2007年07月20日

テンポラリー

 耕一は目の前の男を、射抜くようなまなざしで睨みつけた。超越者を前に、足がすくむことも手が震えることもない。本人はそれを意識していなかったが、睨まれている啓司はそのことに感心した。
 以前は、目の前で啓司が平然と人を傷つけるのに驚き、恐れていた。啓司は一人で、耕一を連れてあちこちで「悪行」を見せた。耕一にも協力させて、老若男女を問わず騙し、焚きつけ、絶望させた。
「今はどうしてる?その様子じゃ世間に埋没して無気力に生きてるってわけじゃなさそうだな」
「ええ。少々有名になりましたよ。あなたと違って」
 言葉の刺は飛び出さんばかりに鋭い。長い間怒ることもなかったのだろう。駅前だというのに三人の周囲にはぽっかりと人が寄りつかないが、離れたところで若い男女がそっと観察しているのがわかる。
 啓司は一歩近寄ると、耕一の頬に手を当てた。その性質とは裏腹に、女でも通じる顔立ちだから違和感がない。耕一は殊更に男がそばに寄るのを嫌うが、その理由には納得したものだ。女を組み敷くときの荒々しさにも。
 耕一は油断していなかった。頬に触れている冷たい手のひらが動くかどうか、啓司の肩が動くかどうか、隣に控えている女が動くかどうか。かつて後ろについて回っていて、啓司の強さは肌で知っていた。できるならばすぐにでも殴ってやりたいが、先に動いたら負けることは確信できた。だからこそ、後の先を取って一秒か二秒で勝負を決めるつもりでいた。
 それでも、耕一は啓司の動きに反応できなかった。肩はほとんど動かなかったし、反射的にかわそうとする身じろぎは頬の手に止められた。周囲にどよめきと、女の嬌声が響いた。
 一秒強で我に返った耕一は、首から上を固定されたまま足を上げた。そのかかとが啓司のスニーカーに届く直前、左頬を強烈に叩かれた。右頬に添えられていた手は同時に離れ、唇を引っぺがされるように吹っ飛んだ。そのまま倒れた耕一の頭に、啓司の足が乱暴に乗った。
「まだまだだな、こっちは」
 楽しげな声に、耕一はうめき声で応えた。啓司は足をどけると、零に声をかけて歩き出した。耕一はゆっくりと起き上がると、無警戒にそばを通り過ぎかけた零の腕を取った。驚いた顔の彼女を力任せに抱き寄せる。小さな悲鳴に啓司が振り返ったのを確認して、強引に唇を奪った。
「なんだ、お前そういうのが好みか?」
 啓司の言葉は、しかし期待通りの色を帯びていなかった。不本意な扱いを受けているにも拘わらず、腕の中の少女も抵抗らしい抵抗をしようとしない。
「もっと背ぇ高くて気が強いのがタイプだと思ってたのにな」
 耕一は唇を離した。
「別に宗旨替えをしたつもりはありませんよ」
 秋の気配がようやく顔を出した頃合い、零は桜花の色のブラウスに膝上のスカートといういでたちだ。それほど背が高くない耕一でも、ほとんど表情を変えずなすがままの少女は、小さく儚く感じられる。
「じゃそいつが特別か。何なら連れてっていいぞ」
「好きにしていい、と?」
 頷く、と耕一は読んでいた。何者にも執着しない男だ。
「ああ。二、三日したら連れてこい」
 それだけ言うと、啓司は耕一に笑いかけて、背を向けた。耕一は零のブラウスの襟を掴んで、そのまま勢いよく引きはがした。転ぶほどの勢いをつけたが、スニーカーをはいた少女は2、3歩たたらを踏んだだけでその勢いをいなした。声一つあげない。
 目を背けて、歩き出した。少し間を開けて、零も続いた。耕一は駅前の繁華街を通り抜けて、小さな看板が出ている階段を下りた。零も、看板に目をやってから続いた。
 何も言わずにカウンターに座ると、零は耕一の左隣に座った。まだ早い時間だからか、客は他に二組。席もいくつも空いている。耕一は零に視線を向けたが、零は無表情でメニューを見ていた。
「今日は早いな。大騒ぎは無しか?」
「後回しだよ。食い物とジンライム」
 マスターはさらさらと伝票を書いた。
「お嬢さんは?」
「……何か食べるものと、ズブロッカ」
「ズブロッカね」
 耕一は思わず隣の少女を見た。肩よりわずかに長い程度の銀髪、ほとんど化粧っ気を感じない横顔、自分より頭半分ほど小さな体、少し大人びて見えるハンドバッグ。味のきついウォッカをカクテルにもせずに飲むようには見えない。
「あの人の趣味も変わってるな。ガキにズブロッカなんて仕込むなんてな」
「……弱いお酒はかえって苦手なんです。すぐに回ってしまいますから」
 静かな声で言った。
「啓司さんにもしばらく下戸だと思われてました。ビールもカクテルもワインも飲めませんから」
 零は笑わなかった。淡々と、耕一を見て話した。他の客の声が聞こえないほど、静かで控えめな口調で。啓司の好きな声だ。幼く整った容姿も、小さく痩せた体格も、細い首や指も、薄い唇も、気配を消せば空気に溶けていきそうな雰囲気も、全てが啓司の好みそのままだ。
「マスター」
 さりげなく、手の動きを止めずに振り返った彼に言い放った。
「ジンをいつもの倍入れてくれ」
「悪酔いはいいとは言えないぞ」
「いいから」
 マスターはそっと溜め息をついて、棚に戻したばかりのジンの瓶に手を伸ばした。

