で、うん、って言ったら、家まで送ってくれて、うちの両親とケンカしてね。結局あたしは先輩の物になったの」
 あたしが酔ってるせいか、麻耶の方が酔ってるからか、顛末がわかるようでよくわからない。みんなもそうだったんだろう、智美[さとみ]が訊いた。
「で、じゃ、今先輩の彼女って言うか、ペット……ってこと?」
「うん」
 麻耶はなぜか嬉しそうに頷いた。それがかえってあたしたちをどことなく不安にさせる。智美の口にした『ペット』という言葉が、麻耶の状況を変な風に想像させる。
「ちょっと麻耶。それって、具体的にどんな感じなの?変なことされてない?」
「……変なこと?」
 あたしの質問に、麻耶は逆に訊いてきた。それも困る。どう答えたもんかと考えてると、麻耶は自分でも何か想像がついたのか、首を横に振った。
「別にされてないよ。家事は全部やるし時々買い物したり肩揉んだりするけど、無茶なことは先輩言いつけないから」
 想像より平和な発言を聞いてほっとする一同に、付け加えるように言った。
「それにね、先輩昔より優しくなったんだよ」
「……なんで?」
 あたしと典子がハモった。それがおかしかったのか、麻耶は少し笑った。思わず典子と顔を見合わせて、あたしが続けた。
「昔よりって、先輩昔からすんごい優しかったみたいじゃない」
「ふふ。うん、それもそうなんだけどね。元々気遣いとかそういうの苦手な人なんだ、先輩。それを頑張ってあたしに気を遣ってくれてたの。だけどね、今は全然気を遣わなくなったの。一緒にいてもずーっと何にも言わないこともあるし、きついこともぽんぽん言うし、平気であれこれ命令するし」
 そう言ってまたビールをゆっくり飲む。あたしたちもつられてそれぞれ手元のグラスを傾けた。
「でもね、夜先輩が遅くまで仕事してる時とか、あたしが待ってたら先に寝ろって絶対言ってくれるし、服とか必要な物は全部買ってくれるし、夜は住んでるアパートの向かいのコンビニ以外には絶対に買い物させないの。7時とかでもだよ?」
 それはすごい、と思わず唸ってしまう。あたしの周りにそんな器用な気の遣い方をする人はいない。
「それにね、本当はあたし、大学止めようと思ったの。お金とか余分にかかるし、どうせ先輩に一生お仕えするんなら仕事もできないしね。そう言ったんだけど、先輩ダメって言うの。学費もらえてるんだから最低でも学士は取れって」
 それも唸ってしまう。相手が社会人だからしれないけど、あまり「学士は取れ」なんてことを言ったり言われたりする状況が浮かばない。
 ところで、さっきペットって言われた時に気になったことが2つあった。1つは俺の物だから、と先輩に変なこと―Hなこととか無茶なこととか―をされてるんじゃないかってこと。もう1つは今日みたいな時のことをどうしてるのかってことだ。大学にいる限り、飲みは避けられない。
 2つ目の方を訊くと、麻耶はあっさりと答えた。
「大学の飲み会は大抵夜だから抜けちゃうけど、昼間は先輩会社だからあたしも何しててもいいの。もちろん家事はしなきゃいけないし、たまに電話で何買っとけとか言われることはあるから、そういうのは帰ってくる前に買っとくけどね。だから今日も先輩が帰ってくるまでは平気」
 あたしはそれで納得がいった。麻耶を誘った時に、6時までなら、と条件をつけたのだ。あたしの知る限りではバイトもしてないのに6時まで、と言われたから、おかしいなとは思ってたのだ。
「でも最低でも学士取れってさ、要は院行けってこと?」
 そう言ったのは和子[かずこ]だ。国文科にいるせいか、あたしたちが気にしない言葉まで気にする。今のも、和子以外は意味がわかってない。
「どして?」
「だって、『最低でも』ってことは『願わくば』が後に来るわけでしょ?」
「うーん……行きたければ行ってもいいってことだと思うけど。別に行けって言われたことないし」
 まあ、それはそうだろう。学費が出るかどうかもわかんないのにわざわざ院に行かせる意味はない。
「でも、勉強はできるだけしろって言ってたなぁ。そうそう、パソコンとかも教えてくれるんだ。先輩の仕事手伝えるぐらいになったらいいんだけどね……」
 にこにこしながら言う。その笑顔を見てたら、余計なことを言おうという気が失せてしまう。それでもこれだけは確認しておかないと。
「まあ何にせよ、とりあえず麻耶、今の生活に特に不満はないわけね?」
「もちろん。むしろすっごく幸せだよ」
 あたしの問いかけに、麻耶は満面の笑顔で答えた。

