2006年01月04日

気まぐれ

 土曜日の午後。一週間で一番のんびりした気分になる日。晴れていたから、朝ご飯の片付けを終えてから、いつも通り散歩に出た。
 少し古い一軒家が軒を並べる住宅地を抜けて、川に出る。そこから土手をまっすぐ歩いて線路にぶつかったところで曲がって商店街に入るのがいつものパターンだ。今日も、手入れの行き届いた植木鉢を見ながら川辺に出た。
 平日だとあまり人もいないけど、土曜日には私みたいに散歩をしてる人がいたり、ジャージ姿でランニングをしてるおじさんがいたり、子供たちが土手を転げ回ったりして、結構人がいる。それでも、人の多いところと少ないところはあるもので、ふと気付いたら辺りは静かで、その静けさを背景に、何か楽器の音が聞こえてきた。柔らかくて優しい音色。
 どこかで聴いたような気はするけど、あいにく楽器とかには詳しくないから、何の楽器かまではわからない。いつもはオーケストラとかバンドとか、とにかくいろんな音が混じってる音を聴いてるせいもある。
 これが何の楽器で誰が演奏してるのか、気になって、土手の下の方を見ながら歩いていると、土手の下できらりと何かが光った。思わず駆けだしてしまった。
 そこには、トランペットを構えたお兄さんがいた。