「お嬢さん、この男のどこがいいと思ったんだね」
 手が空いたマスターの一言に、耕一は鋭い一睨みで応えた。それをまったく意に介さず微笑みかけてくる中年の男性に、零はどう答えたものかと迷った。いいも悪いもない。
「……よく、わかりません。私は啓司さんの言ったとおりについて来ただけですから」
 まさか、という視線を向けられて、耕一は吐き捨てるように言った。
「あの人が帰ってきたんだよ。こいつはあの人が連れてた女だ」
「……啓司が、また来たのか……」
「ご存じなんですね」
 マスターの微笑みに、隠しきれないかげりが見えた。
「知ってるさ。まだ2年経つか経たないかだ。この男がここに来るようになったのも、そもそも啓司に連れられてだったしね」
 そう言ったマスターの声は沈痛だ。零もそれはよくわかる。そして、今自分がしているようなことを、以前は耕一がやっていたのだということも推察できた。
 ちびり、とズブロッカを口にした。舌の奥から喉の中までがカッと熱くなる。味はその前後にほんのりと感じる。
「しかし、あいつがまた来たとなると、痛々しい話が増えるな」
 マスターのうめくような言葉に、耕一は無言でジンライムをあおった。カウンターの奥の時計に目をやると、がたんと席を立った。
「行くぞ」
 カウンターに五千円札をぼんと置く。マスターは何も言わずにレジを開け、それをしまうとすぐに閉じた。零も立ち上がり、マスターに会釈をして耕一の後を追った。
 2人の姿を見送った1時間後、来客を告げるドアベルに顔を上げたマスターは、思わず息を飲んだ。が、すぐにいつもの表情に戻って、静かに話しかけた。
「本当にまた来たんだな」
「……?ああ、耕一にでも聞いたのか」
 濃い青に染めた髪、外したサングラスは真円、痩せた体つきまで2年前とまったく変わらない。マスターは無言でジントニックを作った。
「何しに来たんだ?」
 当たり前のようにジントニックを受け取って、啓司はにやりと笑った。
「立ち寄っただけだよ。用事も何もない。4、5日で出るさ」
「前もそう言って、結局半年くらいいたな。金田君を堕落させて、次はあの女の子か?」
「あれはとっくに耕一以上になってるよ。腕も中身も」
「罪人が。何も知らない顔してたぞ」
「だからいいのさ。吸収早いクセに全くもって色が変わらない。あんなにどんだけ染めても真っ白な奴は初めてだ」
 啓司はカクテルに口を付け、マスターは嘆息した。
「耕一にゃあいつは使えないよ」
「……彼も成長したよ。よくない方向にだがな」
「本人も言ってたな」
「――あぁ、すみません。少々お待ち下さい」
 マスターは別の客の会計を終えると、そのまま客を見送るように外に出た。しばらくして、外でがたがたと音がした。
「随分早いな」
「ここを破滅の苗床にはしたくないんでね。最近はまともな客がようやく戻ってきたんだ」
 マスターはカウンターに戻ると、手早く中を整理し、新しいグラスに自分の分のウィスキーを入れた。
「あ、しまっちゃう前にレーズンバター」
「レーズンバターな」
 冷蔵庫から容器を出して、手早く切った。
「見栄えは気にするな」
「いいよ。食べやすく切ってくれればそれで」
 いつもは全体に散らすレーズンバターが、元の棒状そのままに行儀よく並んでいる。啓司は軽く笑って、フォークで1つ突き刺した。
「で、あいつは今何をやってるんだ?」
「ヤクザみたいなもんさ。高校生くらいの若い連中集めて喧嘩したり、強請の真似をしたり。それで男女問わず人気があるんだから不思議なもんだ」
「あいつ見てくれがいいからな。馬鹿はいくらでも寄ってくる」
 啓司はつまらなそうに言った。
「下らん奴になったなぁ。もう半年はそうやってんだろ?」
「ああ」
「ま、本能になってないんなら仕方ねぇけどな」
 マスターはこの言葉に、わずかな悪寒を覚えた。耕一に啓司が言う「本能」が存在していたら、彼は今以上の災厄になるのではないかと。それを打ち消すように言った。
「そんな本能、人間にはないさ。お前が特別イカれてるんだよ」
 かつての耕一がいたら真っ青になったであろう台詞に、啓司は笑いで応えた。
「俺だけじゃないさ。漫画みたいな気違いオヤジは実在するぞ?殺しがショーになるような世界とかな。俺なんかよりよっぽどヤバい連中だ」
「見てきたような言い方だな」
「見てきたよ。殺されるはずだった男助けて司会をぶっ殺したら大喜びしてな。拍手と小遣いくれた。カス以下だな」
 何の感情も交えずに言った。マスターはぐい、とウィスキーを飲み干し、瓶に手を伸ばした。
「聞きたくもない話だ」
「そのショーに俺を誘ったの、ナンパしたどっかの金持ちのご令嬢だったな。もう24、5だったけど」
「聞きたくないと言っただろう。……あの女の子はどこからさらってきたんだ?」
「神戸だかあの辺の高校で会ったんだ。誘ったらついてきた」
「高校生……か。若いのに不憫な」
「自分で不幸に向かってくるような奴だぜ。それからのこと考えても、あいつはあいつで相当狂ってるよ」
「狂わせたんだろう」
「あれは自分でこっちに来たよ。耕一にはちょっと魔法使ったけどな。零には一切使ってない。名前つけたぐらいだな」
「どっかの婆さんみたいなことするな」
 啓司は笑ったが、言ったマスターは面白くなさそうにストレートのウィスキーを口にした。
「早仕舞いさせといて何だが、そろそろ行くよ」
「さっさと帰って目一杯寝てくれ」
 マスターはそう言いながら、カウンターの外へ回った。その鼻面に万札が現れた。
「……なんだ、どういう風の吹き回しだ」
「金持ちから枯れるまで吸い上げた金は庶民に還元してやらないとな。あと明日もたぶん来るからそれもコミで」
「……次は俺が中にいるときに出してくれ。おつりの用意ができない」
 立ち上がった啓司が見慣れないものを肩から提げていることに気づいたのは、その時だった。
「これは?」
「ん?ああ、トランペットだ。メーカーは聞いたことないんだが、音がいいし吹きやすいから気に入ってる」
 事も無げに言う。マスターは驚きと共に、1つの予感が浮かんでくるのを見た。が、すぐに打ち消した。階段を出て、駅の方に歩いていく後ろ姿は、記憶のそれと変わらない。どこにでもいそうで、しかし決定的に他人と異なる気配を持ったそれだ。
(まさか……な)
 マスターはもう一度、虫のいい妄想を打ち消して、看板のコンセントを挿し直した。