「最初はさ、先輩に騙されてんじゃないかと思ったんだけど」
 典子はちびりと日本酒を含んで言った。あたしも頷いた。全く同感だった。
「人を飼うとか平気で言えるっておかしいよね。それも、元カノ、って言うか今付き合ってる娘にさ」
「うん」
 それでも、それをストレートに口にはできなかった。麻耶は付き合い始めた頃から先輩が誰より好きだと言い続けてきた。それにさっきの様子を見てても、新婚3ヶ月のようにしか見えない。その後もわかるようなわからないような惚気を聞かされて、「あんたそれ騙されてない?」とはとても言えなかった。
「あんなけ幸せそうだとかえって何か怖いわ。なんか2、3年したら先輩のためとか言って体売ってそう」
「……なんとなくわかるけど。でも先輩ってそういう人じゃないとは思うわ。実際性格とか知らないけどさ、会社もそこそこいいとこ入ってるし、麻耶の話を聞く限り社会人としてはまともっぽいよ」
 あたしの言葉に、典子はうーん、と唸った。結局直接会ったことがないから、典子には『先輩』がどんな人なのかイメージできないんだろう。
「信用できそう?」
「だと思うけど」
 あたしはそう言って、ふと思い出したことがあった。
「どこ行くの?」
「ん、ちょっと」
 そう言ってあたしはこたつを抜け出すと、机の上においてあったかばんから財布を出して探った。目当ての物はすぐに見つかったので、それを持ってまたこたつに潜り込む。
「……(株)ニューコム・システムズ、システム事業部、北田雄治……誰の名刺、これ?」
「件の『先輩』の。前に会った時にくれたの忘れてたわ」
 あたしがそう言うと、典子は目を覚ましたみたいにその名刺をまじまじと見た。ひっくり返すと、裏側は英語の名刺になっている。しばらく観察して、視線をあたしに向けた。右の口元がきゅっと上がっている。何か思いついた顔だ。
「何企んでんの?」
「……会いに行ってみよっか。あたしたちの大事な親友飼ってるって奴に」
 そう言ってひらひらと名刺を振る。そこには会社の住所と電話番号、メールアドレス、それに携帯の番号とアドレスも書いてあった。ただし、自宅の住所は書いてない。会社用だからね、うちの住所なんて書いてホントに誰か来ちゃったらヤでしょ、と笑ってたのを思い出す。
 あたしも典子と同じように、にやっと笑った。

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2004年10月01日

図書館

 わたしが扉の前に立つと、石とも金属ともつかない、重そうな扉は音もなく左右に滑り、わたしのために道を空けてくれた。踏み込むと、冷たい空気にすぅっと体を包まれた。

……こんなとこなんだ、ここの図書館って

 故郷の街の図書館と違って子供の声がしない。さわさわとかすかなざわめきがするが、その言葉ははっきり聞き取れるほど大きくない。書架の方からは足音が少し聞こえる。中に入ると、すぐ左手にカウンターがあった。この大きな図書館には不釣り合いな、小さなものだ。眼鏡をかけた男性と小柄な女性が座っている。その背後には大きな大きな棚がある。引き出しは手のひら1つ半ぐらいだから、あれは検索カードを収めてあるのだろう。幅はカウンターと同じぐらいで、高さは私の背丈の3倍ぐらいだろうか。奥行きは正面からだとよくわからない。
 右手の方に書架が延々と並んでいる。座席は書架の間に1つ見える。あとは正面だ。やはり、広い。

初めての方ですか?

 柔らかい女性の声がわたしにかけられた。振り向くと、カウンターにいた女性の司書さんがわたしにほほえみかけていた。

……ええ。ここは広いんですね。

 わたしがそう言うと、彼女は軽くうなずいた。
 何か手続きでも必要なのだろうか。そう思ってわたしは彼女に近づいた。

……何か、登録とかいるんですか。

 彼女は一瞬、きょとんとしたが、すぐにまたほほえみを浮かべた。

いいえ、特に必要なことはありませんよ。初めてでしたら館内をご案内いたしましょうか?