 私がそばに降りていくと、その人は楽器を吹くのを止めてこちらを見た。
「あ、気にしないで、続けてください」
「……いや、気にしないでって言われても……」
 お兄さんは苦笑したが、私が「そばで聴きたいから」と言うと、少し嬉しそうな顔をして、楽譜に向かった。さっきは見えなかったけど、ずっと楽譜を見て吹いていたみたいだった。
 無造作に楽器を構えて、すっと息を吸った。さっきまで聞こえていた柔らかい音が、トランペットから流れ出す。すごく真剣な目で楽譜を睨みながら、ほとんど音を途切れさせずに吹いた。
 低い音を長く伸ばして、たぶんこれで1曲が終わったのだろう、唇を離して大きく息を吐いた。私が拍手すると、お兄さんはちょっと驚いて、それから笑った。
「トランペットって、そんなに優しい音がするんですね。私、もっとすごく大きな音が出るんだと思ってました」
「ああ、そういうのもできるよ」
 そう言うと、私が止めるより早く楽器をすっと構えて、さっきより大きく息を吸った。近所の学校から流れてきたのを聴いたことがある、マーチだった。間近で聴くと、耳がキーンと鳴りそうなぐらいの音量だ。私が耳を塞ぐと、彼はすぐに吹くのを止めてくれた。
「す……すご……」
 まだ少し頭がくらくらする。そんな私を見て、彼は楽器を口から離して、くすくすと笑った。
「マーチとかやる時はこんなん。普段はさっきみたいに柔らかい音出すようにしてるけどな」
「へー……」
「この辺だったら知ってるんじゃない?」
 そう言って楽器を構えると、目を閉じた。息を吸うと、そっと吹き始めた。さっきみたいな大きな音が来るかと思って少しびくびくしていたけど、今度は最初に聴いたような柔らかい音だった。
 楽譜も見ないで演奏しているその曲は、確かに聞き覚えがあった。何年か前に流行ったバラードだ。元々は女性の曲だけど、トランペットの低めの柔らかい音でもすごく自然に聞こえる。それだけ、この人はうまいんだろう。1コーラス吹いて、メロディーが変わった。普通のメロディーと似てるけど違うメロディーを、さっきよりもずっと感情豊かに吹いた。不自然な感じは全然しなかった。
 お兄さんが口を離すまで、私はほとんど息もせずに聴いていた。じっと耳を澄ませていたから、自分が拍手したときに、土手の上からも拍手が聞こえてきたのでびっくりして思わず振り向いた。ジャージ姿のおじさんが、走ってる途中に聴いたのだろう、ひとしきり拍手をして、また走っていった。お兄さんはおじさんの背中に手を振った。
「すごいですね……」
「そうでもないよ。3年もやってりゃこれぐらいで普通」
「本当ですか?あたしでも?」
「真面目にやればね」
 お兄さんは励ますように笑ってくれた。私は思わず笑い返すと、お兄さんに頭を下げた。
「お願いします、あたしにトランペット教えてください!」
 少し待つ。返事はなかった。困らせたかな、と思って、恐る恐る目を上げると、やっぱり困った顔をしていた。でも、できればこの人に教わりたい。この人みたいに吹けるようになりたかった。
「お願いします!」
 もう一度頭を下げた。お兄さんは私の頭をぽんぽんと叩くと、まぁ頭を上げて、と言ってくれた。
 2人で並んで、土手の坂に腰掛けた。
「別に教えるのが嫌だとかめんどいとかじゃないんだけどさ。楽器やるとなると、とりあえず楽器買わないと」
「……そういえば、いくらぐらいするんですか?」
「まぁざっと10万ちょい」
 私は思わず絶句した。10万円なんて、まだ見たこともない。でも、お母さんを拝み倒して何とかしようと思った。ピアノを習ってる友だちもいるし。
「後ね。3年真面目にやればって言ったけど、俺も最初の半年ぐらいは先生についてたんだよ。で、その時期に基礎の部分をみっちりやって、残りの2年半で曲やったりいろんなトランペッターの演奏を聴いて真似したりしてたんだけど」
 一旦そこで言葉を切った。私は真剣に頷いた。
「最初の半年ってのが結構重要でね。そこでしっかりやって基礎を作っておけば後で伸びやすい。伸びやすいんだけど……まず俺がいつまでここにいるかわかんないからさ」
「え?」
「俺元々ここの人じゃないんだよ。先月来たばっかり」
 それを聞いて最初はびっくりしたけど、よく考えたらそうかもしれなかった。ずっとこうやって練習してた人がここに住んでたら、もっと前にどこかで見たことがあってもおかしくない。
「ずーっとあちこち渡り歩いてるからさ。ここもそんなに長くいるつもりはないしね。だからいつまで君を教えられるかわかんない」
「……誰かに追いかけられてるんですか?」
 私は真剣に訊いたつもりだったけど、お兄さんは聞くなり大笑いした。
「いやいや、別に借金取りに追われてるわけじゃないんだけどさ。俺、飽きっぽいんだよ。だからここにいても、3ヶ月とか4ヶ月とか経ってくると別のところに住みたくなるんだよね」
 私は心配したのに笑い飛ばされたのと呆れたのとで少しむくれた。それに気付いてないように、お兄さんは続けた。
「まぁ他にもいろいろあってね。今は大抵1年と同じところにはいないようにしてるんだ」
「……じゃあ、いる間だけでもいいですから」
「いる間だけでいいなら別にかまわないけど……。あ、それと君いくつ?」
「中1です」
「学校に吹奏楽部かオーケストラ部ない?」
「……たぶんあると思いますけど」
「まぁあるだろうな。そこに入りなよ。管楽器は1人でやるもんじゃないからね。俺がいる間は基礎を教えるし、学校で曲の練習したり友だちといろんな話をするのもいい経験になるよ」
 意外なことを言われた。お兄さんは1人で吹いてたし、それでもすごくかっこよかったから、1人で吹く練習をするものだとばっかり思っていた。そう言うと、お兄さんは首を振った。
「俺も別に1人でずっと吹いてるわけじゃないよ?その辺のジャズバーとかで飛び入りで演奏したりするから。そういう時は他に4人か5人と一緒に演奏するんだよ」
「バーですか……」
 なんかすごくかっこいい。プロの演奏家だ。
「この近所にもちっちゃなとこがあって、ここんとこよく出入りしてるんだ。あ、君は出入り禁止な」
「なんでですか?」
「バーは夜しか開いてないし酒飲むところだから18禁」
 まぁ、そう言われてしまうと仕方がない。こっそり行けばいいだろうし。
「ま、それはいいや。それはともかく、人とやるのはいろいろと自分だけじゃわかんないことがわかるからね。せっかくすぐそばにあるんだし、周りも歳近いんだし。使わない手はないよ」
「はい。……って、じゃ、教えてくれるんですか!?」
「ん。いつ卒業になるかわかんないけど、それでよければいいよ。楽器買ったら持っておいで」
「はいっ!」
 私は思いきり叫んでいた。お兄さんはそんな私を見て、笑っていた。
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2005年11月01日

Trick or Treat(書きかけ)