 耕一は呆然としていた。兎を蛇の巣穴に放り込んで、いたぶるつもりだった。唯々諾々と耕一の言葉に従う零が、一体どんな顔をするのか見てやりたかった。
 目の前に、兎に言いように翻弄された蛇が5匹、転がっている。最後の1匹も、肩を完全に極められて動きを止めた。零は痛みに悲鳴を上げる男を無表情に見下ろし、そのまま肩を外した。激痛のあまり満足に叫ぶこともできない男を捨てるように転がして、耕一の方を見た。
「お前……」
「終わりました」
 そう言って近寄ってくる零に、耕一は思わず拳を振り上げかけた。心から消えることのない理性が、それを押しとどめる。零は無防備に、無表情に、耕一の葛藤を見ていた。
「あの人の仕込みか」
「はい。自分で自分の身ぐらい守れるようにと」
 耕一は鼻で笑った。
「よく言うよ。自分が危険に飛び込んでくクセに」
「はい。ですから、常に隣にいられるように、です」
「すぐ人を見捨ててく人間の台詞じゃないな」
「捨てられるまでは、一番近くにいたいですから」
 耕一の理性が一瞬緩んだ。乾いた音が響く。
「……来い」
 襟首をぐっと引っ張られて、零は頬を押さえながら立ち上がった。手を離して部屋の奥に歩いていく耕一の後に、零は素直に従った。足下でうめいている高校生を、2人とも一顧だにしなかった。

 翌朝は曇りだった。窓から入ってくる気弱げな光で、零は目覚めた。隣でまだ寝ている耕一を起こさぬように、ゆっくりとベッドを降りて服を着た。窓の外を見ると、眼下に小さな公園があった。誰も来ることがないのか、遠目にも錆が浮いているブランコが、所在なげに揺れていた。
 もう一度、耕一を見た。寝顔を、素直に可愛いと感じられる。零より2歳年上の男性なのに、どれほど睨まれても怖さがない。
 たぶん、あの人に会ったからだ、と声には出さずに呟く。啓司の目には、耕一とは違うものがある。くだらない話をしていてすら、目が合った瞬間に心を握りしめられるような何かが。耕一は、彼と比べるとあまりにも普通だ。
 いつの間にか、前の晩に零に襲いかかってきた男どもはいなくなっていた。用を足し、ソファにもたれかかった。帰ったものか。少し迷ったが、起きるのを待つことにした。啓司は耕一に「連れてこい」と言っていた。
 昼過ぎに起きてくると、零には見向きもせずにシャワーを浴びた。しばらくして出てくると、そのままトイレに入る。零はなんとなくトイレのドアを見つめて待った。時が止まったような錯覚を覚えて、零は時計を見た。壁の時計は電池がないのか、8時33分16秒を指したまま静止していた。視線を上げると、静かに時を刻んでいる銀色の置き時計があった。12時50分。零は思わずトイレのドアと時計を見比べた。シャワールームのドアが開いてから、もう30分近く経っている。
 控えめにノックした。すぐにドアに耳を当てて、中の音を聴いた。水が流れ出す音に、零は安心して耳を離した。実際にドアが開いたのは、もう少し間があってからだった。