 今度はわたしがきょとんとする番だったが、すぐに元の表情に戻して言った。

……いえ、自分で見て回ります。時間はたっぷりありますから。

 そう言う人は他にもいるのだろう。気分を害した様子もなく、それではごゆっくり、と言って、自分の仕事に戻った。手元に散らばったカードに台帳を見ながら書き込んでいる。検索カードは手書きなのか。思わず彼女の後ろにそびえ立つ――近くに立つと本当にそびえ立っている――カード棚を見上げた。気が遠くなりそうだ。
 ゆっくりと書架の間を歩いていく。しんと静まり返った書架の間で、時々立ち読みをしている人がいる。書架に並ぶ背表紙は装丁も言葉もばらばらだ。わたしには大半が何の本やらわからない。一応書架ごとに分類記号とその内容が掲示されている。
 わたしは書架の森を歩き続けた。人種も年もそれぞれな人々がそれぞれ自分の世界の中で本を読んでいる。書架は永遠に続くかと思えるほどひろかった。そしてその大半を書架が、すなわち本が占めているのだ。わたしの心は少し高揚した。

……ここなら。

 そう、ここならわたしの読みたい本はきっと見つかる。何しろここには地上の本は何でもある、天界に唯一の図書館なのだから。
 ようやく目当ての書架にたどり着いたわたしは、自分にもわかる言葉の本を1冊棚から出した。特に選んでなどいない。私に与えられた時間の枷は既にない。望む限りの時間を私はこの図書館に費やすことができる。わたしは近くの空いた机につくと、かつては手にすることもできないと思っていたその本を、開いた。

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2004年09月26日

贅沢な日常

 2階の座り慣れた椅子に腰を下ろして、ホッと息をついた。斜め下に見えるTV画面には、見覚えのある女性シンガーがビッグバンドを従えて歌っていた。スピーカーはライブ演奏と共用のものだから、音はいい。音源がDVDなのだから余計だ。
 一曲丸々聞き終える前に、コーヒーを持ってきてくれた。ここはバーなのでさすがに驚くほどの味じゃないが、その辺の安いカフェのレベルは十分にクリアしているので、問題ない。熱いうちに一口。
 今日は金曜日だから、ライブはファンク主体のバンドだ。ヴォーカル兼ギタリストは魅力的な声をしていると思うけど、どうやら録音はなさそうだ。洋楽のコピーが主だからかもしれないが、でもそれは俺が彼の歌をライブバーでしか聴いたことがないからかもしれない。その辺りの事情はよくわからない。時間が近づくにつれて、キーボードやベースが準備を始め、俺は a day を広げた。内容が濃く字も小さいから、照明の暗いここではいつもより時間を食う。ゆっくりと読んでいると、突然ピィーッと耳をつんざくような音がした。驚いて目を上げたが、音の出所はわかっていた。ベースアンプの電源がオンになっている時にシールドを挿そうとしたのだ。何度も聴いたノイズだ。毎週同じセッティングでやってるはずなのにな……。開演前に雑誌を読んでいる間にもう2回、アンプからのノイズにびっくりさせられた。

 隣に人が来た。フロアのリーダーかマネージャーでもやっているような、年上のウェイターだ。俺が1人なのを気にしてくれているのか、時々話をしに来てくれる。別に大した話をするわけではなく、ほんの挨拶程度の会話だが、彼は俺がライブ目当てなのをわかっていて、「あと少しで始まる」とか「今日はどうだった?」とか、英語混じりで話しかけてきて、いわば「空白を埋めて」くれる。
 彼が去って、文字にまた目を落とす。ゆっくりゆっくり読みながら、頭がぼうっとしてきた。ふと気付いたら寝ていて、はっと目を覚ます。これから音楽を聴くのに、これじゃまた聴きながら寝てしまう。本は諦めてカバンにしまった。さっきまでBGMにしていたDVDにしっかり視線を向けると、ハスキーな歌声に少し頭を刺激された。目が覚めてくる。
 前奏が始まった。え?と思ってステージに目を向けると、いつの間にやら全員揃っていた。準備はとっくに終わっていたのだ。俺は少し浅く座り直すと、サックスのメロディーに耳を傾けた。