「……なんであいつら、仮装行列なんてやってんだ?」
 圭吾はぼそりとつぶやいた。視線の先には、見知った女子学生たちが夜だというのに連れ立ってぞろぞろと歩いていた。よく見れば、それぞれにマントらしき黒い布に身を包んでいたり、フード付きのローブのようなものを着ていたりする。化粧も、わざわざ顔を青白く見せるように塗りたくっているのが多い。
「今日……あ、ハロウィンじゃないですか?」
「あー、そういや今日31日か」
 傍らの零の言葉に、圭吾もその単語を思い出した。久しく思い浮かべることもなかった言葉だ。
「中学生が仮装パーティーでもやんのかね」
「ミッション系の学校でしたか?」
「……だとしたら結構な皮肉だな。俺が連中を教えてるの」
 そう言ってにやりと笑った。零も意味に気付いて、小さく頷いた。
 誰かが2人の姿に気付いたのだろう、少しざわついてから、何人かが駆け寄ってきた。他の者も手を振っている。零は控えめに手を振り返した。
「先生!どうですかこれ!」
「不健康極まりねぇな。よく作ってあるが」
 真っ先に自分の衣装を見せびらかした愛香を、圭吾はばっさり斬り捨てた。近くで見ると、彼女が結構しっかりと顔を白塗りにしているのが夜目にもよくわかる。回りにいる4人も似たり寄ったりの格好だ。
「これから学校で仮装パーティーなんですよ」
「先生も来ません?」
「学校で?」
「はい」
 学校行事にしては時間も遅いし、日曜だというのにみんな楽しそうな顔をしている。圭吾はそれが意外だった。どちらにしてもついていく気はないのだが。
「悪いな、これから仕事だ」
 そう言って、トランペットのケースを見せると、愛香と隣の加奈は溜め息をついた。
「「いいなー」」
 同じトランペット・パートの2人には、バーで小銭を稼ぐくらいはできる圭吾がうらやましくて仕方がない。自分がそれに遠く及ばないのがよくわかるだけに、余計だ。
「まぁ適当に楽しんでこい。ほら、連中待ってんだろ」
「零ちゃんは?」
「私は先生と行くから」
 いつものことだ。やっぱりね、という反応を見せて、5人は圭吾に軽く頭を下げると友人たちのところに駆け戻っていった。
「……ふむ、適当に脅かすにはちょうどいいネタか」
「お化粧道具、ありませんよ?」
「カボチャ買ってきてくり抜け。スプーンはG'zで貸してもらえるだろ」
「カボチャ……」
 ちなみに現在夜8時半。零の知っているスーパーはどこも閉まっている。八百屋は言わずもがなだ。零はG'zの階段を下りるまで、町の地図を思い出しながら必死で3軒しかないスーパーの閉店時間を思い出していた。

 圭吾がジャズバー「G'z」のレギュラートリオの前で、性格に似合わぬ丸く優しい音を奏でている間に、零は圭吾にもらったナイフでカボチャの底と目玉に当たる部分を切り、スプーンでひたすら中身をほじくり出した。
「零ちゃん、それどうすんの?」
「たぶん、かぶります」
 真顔で応えると、聞いていた客は本気で驚いたようだった。零は頭が小さいから、そこそこ大きめのカボチャなら本当にかぶれてしまう。そして、一心に格闘しているカボチャは、何とかなりそうなぐらいの大きさがあった。
 ステージ上では、零の主人たる男が「My Romance」のソロを吹いていた。目を閉じて、優しく包み込むような音色で、技巧を抑えて音の伸びを楽しむようなフレーズを選んでいた。思わず、客の視線が圭吾に集まり、そして零に戻った。
「……ほんっと似合わないよなぁ、あの音」
「詐欺みたいな奴だな」
 思わず言い合うも、スプーンを動かす手を止めて睨みつける零を見て、口を閉じた。代わりに4つのため息が同時に漏れた。圭吾の本性を知らないジャズファンが、ちょうど終わった演奏に惜しみない拍手を与えていた。