 耕一は、確信を持ってドアを開けた。オレンジの光に満ちた店のカウンターに、啓司がいた。カウンターでコーラを飲んでいる。
 昔、それを嘲った客がいた。耕一がかみつこうとするのを止めて、啓司は笑顔でその男の肩を親しげに叩くと、隣にいた女の顔面を思い切り殴った。
「こんな化粧臭い女連れてんなよ。いるだけで鼻が曲がる」
 男は何も言えずに、失神した女を引きずっていった。何事もなかったかのようにカウンターに戻った啓司の横顔と、今目の前にいる男の横顔がぴったりと重なった。一瞬、自分が啓司にくっついていた頃に戻った気がした。啓司を探し歩いて、見つかるのは大抵この店で、必ずカウンターにいた。
 耕一は軽く首を振った。あの時自分が置かれていた立場に今いるのは、自分の後ろにいる女だ。
「啓司さん」
「早かったな」
 ゆっくりと振り向いて、笑った。自分の言葉に他人が踊らされているのを見て、よくこの顔をしていた。
「退屈な女でしたよ」
 そう言いながら、啓司の隣に腰を下ろした。零は何も言わず、反対側に座った。
「子飼いの連中ボコられたんじゃねぇか?」
 にやにやしながら言った。
「その辺にいたのを集めただけですよ」
「そりゃ無理だろうな。ヤクザの2、3人なら屁とも思わない娘だ」
 耕一は啓司を睨みつけた。その視線に気づいてもいない様子で、啓司はグラスに口を付けた。
「ペットはな。至極使えるのが2、3匹いりゃいいんだよ。零に手も足も出ないのなんざただの無駄飯喰らいだ。捨てちまうか?」
「そのつもりです」
「嘘つけ」
 啓司の返答は早かった。
「組織は無駄飯喰らいでも飼わなきゃいけない。どうしても頭数がいるからな。捨てたら後で困るぜ?」
「別に俺は組織を作ったわけじゃないですよ」
「味方がいるんだろ?」
 耕一は少し間をおいて、頷いた。
「同じコトだ」
 耕一は席を立った。扉に手をかけようとする影に、啓司が言った。
「つまらん奴になったな」
 ぴたり、と止まった手は、すぐにノブを掴んだ。
「俺なら零を無事に返したりしない」
「――じゃあ、啓司さんならどうしました?」
「わからないか?」
 半分だけ店の外に体を置いて、答えた。
「首だけ返しますか?」
「手足を全部切って返す」
 一言、なるほど、と言って、耕一は今度こそ出て行った。
「気色悪いこと言うな。本気にするだろう」
「ハイハイ」
 マスターの渋面を見もせずに言って、啓司はコーラを飲み干した。席を立つと、マスターに「じゃあな」と手を振って出て行った。零も、マスターに一礼して後を追った。
「これからどうします?」
「飯にしよう。耕一が後2、3日で騒ぎを起こさなければ移動する」
「はい」
 啓司は慣れた足取りで路地に入った。近道はよくわかっているのだ。零は薄暗い道を歩きながら、呟くように言った。
「あの人、すごく寂しそうでした」
「家庭が原因でヒネた奴だからな。根っこにあるのは構ってほしい欲求なんだよ」
「……だからわざと突き放したんですね」
「まーな。俺に一時構われて散々いい思いしたのがいきなり捨てられたんだ。なんだかんだ言って、あいつたぶん身近な仲間切り捨てたりするんじゃねぇかな。そうすれば俺が構ってやると思ってるんだから可愛いもんだ」
 零は溜め息をついたりはしなかった。ただ心の中で少しだけ、耕一と将来の自分とを重ね合わせた。