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2004年09月11日

酔っぱらい

 遙[はるか]は食卓の隅っこでこちこち、と音を立てる置き時計をちらりと見上げた。日付が変わってから5分と15秒。食卓で雑誌を読んでいた彼女は、はぁと軽くため息をついた。同居人は、まだ帰ってこない。
「……遅ぇ」
 読んでいた音楽雑誌を乱暴に投げ出した。元々課題も終え、その他の勉強にも飽きて、同居人の和紀[かずき]の部屋から勝手に持ち出したものである。四六時中音楽のことが頭から離れない彼にとっては面白いだろうが、門外漢の遙にとってはいまいち掴み所がない。以前和紀がファッション雑誌を変な顔で読んでいたことがあったが、たぶんさっきまで自分も似たような顔をしてたのだろう、と思う。
 大学の図書館から借りてきた本の上に和紀の雑誌を積んで、椅子の背もたれにだらりと背を預けた。首だけを傾けて、チェストの上の電話をぼーっと見つめた。友達と飲みに行くけど今日中に帰る、というメッセージを残したのが7時過ぎ。遙が帰宅して留守番電話に入ったそのメッセージを聞いたのが8時過ぎ。1人分の食事を作って食べ、軽く筋肉をほぐしてから風呂に入り、大学の宿題を片付けたり本を読んだりしていたらもうこんな時間だ。
「先寝ちまうぞ……?」
 それでも寝ようとしないのは、前に自分が飲み会に連れ出されて遅くなった時、今ぐらいの時間まで和紀がずっと起きて待っていたからである。実際には和紀はいつも日付が変わる頃まで起きているので、特別頑張っていたわけではないのだが、遙はそれ以来、和紀の帰りが遅くなる時は起きて待っているようになった。おかげで、たまに時間の潰し方がわからなくなるぐらいに待たされる。
 することがなくなったので、雑誌と本を片付けた。3分と経たずに完璧に片づいてしまい、またすることがなくなった。仕方なく和紀の部屋にあるラジオのスイッチを入れた。深夜にも関わらず、元気におしゃべりをするDJの声をぼーっと聞いていたら、段々眠くなってきた。これはいかん、と冷蔵庫を開ける。
「あ、やべ。そろそろ牛乳がなくなるんだった。明日は……和紀に任せるか」
 よく冷えた麦茶をぐっと飲むと、少し眠気が覚めた。改めて和紀の部屋に戻ると、雑誌ではなくマンガを手に取った。たぶん少しは楽しめる。4コマで独り笑いする気にはならなかったので、少しストーリーのあるものにした。
 自分の部屋がちゃんとあるのに遙が和紀の部屋を出たり入ったりするのは、和紀本人もよく知っている。知っているが、放っている。遙の部屋には大学で使った本や武道に関するものはたくさんあるが、娯楽が少ないのだ。逆に和紀の部屋には少々値の張るオーディオ機器とパソコンを始め、マンガや雑誌、文庫本などが本棚にたっぷり入っている。飾り気がないのは両方に共通しているが、中身はまるで違うのである。そんなわけで、遙は和紀の部屋で時間を潰すことが多いし、逆に和紀は何か調べたいことがあると、辞書や学術書が置いてある遙の部屋に来る。