「……それでお前、底に大穴開けたのか……」
「違うんですか?」
「……かぶりたきゃ好きにしろ」
 ステージから降りてきて、ほとんど身をくりぬき終えたカボチャを見ていた圭吾に、圭吾のというより零のファンである親父4人が一斉にブーイングをしたのだ。が、大方の予想に反して、圭吾は本気で驚いた。
「じゃあどうするつもりなんだよそれ」
「銀製のトレイに載せて、中にロウソク入れるんだよ」
「お前にしちゃ信じられんほどまともな回答だな」
「当然っしょ。上から血のりでもぶっかけたらいいムードが出るぜ」
「……前言撤回」
 顔をしかめる良識的な親父たちを尻目に、零は合点がいった、という風に手を打つと、店のトレイを一つ手に取った。銀製のはずはないが、夜道に置いておけば一応鈍色に輝いて見えるだろう。ひょいとカボチャを載せてみた。
「ほう、それなりに」
「……」
 もう一度カボチャを引き寄せて、口元をこりこりとナイフで削る。またトレイに載せて、少し離して見た。小首をかしげて、もう一度引き寄せる。削って、少し離して見る。さらに3回、口元を修正して、満足したように一つ頷いた。
「できましたぁうっ」
 振り向きかけた零を軽くつついて、圭吾はトランペットをケースにしまった。
「あれ、セカンドステージやんないのか?」
「今日はファーストだけ。また明後日な。マスター、楽器預かっといて!」
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2005年08月30日

服喪

もう1年が経ったというのに
もう喪は明けたというのに
彼女は黒のドレスを身にまとい、涙で目元を彩り
そして彼女の俺を見る目は、何も映していなかった

義務感
期待
絶望
それだけで彼女は立っていた
それだけが動力の、自動人形

俺があいつのナイフを見せると
彼女はようやく俺をみとめ、静かに上を向いた


[後書き]
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2005年08月28日

空へ

子供の頃からずっとずっと、高い空を夢見ていた
鳥よりも高く、広い空を泳ぎたかった
私の背に翼があれば、青い空の真ん中で、大きな声で歌うのに

遠く遠くどこまでも見渡して、探し物を見つけに行くの
きっとどこかに落ちている、戒めの鍵を

あれから何年経っただろう?
高い空はまだ遠く、人々の歩く狭い町で眺めてるだけ
私の背に翼があれば、青い空の真ん中で心のままに叫ぶのに

遠く遠くどこまでも見渡して、探し物を見つけに行くの
きっとどこかに落ちている、戒めの鎖
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2005年08月22日

たたみのねごこち

ミーンミンミンミンミーン……ミーンミンミンミンミーン……。
夏のある日。家にはほとんど人気がなかった。
日差しを受けるのは家と木々のみ。しかし蝉の音を聴くのは他にもいた。
縁側のある一室に、少女が1人寝転がっていた。
祖母から留守番を言いつかって、いつものように畳の上にいるのだ。
古い型の扇風機が、首を振りながらかすかに少女の髪を揺らしている。

木をタイルのように組んである天井をぼんやりと眺め、つと視線を下ろすと。
誰も座っていないちゃぶ台がある。座布団は2枚。
少女と、その祖父のために敷いてあるのだ。

「おじいちゃん」

見えるはずの背中。痩せてはいても、年のわりにがっしりした背中。
重くなったな、と言いながら、いつも軽々と少女を乗せてくれた背中。
その背中が不意に動き、おう、こっち来い、と言って少女を呼び寄せる。
わざわざ向かいに座布団が敷いてあるのに、少女はその背中に向かっていった。
なぁに?
わしの友達が絵葉書送ってきたんだ。ほれ、きれいな海だなぁ。
わぁ、ホントにきれい。どこのうみ?
んー、ピピ、つうところらしいな。
ぴぴ?かわいいなまえー。
祖父の肩越しに見たスカイブルーは本当にきれいだった。

祖父の一番好きだった着物を着ていると、にっこりと笑ってほめてくれる言葉が聞こえてくる。
祖母に手伝ってもらって着ていると、祖父に近づいたような、遠ざかったような気がする。
少女は祖父を思いながら目を閉じた。