 翌日は何も起こらなかった。啓司はいつものように人を騙して小銭を巻き上げ、日が暮れると生演奏のあるバーで、スタンダードを数曲吹いた。零は日中は啓司と離れ、一人黙々とフルートを吹いていた。夜は啓司の演奏に、静かながら誰よりも想いを込めた拍手を送り、酔って騒ぐ客を無表情に黙らせた。
 その更に翌日、啓司は昼間のうちにバーのシャッターを叩き、不機嫌そうなマスターに荷物を預けた。
「……俺のところに泊める気はないぞ?」
「心配するな。今日中に取りに来るよ」
 ようやく不安げな色を浮かべたマスターに手を振って、啓司は零を連れて住宅街を歩いた。行き先はわかっているようで、足取りに迷いはない。零が道を覚えきれなくなってきょろきょろし始めた頃、啓司が口を開いた。
「着いたぞ」
 零が啓司の視線を追うと、学校の門が見えた。
「高校、ですか?」
「耕一のな。あーでもクラス知らねぇな」
 そう言いながら、耕一はモンに手をかけると、ひょいと上に飛び乗った。
「越えられるか?」
 零が首を振ると、啓司は手をさしのべた。零が手首を掴んで飛び上がると、それに合わせて引っ張り上げ、門の上に下ろした。
 誰にも見とがめられることなく校舎に入ると、下駄箱の奥を見回した。下駄箱は横長の校舎のほぼ真ん中にあり、左右は事務室など生徒の気配のなさそうな部屋と特別教室しか見あたらない。
「上か」
 2人は堂々と階段を上る。2階は1年生の教室だったので、もう1階。懐中時計を開くと、2時20分を過ぎたところだ。
「零、向こう見てこい」
「はい」
 3階に着くと、啓司は右手を指してそう言い、自分は左手に歩き始めた。教室の前後のドアからそっと中の様子を確認する。1つ目はハズレ、2つ目もハズレ、3つ目と4つ目は空だった。服が脱ぎ散らかされているから、体育だろう。一番端は無人の被服室。反対側の教室も見て回ったが、耕一の顔は見つからなかった。階段の向こうを見ると、零がある教室の前にうずくまっていた。啓司の視線に気づいて、その教室を指さす。
 啓司も零の隣にうずくまった。中に入る気は今のところなかった。今まで何もしなかった理由はわからないが、じき動くという確信があった。
 並んで、耕一が受けている現国の授業を聞いた。教科書を順に読み、年寄り先生が場面や登場人物の心情を説明する。零は聞いているのかいないのか、ぼうっとただうずくまっていた。
「じゃあ次を、金田」
 教師の指名で、席を立つ音が聞こえた。続けて何やら軽い物音がして、女生徒の悲鳴が上がった。零は弾かれたように啓司を見た。
 机や椅子を蹴立てて逃げる騒音が響いて、流石に隣の教室から中年の女性が出てきた。すぐに2人を見つけ、誰何しようと近づいてくる。彼女に、中から飛び出してきた制服が思い切りぶつかった。
 啓司は立ち上がり、倒れたまま起きあがれない2人に笑いかけてから、続いて飛び出してきた男子生徒に足をかけた。あっさりと転んだ彼の上に、次々とクラスメイトが倒れ込んでいく。
 前のドアが開く音に反応して、零は1人目の足下にスライディングをした。両腕に力を込めて、2人目が現れる直前に下半身を引いた。こちらも数人が将棋倒しになって、出口を塞ぐ。
 中から机を蹴飛ばす音はほとんど聞こえなくなった。代わりに教室中が悲鳴を上げていた。同じ階の教室から次々と教師が顔をのぞかせ、あるいは叱責しようと姿を見せた。
「あ、あなた達は誰なの?何をしたの!?」
 腰が抜けた生徒を膝に載せたまま、最初に現れた教師が叫んだ。啓司はそちらを見もせずに、下から3番目の生徒を蹴りつけた。避けようもなく、顔を赤く染めて呻く。
「やめなさい!」
「お前、なんてことしやがる!」
 奥から来た若い男の教師が、取り押さえようと躍りかかってきた。それをカウンターの裏拳1つで黙らせて、零の方を窺った。同じように取り押さえようとした中年の教師の股間を、冷静に蹴り上げたところだった。つい笑みがこぼれる。
 中から聞こえる悲鳴の質が変わっていた。小さくうめくような、絞り出すような声が混じっている。それを認めたとき、火災報知器のけたたましい音が鳴り響いた。同時に校内放送のチャイムが鳴った。
『全校の皆さん、校内に不審者が侵入しました。授業を中断し、直ちに避難してください。繰り返します。不審者が3階の教室で暴れています。授業を中断し、直ちに避難してください』
「啓司さん」
 サイレンの音に埋もれかかった耳に、零の澄んだ声は易々と届いた。
「彼が出てきます」
「来い」
 零の耳にも、啓司の低い声がまっすぐに届く。ぱっと駆け出し、すぐそばで足を止めた。
「オイ、テメェコラァ!」
 背後、そして前方からもドラ声がぶつけられた。
「テメェ何やっとんじゃコラ!」
 啓司は、ごく自然に嘆息しただけだった。前の入り口を見つめ続ける。
「きいとんのかテ――」
「金田さん!」
 前からの声に、後ろの男も口と足を止めた。零は息を飲んだ。長袖のワイシャツが、まだらに染まっている。耕一は表情が抜け落ちた顔で、自分を呼ぶ声の方を見やった。
「か……金田さん?」
 異様な姿に若干の恐怖を覚えたのか、震える声で呼びかける。その喉に、一瞬前まで耕一が持っていたナイフが突き立った。
 太り気味の体が崩れ落ち、耕一がナイフを引き抜いたときには、まともに動ける人間は啓司と零だけになっていた。怪我をしていない者も、中と外で無造作に生み出された死に凍りついてしまっていた。
「どこまでいっても予想通りだなお前」
 耕一はすぐには答えず、抜き身のナイフを持ったまま近づいてきた。あと一歩でナイフの間合い、というところで、啓司は手を差し出した。上を向いた手の平に、耕一は首を振って、零と視線を合わせた。
 いきなり飛びかかってきた耕一を、零は落ち着いて見ていた。まっすぐに心臓を狙うナイフを避け、右手でそれをそっと抑えながら、後ろ襟を掴んで全力で体をひねった。がづっと硬い音がして、肉厚のナイフが壁の掲示板に突き刺さった。距離を取ろうと引いた零の胸ぐらを耕一の手が捉えた。ぐいと引っ張られた零は抵抗せず、逆に耕一の懐へ飛び込んで迷いなく耕一の喉にかみついた。驚いて引きはがそうとする耕一に、両腕を耕一の背に回して抵抗する。
 耕一の顔が痛みにか恐怖にか、歪んだ。右手で必死に零の首を引いて、左手は壁に付き立ったナイフに伸びた。引き抜こうとしたが、動かない。零の右手がいつの間にか耕一の背中から左腕に伸びて、猛烈な握力で締め上げていた。その痛みに、呻き声が漏れる。
 零は急に耕一から離れた。かなり無理な体勢とはいえ、耕一が全力で引いていたその力で飛び離れ、啓司のそばに戻った。その動きを目で追った耕一は、どうして零が離れたか理解した。啓司が呼んだのだ。笑っていた。2年前には、隣で見ていた笑みだった。
 何も言えずに見ていると、2人は耕一に背を向け、そのまま去っていった。耕一を含め、誰も止めなかった。2人の気配がなくなってから耕一がまっすぐに立つまで、優に5分はあった。地に着かない足取りで、2人を追うように歩き始める。
「……か、金田さん!」
 声のした方にナイフを投げた。うぉ、危ねぇ、と声がするのが耳に入った。振り返る気はなかった。