 ぴんぽーん、と気の抜けた音がした。遙はぱっと反応すると、マンガを元あった場所に素早く戻して、ラジオはそのままに玄関に向かった。食卓の時計はさっき見た時から20分ほど進んでいる。終電でなんとか帰ってきたに違いない。そう思いながら、遙はドアを開けた。
「お帰り。遅かったな」
「ただいまー」
 ドアの前には、彼女の同居人、小川和紀の姿があった。ただし、頬から耳まで真っ赤である。
「……思いっきり酔ってやがるし」
 思わず悪態を吐いて、それでも、立ってるだけでふらふらと危なっかしい和紀の手を引いてやった。
「うー……頭がぼーっとしてる……」
「見りゃわかる」
 鍵とチェーンをかけると、和紀を食卓まで連れていった。鍵をかけている間に横からしがみつかれてしまったので、肩を貸してるような格好である。
「むー」
「ほら、水飲め、水」
 そう言いながら麦茶をコップ一杯に注いでやる。渡してから落とすかもしれないと一瞬心配になったが、ちゃんとコップを掴んで、一口飲んだ。
「うー……これ、お茶じゃん」
「変わんねーだろ、いいから飲め」
 違うじゃん、と言いながらも残りを一気に飲み干した。コップを遙の方に差し出したので、もう一杯注いでやる。それも一気に飲み干して、今度はテーブルの上に置いた。置いてから、次の動きがない。
「こら和紀、お前そんなとこで寝んな」
「寝てない寝てない……」
 そうは言いながらも、まるで動こうとしない。遙はもう一度ため息を吐くと、後ろから和紀を抱え上げた。脇の下に腕を入れて、思い切り持ち上げたのである。酔っぱらい相手なので猛烈に重いが、日頃から鍛えている上半身はなんとか60kg弱の負荷に耐えている。
「……こら、自力で歩けっ」
「ん……」
 椅子から無理矢理引きずり下ろすと、なんとか自力で立った。ほっとして手を放すと、体の向きを変え、そのまま遙に抱きついてきた。一瞬前に気付いて構えてなければ、そのまま押し倒されていたかもしれない。
「おわっ!」
「はるかー……」
「な、何すんだよいきなり。重いっ!」
 遙はなんとか引っぺがそうとするが、和紀はしっかりと遙の背に腕を回して外れない。しばらく頑張っていたが、先に遙の方が諦めた。諦めて、その格好のままずるずると移動し始めた。とにかく寝かせてからである。
「はるかー」
「なんだ。吐きそうか?吐くなら先に言えよ、袋持ってくるから」
「んーん、そうじゃなくて」
 遙は肩に吐かれる恐怖感よりも、和紀の顔が自分の首筋に埋まっているのが気になって仕方がない。おかげでうっすらと顔が赤くなってるのが自分でもわかるし、声を出すと思わず早口になってしまう。それに気付いていないのか、和紀は普段よりものったりした口調で言った。
「はるか、いい匂い」
「……ばっ……てめ、何言ってんだよ!変態かお前はっ!」
 遙の顔が一気に真っ赤になった。思わず足が止まってしまう。首筋からは不満げな声が聞こえてくるが、その声と一緒に息が出てくるのがくすぐったい。寝間着代わりのTシャツではまるっきり防ぎようがないのだ。
「変態はないでしょー」
「ならそんなこと言うなっ!思ってても声に出すなっ!」
「うーん……確かにそうかも」
 ったく、と呻いてから遙はずるずると移動を再開した。まだ食卓から和紀の部屋の敷居までの半分までしか来ていない。それを認識して、ベッド代わりに和紀が使っているマットレスは部屋の奥の方に立ててあるのに気付いた。一刻も早く放り出したかったので、すぐに目的地を自分の部屋に変更した。
「でも、ほんといい匂い。なんつーか、女の子の匂い」
「……だーかーらー!もう言うなっての」
 遙の声が少しだけ、いらだちを含んだ。が、すぐにそれは収まった。和紀のピンク色になった首が見えたのだ。
「怒るなよう。遙は女の子じゃん」
「わかったから」
「こんなにかわいー子そうはいないよ、ってぐらいの女の子じゃん」
 そう言って、和紀の腕の力が少し強まった。元々ゼロに近い距離が更に縮まる。また遙の足が止まった。
「普段はかっこいいし、俺よりよっぽど強いし頭いいし、ちょっといじったらすっごいかわいいし」
「……そーかそーか」
 遙は無理矢理足を進めた。酔っぱらいの言葉をいちいち真に受けても仕方ない。そう自分に言い聞かせて、脱力して重たい和紀の体を引きずりながらなんとか敷居を越えた。
「もう、大好きだよ、はるか」
「……!!」
 もう後2歩で和紀をベッドに放り出せる、その位置で遙の足がまた止まった。というより、止まらされた。
「家族としてもすっごく好きだしー」
「……そっか」
 思わず吐息が漏れる。と同時に危うく力が抜けそうになった。
「女の子としても好きだしー」
 和紀の言い方はあくまでも何気ない。まるでカレーが好きだとでも言っているように。
「だからさ、一緒にここにいられて、俺すごい幸せだよ。飯作ってくれる時とか、俺の作った飯食べてくれる時とか、当たり前のことみたいに俺の部屋で寝っ転がって一緒に音楽聴いてる時とか」
 歌うように、和紀は言葉を継いでいく。遙にはそれがするすると耳に入ってきて、心に直接吸い込まれていくような気がする。と同時に、一言一言がとんでもなく恥ずかしい。
「なんか、同じ部屋で毎日顔合わせててさ、全然それが気になんないんだよ。でも嬉しいの。キスとかエッチとかしてないけど、なんか結婚したみたいな気がしてさ」
 このままだと抱き合ったままいつまで続くかわからない。遙は固まった体を叱咤して、なんとか足を再び動かした。ずり、ずり、ずり、と少しゆっくり動いて、なんとかベッドまで辿り着いた。
「ほら、着いたぞ。寝ろ」
 必死で心を落ち着かせて口を開くと、なんとかまともな声が出せた。体を軽く押してベッドに座らせ、足を持ち上げてやりながら寝転がす。抱きついたまま放そうとしないかとも思ったが、意外にあっさりと腕を解いて、遙に手伝われておとなしく横になった。そのまま部屋を出ようとする遙のTシャツの裾を、和紀が素早く掴んだ。
「……なんだよ」
 くいくいと引っぱるので、遙はまだ熱い顔を意識しながら枕元に戻った。上から軽くのぞき込むと、和紀はにっと笑った。
「ありがと」
「……どういたしまして」
 それだけ言うと満足したのか、和紀はTシャツを放してそのまま寝入ってしまった。普段の寝付きの悪さからは信じられないほど早く、目を閉じたそばから寝息が聞こえてくる。遙はそれを確認してから、そっと部屋を出、電気を消した。そのままさっき和紀が座っていた椅子にどかっと腰を下ろすと、そのまま食卓に突っ伏してしまった。