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2005年07月03日

お約束

 ドラマは嫌い。わざとらしくて嫌い。都合がよすぎて嫌い。リアルに感じてしまうから嫌い。

 ゆうべは晴れてて、星がきれいだった。ベランダに出ていたら、流れ星が見えたかもしれない。ベッドから見たら、艶街のネオンみたいに見えた。雨は降ってくれなかった。

 今朝は雨。待望の雨。家にいられるから、少し笑った。出かける人はお気の毒。誰かの涙を全身に浴びに出かけるのだ。また少し笑った。

 昼過ぎに雨は上がった。雨を吸った土は涼しさを一つまみくれる。涙を流し終えて身軽になったから、髪でも切りに行きますか。
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お約束

 ドラマは嫌い。わざとらしくて嫌い。都合がよすぎて嫌い。リアルに感じてしまうから嫌い。

 ゆうべは晴れてて、星がきれいだった。ベランダに出ていたら、流れ星が見えたかもしれない。ベッドから見たら、艶街のネオンみたいに見えた。雨は降ってくれなかった。

 今朝は雨。待望の雨。家にいられるから、少し笑った。出かける人はお気の毒。誰かの涙を全身に浴びに出かけるのだ。また少し笑った。

 昼過ぎに雨は上がった。雨を吸った土は涼しさを一つまみくれる。涙を流し終えて身軽になったから、髪でも切りに行きますか。

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2005年06月25日

新たな一歩

 最寄り駅の駅前広場。小型の発電機にアンプを繋ぎ、抱えた楽器から伸びるシールドがそこに入っている。足元にはラジカセが置いてある。立っているのは、髪の長い少女と、大人しそうな少年。少女は立ち、少年は椅子に座っている。
 少女は、ギターのような楽器を抱えていた。近づいてよく見ると、弦は5本で太い。エレキベースだった。少年は開いた足の間にボンゴを挟んでいる。それぞれに音を確かめるように出して、少女がアンプの音量をいじった。また音を出して少年の方をうかがった。少年が頷いて、少女も元の位置に戻った。
 いつもなら気にせず通り過ぎるところだが、私は足を止めて二人の準備を見守った。譜面台に載ったスケッチブックに、バンド名なのか「tail」と大きく書いてある。バンド名の下に、19.00開始、と書いてあるのを見て、腕時計を見た。あと2分。
 スケッチブックの下にS字フックで吊ってあるチラシを取った。少女が気付いて「もう少しお待ちください」と言ってくれたのに頷いて、中を見た。名前、パート、バンド名、バンドの成り立ち、ライブの日程。バンドの成り立ちのところで、目が留まった。2人の方を見ると、ちょうど準備が終わったところのようだった。ベーシストとドラマー。2人だけのバンド。

 少年がラジカセを回す。スピーカーからエレキピアノの和音が流れ出す。2人は視線を合わせて、同時に入った。5弦ベースでスラッピングし、延々繰り返される4つの和音にグルーヴをつける少女。素手で確実にリズムを刻み、時にソロのようなフレーズを叩き出す少年。
 私の知っている2人の音とは似ても似つかないサウンドに、驚きと共に聴き入った。2人が音を止め、ラジカセからの音も止まる。拍手は私1人だけではなかった。少女が落ち着いた低めの声で、口上と曲目を言った。そして、今度は少年のフリービートのソロに、ラジカセのシンセ音が合わせ、少女の指弾きの高音フレーズがメロディーを奏でる。誰かが感嘆のため息を漏らした。
 少女のお礼の言葉と共に2人揃ってお辞儀をして、30分ほどの路上ライブは終わった。2人はケースを置いていなかったが、数人が近寄って、小銭を渡していく。私も少年にコインを渡して、「ずいぶん雰囲気が変わったね」と言った。私の言わんとしていることがわかったのだろう、少年は嬉しそうに笑った。
「元々僕はこういう音楽やってたんです。前のバンドやってた時にも、こういうファンク系の曲やってたんですよ」
「へぇ。聴いたことない……し、想像できないな」
 彼らの前のバンドは純粋なハードロックだった。メンバーもサウンドも、ハードロック一筋にしか見えないほどに。そう言うと、彼は「そうでしょうね」とまた笑った。
「表ではやってませんでしたから。あくまで練習の1つでしたからね」
 意外だった。他ジャンルの曲を『練習の1つ』でやるというのは、私の知識にも印象にもない。
「そういえば、次のライブも2人でやるの?」
 当たり前のことだ。彼は笑顔を絶やさずに頷いた。
「もしお時間がありましたら、ぜひいらしてください。前とは違うってことがわかると思いますよ」
「楽しみだね。都合つけて、行くよ」
 お礼を言う彼に挨拶をして、私はその場を辞した。振り返ると、手早く機材を片付けている2人の姿が見えた。少年の意味深な言葉を思い返した。手元のチラシに書いてある、一番近いライブの日は再来週の木曜日。楽しみだ、と思いながら家路についた。今日は、いつも活躍してくれる iPod の出番はなかった。

posted by alohz at 00:43| Comment(0) | TrackBack(0) | [短編]音楽的 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年06月20日