「本当に来たな。ようやく行くのか」
「ああ」
 零も荷物を取ってすぐに出てきた。零は荷物の一部を啓司に渡すと、ありがとうございました、とマスターに頭を下げた。
「君が何とか幸せになれるよう願っているよ」
「今以上の幸せなんてありえませんけど、ありがとうございます」
 零が心の底からそう言っているのがよくわかって、マスターは嘆息した。
「耕一が来たら適当にあしらって追い出しな。店潰されるぞ」
「もうほとんど潰れかけだ。関係ない」
「それならそれでいいけどな」
 啓司は肩をすくめて外に出た。零も続く。まだ陽は傾きかけだ。マスターは出しかけの看板を片付けた。耕一は来る。マスターはそう信じていた。

 駅はまだ混雑しておらず、学校が終わったばかりの学生でざわついている。零が切符を買いに行き、ふと視線を外した啓司の目に耕一の姿が映った。駅前のバス乗り場のロータリーのど真ん中だ。
「あーあ」
 啓司は耕一と一瞬だけ視線を交わすとすぐに零の方を向いた。切符を2枚持って啓司を待っている。1枚を受け取って、自動改札を抜けた。
 背後でどよめきが起こったが、2人は顧みることなく、反対側のホームに渡るために陸橋を上った。

posted by alohz at 09:00| Comment(0) | TrackBack(0) | [短編]悪魔と虚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月05日

彼女を笑わせる方法

「うちのクラスには天使がいるじゃねーか」
 なんて恥ずかしいことを真っ昼間から言い出したのは、深山だ。2年に進級して1ヶ月が過ぎた頃、このクラスでよかった、としみじみ言うので何かと思って聞き返したら、そう言ったのだ。
 深山の言う天使というのは、小野田みゆきのことだ。親切で人当たりのいい、おっとりとしたお嬢さんだ。秀才で顔もかわいいのだが、周りの女子の話を聞くと運動神経はイマイチらしい。
 クラスの中でも人望があるのだが、深山のように天使扱いしている奴は滅多にいない。背丈は平均くらいでプロポーションが特にいいということはなく、制服をきっちりと着て眼鏡をかけて、と地味な印象があるせいかもしれないし、姿が見えなければ図書館にいる、というくらいに本好きだからかもしれない。滅多に、というのは、深山だけではないのを知っているからだ。言い換えれば、俺も彼女が好きなのだ。
「小野田さんかわいいよなー……」
「そうだな、かわいいな」
 それまではそんな話ついぞ聞いたことがなかったので、読書に縁のないサッカー少年の深山がどうしたことだろうと思いながら、俺も同意した。ぱっと人目を引くことはなくても美少女だし、優しさと笑顔を絶やさない温かい雰囲気がいい、というのが俺たちの共通の見解だ。
 それからしばらく、2人が寄れば一度は彼女の話が出る、と言う日々が続いた。とはいえ、結局のところそれは2人の間でだけだ。周囲にそれを広めるでもなければ、本人にもっと近づこうということもない。少なくとも2人で結託して彼女にちょっかいをかけることはなかった。
 そんなある日。朝礼前に寄ってきた深山が不意に妙なことを言い出した。
「小野田さんの怒った顔ってどんななんだろうな」
「……あ?」
 眉をひそめて俺の机に腰掛けている深山を見上げると、さすがに唐突だと自分でも思ったのか、すぐに説明を始めた。
「いやさ、小野田さんっていっつも笑ってるじゃん。たまに真剣な顔してたり困った顔してることもあるけど、怒った顔って見たことないなーって思ってさ」
「……まぁ確かに俺も見たことないけど、他の女子でも怒った顔なんてほとんど見たことないぞ。お前あるか?」
「……ないな」
 深山は素直に認めた。が、すぐに反論してきた。
「でも、他の奴らって大概不機嫌な顔ぐらい見たことあるだろ。でもお前、小野田さんの不機嫌な顔なんて見たことあるか?」
「んー、確かにない」
 今度は俺が認める番だった。深山はそら見ろ、という顔で俺を見た。
「しかし、これまでそんなだったらたぶん見ずに終わるよな」
「……だよなぁ」
 そろそろ夏休みも近づいてきた。この学校は各学年でクラス替えがあるから、来年も続けて同じクラスになれる確率はそれほど高くない。現に去年は俺も深山も小野田とは別のクラスだった。
 ため息をついた深山だったが、何か思いついた顔でこっちを見た。
「お前ちょっと小野田さんのこと怒らせてみない?」
 ぼそりと言った。俺は呆れて深山を睨んだ。
「お前ね……自分が怒られるのやだからって俺に振るかそれを」
「いいだろー?きっと俺たちの天使はすぐに許してくれるよ」
 俺は言い返そうと口を開いて、声が出る寸前で止めた。タイミングよく教室のドアが開いて担任が入ってきたので、深山は怪しむ前に机から降りると、にっと笑って自分の席に戻った。
 深山の申し出は誰が見ても馬鹿馬鹿しいことだったが、俺は受ける気でいた。人の縁は何でもきっかけがあれば動くのだ。それこそ、こんなくだらない提案であっても、だ。それを自分にとって一番いい結果にするために、俺は考え始めた。