 翌朝。和紀の調子は最悪だった。
「う゛う゛〜……あったま痛ぇ……」
 元々寝起きが悪いのに加えて慣れない二日酔いで、朝から死にそうな体[てい]である。そして、遙の調子はいつも通り好調だった。
「ほら、お粥にしてやったからしっかり食え」
「うー……さんきゅ〜」
 元々今日の朝食は和紀が用意するはずだったのだが、遙の方が気を利かせて早起きしたのだ。元々寝起きはいいほうなので、一旦起きてしまえば少々早くても問題はない。何もかけずにお粥だけをすする和紀を少々あきれ顔で見ながら、遙の方は梅干しとシラス干しを乗せて食べている。
「味薄くないか?」
「んー、薄いぐらいでちょうどいい……」
「ほんっと朝から死にそうだな、お前」
 なんとか食事を終えると、午前中の授業がない和紀はもう一寝入りである。方や朝から授業の遙はそのまま大学に直行だ。
「なあ、遙。なんか俺、昨日のことあんまり覚えてないんだけど」
「そっか」
 さっさと食べ終えた遙に、ようやく半分ほど減らした和紀が言った。遙は気のない返事をして見せて、内心で安堵のため息を吐いた。と同時に、残念な気持ちも否定できないほどわき上がってくる。それを両方まとめて片付けると、鞄を手に取った。
「じゃ、行ってくるぞ」
「ん、いってらっしゃい」
 まだ食べ終えてないが、和紀は一旦レンゲを置いて席を立った。なんとなくまだゆらゆらしているのが気になるが、後は寝るだけのはずである。どうとでもなるだろうと思うことにした。玄関で靴をはいて立ち上がると、後ろから和紀の腕が巻き付いてきた。
「……なんだよ、そろそろ出ないと俺やばいんだけど」
「昨日のこと、あんまり覚えてないんだけどさ」
 さっきの言葉には続きがあったらしい。遙は軽く相づちをうった。こういう時はさっさと言わせるに限ることを遙は経験上知っている。止めてもしつこく言いたがるのだ。
 和紀はまるで昨日の再現をするように、遙の首筋に頬を寄せて言った。
「遙のこと好きなのは酔ってようが酔ってまいが本心だからね」
 遙はその朝、いつもの電車に乗れなかった。