作品紹介

本編をまだ読まれていない方のために、簡単に登場人物や用語の紹介です。
参考までに。
ちなみにこの記事は、必要に応じて更新します。

posted by alohz at 20:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 作品紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年06月08日

心に咲く一輪の花

 俺が彼女に出会ったのは、1ヶ月ほど前のこと。買い物の帰りにふと立ち寄った喫茶店で、彼女の笑顔に迎えられたのだ。明るい内装の店内で、彼女の桃色の衣装は他の誰よりも彼女自身にふさわしく、魅力的だった。そして彼女の笑みは作り物めいた華やかさのない、素朴で素直な笑みだった。
 コーヒーを注ぎに来てくれた彼女と、わずかに言葉を交わした。自分でもあきれるほど凡庸な俺の言葉に、彼女は温かい声で返事をした。ごゆっくりどうぞ、といって去る彼女の細い背中を見ながら、熱いコーヒーを飲んだ。
 店内はそこそこ混んでいる。それほど広いわけではないが、それぞれと話をするのが当然とされているのか、別の店員はある2人連れと話が弾んでいるようだったし、彼女も呼び止められては、注文を取る様子もなく、ただ何か話している。聞こえてくる言葉からすると、あの客はかなり通っているようだ。
 俺には、毎日のようにここに来られるような余裕はない。時間はともかく、この店の平均的な値段は、俺には少々高い。今、彼女と会話している客のようにはなれない。月に2度来られれば、いい方だろう。まして、奥に座っている別の客のように、手土産なんて用意できない。
 買ってきた本を読みながら、薄めのコーヒーをすすった。空になったカップは、10分もしないうちに誰かの手で満たされる。彼女以外のウェイトレスも、それぞれに魅力ある姿で、俺に笑いかけてくれる。それは決して一目でわかるほどの作り物ではないが、しかし、何か少し、違うのだった。
 彼女の声が耳に入ってくると、活字を追っていた思考が自動的に切り替わってしまう。目を上げると、少々胡散臭いなりのおっさんと喋っているところだった。じきに話を止めて、歩き出す。歩調はゆったりしているが、どこか小動物のような感じがするのはどうしてだろう?
 スタイルは、誰もがスレンダーだというだろう。腰も手足も細いし、胸元も――これは本人には言えるはずもないが――控えめだ。だが背は決して低くない。全体的に細いから余計に高く見えるのだ。歩調だけでなく、口調も他の子より控えめだし、動きも特に機敏という感じはない。本を構えたまましばらくぼうっと見ていて、気づいた。微笑み方が、どことなく小動物的なのだ。俺は動物を飼ったことはないから、ハムスターなんだかリスなんだかわからないが。そっとのぞく八重歯のせいかもしれない。
 彼女が他の客と話していて、いらだつことはない。自分でも少し意外だったが、ただ単純に、俺に声をかけてくれる、微笑みかけてくれるのが嬉しいのだ。彼女の優しげな横顔を見ているのもいい。その前に誰がいたとしても、俺にとってはそれは瑣末事だ。何しろ、彼女とは今日知り合ったばかりなのだから。
 時間が来て席を立つとき、そっと彼女の方をうかがってみた。俺を呼びにきたウェイトレスが声を張り上げたおかげで、彼女もこっちを見て挨拶をしてくれた。一瞬目が合った。ふと、俺の表情が緩んだのがわかった。ごく自然に、彼女と一緒に俺も笑っていた。
 帰りのエレベーターの中で、既に俺は決心していた。また、来週か再来週かはわからないが、彼女に会いに来よう、と。その時に誰が彼女と話していても、こっちに笑顔を向けてくれるだけで、俺はきっと幸せになれるだろうから。

posted by alohz at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | [短編]恋愛模様 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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