 3、4限は2時間続きの美術の授業なので、美術室に移動だ。その前の休み時間にはがたがたと教室中が騒がしくなる。数学の三春が教室を出るなり、俺はすぐに深山のところに行った。
「深山、お前クロッキー帳忘れたことにしろ」
「んあ?」
「朝の話、やってやるから協力しろ」
 小さな声でそう言うと、深山は小声でわかった、と言った。こういうところはきちんと合わせてくれる。これでみんなに聞こえる声で返事でもしたら即中止するところだ。
「んじゃ誰かに借りるか……」
 俺はわざとらしく聞こえないようにそう言って、教科書片手に小野田の席に行った。いつものことだが、小野田は教室移動となるとしゃべってなくても最後の方になる。思ったとおり、ようやく美術の教科書を出したところだった。
「小野田ー」
「あ、大野君。何?」
 少し高めのゆったりした口調で名前を呼ばれるのは心地いい。俺はすまなそうな顔で言った。
「悪いんだけどさ、先週うっかりクロッキー帳持って帰っちゃって持ってくるの忘れたんだ。1枚分けてもらえない?」
「ああ、うん。いいよ。1枚でいいの?」
 小野田は俺の言葉を疑ってもいない様子で頷いた。すぐにかばんや机の中に手を伸ばさないところを見ると、ロッカーに置いてあるのだろう。俺はちょっと迷った風を装って付け足した。
「ごめん、できれば2枚。深山の奴もないらしくてさ」
「ふふ、やっぱり。じゃあ2人分あげるね。後ろに置いてあるから、ちょっと待ってて」
「うん。ありがとう。助かるよ」
 そう言いながら、俺は緊張し始めていた。小野田がすっと席を立つ瞬間に、周囲をざっと見渡した。教室に残っているのはあと5人。小野田とよく一緒にいる香田は彼女を待っていたようだったが、俺を見てから小野田の方を見て、誰かと一緒に出ていった。わずかな間をおいて、俺は小野田のかばんの中にすっと手を突っ込んで、手に取ったものを教科書の影に隠した。深山に後ろに行くように手振りで示しておいて、音を立てないように自分の席に戻った。手の中のものを自分の机の中にすっと隠すと、その前に筆箱を置いてすぐに自分のロッカーに向かった。
 俺たちが自分のロッカーを開いて絵の具箱を取っているのに気付いて、小野田が顔を上げた。
「あ、絵の具箱はあるんだ?」
「う、うん。こっちは突っ込んだんだけどさ。ごめんねー」
 深山が慌てて答える。俺は中に入れっぱなしのクロッキー帳が見えないように注意しながらロッカーから絵の具箱だけを出した。深山も一緒くたに出さないようにと苦心している。この馬鹿。
「ああ、そんなに丁寧に切らなくても、適当でいいよ」
「ん、きれいに切った方が気持ちいいじゃない?」
 俺が深山と小野田の間に立って手元をのぞき込むと、小野田は丁寧に2枚切り取って、俺に渡してくれた。背を向けている間に俺のしたことに気付いた気配はなかった。今更申し訳ない気がしてきたが、既に行動してしまった。あとは昼休みに俺がどれだけうまく立ち回れるか、だ。

 美術の時間はあっという間に過ぎていく。合間の休み時間に一旦教室に戻ると、深山も呼んでいないがついてきた。
「どうする気なんだよ?」
 わくわくしながら訊いてくる。俺は首を振った。
「お前はネタ知ってたら顔に出るから秘密だ。お楽しみに」
 深山は俺の答えに不満そうな顔をしたが、俺がごそごそとやっているのを見てあきらめたのか、教室を出て行った。俺は休み時間ギリギリまで教室に残って、滑り込みで美術室に戻ると筆を取った。これで下準備は完了。
 絵は苦手だ。ギターを弾く方がよっぽど簡単だと思う。小野田の方を見ると、驚くほどうまいというわけではないが、俺の前にある絵なんかよりはずっとまともな風景が描かれていた。絵筆を握る彼女の横顔は真剣だ。いつもの天真爛漫な笑顔もいいが、こういう表情もいい。
 そんな風に余所見をしたり考え事をしていたりしたら、俺の絵はほとんど進まなかった。見れば深山はそれなりに進んでいる。なんとなく文句を言いたくなったが、さすがにただの八つ当たりなのでやめて、さっさと美術室を出た。
 小野田はどのみちゆっくり出るのだが、絵の具箱の片付けでロッカーを開け閉めしているときにクロッキー帳が見えるのでうまくない。
 教室に着いたのは一番ではなかったが、特に注目もされていないうちにさっと片付けたので気付かれなかっただろう。何気ない顔で席に戻って、深山と小野田を待つ。深山も程なく戻ってきて、弁当片手に俺の後ろの席に陣取った。
「小野田は?」
「まだ向こうにいたけど、そろそろ戻ってくるんじゃねーか?」
 ニヤニヤしながら言う。これで俺が失敗したらはり倒そう。
 そうこうしているうちに小野田が戻ってきた。香田と話をしながらロッカーに道具をしまって、自分の席に戻ろうとする、そこに声をかけた。
「小野田ー」
 手招きをすると、小野田は優しく微笑んで寄ってきた。
「どうしたの今日は」
「ごめんな何度も。いや実はコイツが小野田さんに怒られてみたい!とか言い出してさ」
 そう言って深山を指さすと、小野田は不思議そうな顔で深山を見た。深山の方は、小野田に正面から言うとは思いもしなかったのだろう、飛び上がらんばかりに驚いた。
「怒られたい?」
「あ、いやその……お、おい!テメェ、俺そんなこと言ってねぇじゃねーかよ!」
「そこで、悪いとは思ったんだけどちょっとしたいたずらをしてみた」
 焦る深山をきっぱりと無視して続けると、小野田は眉をひそめた。
「何したの?椅子にボンドでも塗ったの?」
「いや、だったら座ってから呼ぶって」
 俺は思わず苦笑した。昨日の晩、テレビでやってた映画を観たのだろう。俺も観た。
 俺は机の中から小野田のかばんから抜き取った弁当箱を出した。目の前に掲げて、いかにもからっぽのように振ってみせる。
「うまかったよ」
 小野田は目をまん丸に見開いて、「あっ」と小さく声を上げた。
「うそ……食べちゃったの?」
「はいこれ」
 俺は直接答えずに、弁当箱をそのまま小野田に差し出した。呆然とした顔で受け取った小野田は、ちゃんと持ったはずの弁当箱を取り落とした。
「わっ」
「ほい」
 それを受け止めて、改めて差し出すと、目をぱちくりさせて弁当箱を見た。予想外に重かったからだ。もう一度、今度はしっかりと持って、顔を上げた。
「……もう!食べてないんじゃない!」
 小野田はそう言って口を尖らせてみせた。俺は声を出さずに笑って、
「いや、だってさすがに3、4限の間だけで食べきるのは無理だよ。一日何も食べられないのは悪いしさ」
「びっくりしたぁ」
「怒るんならこいつに」
 深山を指して少し身を引くと、深山は嬉しいようなばつが悪いような顔で謝った。
「もうこんなことしないでね、2人とも」
「「はーい」」
 小学生のように声を揃えて返事すると、毒気を抜かれた顔で自分の席に戻っていった。待ちかねた香田に「どうかしたの?」と聞かれて、小野田はちらっとこちらを見た。すぐに香田に向き直って、なんでもないよ、とだけ言った。
「優しいなぁ、小野田さん……」
「俺への感謝は?」
 小野田の子供っぽい怒り方とさっきの言葉に感激している深山は、それを反芻しながら弁当の包みを開く。俺はその頭を軽くはたいて、自分の弁当に手を伸ばした。嬉しそうにゆっくりと食っている深山を尻目に、俺は大急ぎで自分の弁当をかき込んで席を立った。