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2004年07月01日

もしも

 残暑も和らいできた頃。俺の部屋で向かい合って俺と彼女はしゃべっていた。うちの両親が共働きで日中誰もいないから、彼女はよくうちに来る。いつも俺がベッドに、彼女は椅子に座って、いろんな事をしゃべったり勉強を教え合ったりする。今日もいつものように部屋で話をしていたのだが。
「……なによ、それっ!」
 唐突に怒り出した彼女の剣幕に、俺は反射的に身を固くした。彼女の位置は、俺の頬へビンタを食らわせるのに最適な場所だったからだ。が、彼女の利き手は拳を固く握りしめたまま、振り上げられることなくかすかに震えている。
「何怒ってるんだ、突然」
 俺はとりあえず体の緊張を解いてから言った。彼女の怒りは全くもって理不尽だった。少なくとも俺にとっては。ただ、何気なく話をしていただけだ。彼女と出会った時の話を。
「あなたがそんな事言うからよ!」
「そんな事?」
 俺にはやはりわからなかった。いつもは冷静にまっすぐに人を見る目が、今は燃え立つような視線を俺に向けてくる。
「あの時会ってなかったらどうなってたかな、ってのか?」
 烈しい視線をまっすぐこっちに向けたまま、黙って頷いた。やはりその怒りの理由はわからない。
 そもそも彼女と会ったきっかけは別段特別なものじゃなかった。高校の気に入りの場所に俺が座っていたら、たまたま彼女がやってきた。それで何度か会って話をしていくうちに、お互い好きになったから付き合いだした。
「……それって、要はあの時たまたま会ったからそのまま付き合ってるってことでしょ!」
「そうだろ?あの時お前があそこに来なかったら、こういう関係にはなってなかった」
 そう言った瞬間、右頬を思い切り殴られた。座ってたから吹っ飛ばされはしなかったものの、女にしては力のある彼女に手加減無しで拳を振り抜かれて、さすがに少しふらついた。すぐにじんと痛みがきて、無意識に右手が上がる。彼女はそんな俺をもうしばし睨みつけてから身を翻すと、部屋から駆け出していった。たんたんと階段を駆け下りていく音がして、ばたんと玄関の扉が閉められる。ベッドに座ったままそれらの音を全部聴いてから、俺は思わず呟いた。
「……なんなんだよ、一体」

 走り出した瞬間、追いかけようと一瞬腰を浮かしかけたのだが、すぐに思い直して腰を下ろした。初めて会った時には想像もつかなかったが、彼女は一旦怒るとしばらくは全く聞く耳も持たない質だし、第一追いかけても何も言うことがない。何故怒ってるのかやっぱりわからないからだ。
 俺はひとつため息をつくと、階下に降りた。ピアノが置いてある1階の客間の電気を付けて、もう15年以上鎮座ましましている我が家のアップライトのふたを開けた。音楽室のグランドほど響きは良くないが、それでもそれなりの音を出してくれる。少なくとも、プロではない俺にとっては十分なぐらいに。
 習慣にしているハノンを弾く気にもならず、ふたを開けてピアノの前に腰を下ろしたまま考え込んでしまった。何も考えないままとりあえず右手を鍵盤に乗せた。ぽーん、と H の音が客間に響く。何度も同じ鍵盤を押し続けると、同じHの音がぽーん、ぽーん、と響き続ける。それを聴きながら、曲が1つ、頭の中で形になった。
 弾き語りの曲を伴奏だけで弾き続ける。一時期このバンドが大好きで、楽譜を買ってきて猛練習したことがあった。そのおかげで、それなりに難しい曲だが一通り弾きこなせるようにはなった。
 時々喧嘩をする事はあっても、大体原因はわかりやすいものだった。いらついて八つ当たりした時とか、くだらない事でお互いに自分を曲げなかった時とか、会う約束をドタキャンした時とか。こんな風にひとつひとつが原因と共に思い出せる。こんなに原因の見えない喧嘩は初めてだ。なんとなくもやもやした気分を抱えたまま、Em6/B の和音で演奏を締める。
 また少し間を空けて、今度は C メジャーにテンションの混じったアルペジオ。高音部の音から段々中音域に広がっていく。これも弾き語りの楽譜を、口を閉じたまま弾いた。
 自分自身を偽るありふれた哀しさを快活な8ビートに乗せて歌うこの曲は、俺にはあまり関係がない。無理に着飾ったり言動を偽ったりしなくてもいい友達も、恋人もいる。思えば幸せなことだ。

 いつの間にか彼女が戻ってきていた。それを見て取って、今弾いている曲を短く終わらせてバラッドを弾き始めた。D マイナーのその曲を弾くと、背中に感じた温かで硬い感触を思い出す。彼女は何も言わずに突っ立ったまま、じっと耳を傾けている。
 最後のアルペジオの音が部屋から消えた。彼女はやはり動こうとせず、俺はピアノのふたを閉じた。
「もう終わり?」
 水晶のような声に、俺は頷いた。立って椅子も片付けると自室に戻った。彼女もすぐ後ろについて来ている。俺がいつものようにベッドに座ると、彼女はドアを静かに閉めてから、いつも座る椅子を素通りして俺の隣に座った。
「さっきの曲、初めて会った時に弾いてくれた曲だよね」
「ん。少しは落ち着くかなと思って」
 さっきの怒りをどこへ置いてきたのか、俺の肩に頭をもたせかけて無表情で訊いてきた。俺もなんとなく無表情に答えた。新興住宅地にあるうちは、外からの雑音がほとんどない。時計の秒針の音が聞こえるぐらい静かに、俺たちは座っていた。やがて、ぽつりと彼女が言った。
「あたしのどこが好きなの?」
少し考えてから答える。
「側にいると笑ったり怒ったり忙しいところとか」
「それだけ?」
「顔と言わず体と言わず、きれいなとことか」
「うん」
「いろんな音楽聴いていちいち感動するとことか」
「うん」
「俺がずっと黙ってても嫌な顔しないとことか」
「うん」
「意外と料理がうまいとことか」
「『意外と』は余計」
「眠かったら俺がいても寝ちゃうとことか」
「……うん」
「本が嫌いなとことか」
「うん」
「何か気にくわないことがあるとすぐに無表情になるとことか」
「うん」
「それが半日保たないとことか」
「うん」
「……他にもいろいろ」
 彼女はその答えに満足したのかしてないのか、俺の肩に頭を乗せたまま目を閉じた。そのまま、言った。
「もし私がそうじゃなかったら、どうだった?」
「どうって?」
「好きだったと思う?」
 何を求めているのか、いまいちよくわからないまま、即答した。
「それは既にお前じゃないだろ。俺は今ここにいるお前が好きなの」
 彼女が目を開いた。虚を衝かれたような顔で、俺の顔をじっと見ている。
「どうした?」
「……そう来るとは思わなかったわ」
 彼女の声は、いつものアルトに戻っている。頭は乗せたまま視線を前の方に戻して、言った。
「さっきね。せめて、もし別のところで会ってたとしても結局こうなったんだろうけど、ぐらい言ってほしかったの」
「そんなのは別の世界の話だからな。平行世界の事なんて俺は知らん」
 そう言って、彼女の肩を抱いた。相変わらず細いし、あまり女らしい柔らかみがない。彼女ははあ、とため息をつくと呟いた。
「平行世界って言われてもわかんないわよ」
「パラレルワールド、って言えばわかるか?あらゆる瞬間に存在する分岐点を境に区切られた別の可能性の世界、いわば『もしも』の世界だ。さっきお前がここに帰ってこなかったら、あの時お前がまっすぐ練習に行ってたら、俺がピアノを習い始めなかったら、どうなっていたか。それが平行世界だ。それは見ようと思っても推測するしかないし、したところで大した意味もない。現実にはなり得ない世界だからな」
「最後だけはよくわかったわ。確かに、『もしこうだったら』なんてこと想像したって意味ないわね」
 右肩の重みがなくなった。それと同時に、心の中にあった微妙なしこりも消えた。要は、彼女は自分が愛されてる自信がなかっただけだ。馬鹿馬鹿しい、とは言わない。とても言えない。
「同じ想像するなら、未来の事を思った方がいいんじゃないか?建設的で」
「……じゃあ結婚式は洋装か和装か、どっちがいい?」
 今度は俺が目を見開いて彼女を見る番だ。彼女はようやく、にまりと笑った。
「同じなら未来の事の方がいいんでしょ?それとももうちょっと身近に、子供は何人ほしい?」
「……どこをどう見たらもうちょっと身近なんだよ」
「身近じゃない。ねえ、どう?」
 自分の冗談が気に入ったのか俺の反応が気に入ったのか、いつになく絡んでくる。そのにやにや笑いが嬉しくもありうっとおしくもあったから、答えずに口を塞いでやった。

+with the sound of [Unfinished] by X Japan+
+and [Best Imitation of Myself] by Ben Folds Five+

 前編:「水族館

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