 その日の放課後、このときばかりはいそいそと帰り支度をしている小野田の机に、小さなビニール袋を置いた。
「……いたずらの続き?」
 じろっと見上げてくる。さっきと違って、本当に警戒している顔だ。そんな顔もかわいいと感じる俺は、深山のことを笑えない。が、これ以上機嫌を損ねられるとそれこそ笑えない。
「いや、そのお詫び。昼休みにちょっと出て買ってきたんだ」
 そう言うと、意外そうな顔で、机に置かれたビニール袋をのぞき込んだ。中身がわかるや、小野田の頬がふにっと緩んだ。彼女のお気に入りのケーキだ。
 しかし、顔を上げた小野田は、今の笑い顔がすとんと抜け落ちたような無表情だった。
「大野君、あたしが食いしんぼだと思ってるでしょ」
「……なんで?」
「お弁当だって男の子みたいにたくさん食べるし、それでもケーキの2つや3つ食べられると思ってるんでしょ?」
「いや、だから昼休みに渡すのはやめたんだよ。普通に弁当食べた後で出されても食えないだろうと思ってさ。だからさっきまで食堂の冷蔵庫に入れてたのを持ってきたんだし。それに別に小野田が特別食べるとは思ってないぞ」
 俺は思わぬ反応に焦って言い訳したが、小野田の視線はちっとも温かくならない。
「うそ」
「ほんとだって」
「でもあたしのお弁当見たでしょ?」
「見たよ」
「とても食べきれないって」
 その瞬間、俺はようやく理解した。あの時わざとらしくふくれて見せたのは深山のために怒ってあげたのではなかったのだ。
「5分で全部食べて元通りにきちんと包み直すのは無理だ、って言ったんだよ。授業に遅れたらあれだしさ。時間制限がなきゃそんな大した量じゃないし、特に多いとも思わないって」
「……本当?」
「本当だよ」
「……ならいいけど」
 小野田はそう言って、冷たい視線を俺から外した。俺はできるだけ表に出さないように、ほっと息を吐いた。きっと今の透き通る刃のような表情が、彼女の怒りの表現なのだ。楽しいなんてとんでもない。
「これ、せっかくだからもらうね」
「うん。食べてちょうだい」
 小野田はそう言って、かばん片手に立ち上がった。ケーキの袋はもう片方の手で大事そうに持って。
「小野田、今日はほんとごめんな。いろいろ振り回したり、気付かずにひどいこと言ったりして」
「……うん。ちゃんと謝ってくれたし、許したげる」
 顔を上げて、俺の目を見てそう言ってくれた小野田の表情に、ようやく微笑みが戻っていた。それはいつものかわいらしいそれではなくて、思わずどきっとするほどに艶やかな微笑みだった。

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2007年03月14日

切れることのない首輪

 零は声にならない叫び声を上げて飛び起きた。部屋の中は十六夜の月の銀光に照らし出されて、昼間以上に無機質に見えた。零は荒い息を吐きながら自分の手を見た。日焼けを知らない手の平を穴が開くほど、見る。細かく震えている。ゆっくりと裏返して、今度は手の甲を見た。ごつごつとした凹凸はほとんどない、白く滑らかな手だ。長く息を吐く。
 隣を見た。つい1週間ほど前に自分の主となった男が、細いいびきをかいて寝ていた。美しい、とは思わない。怖い、とも思わない。濃い青に染めた髪に、どちらかというと色白のやせた顔。寝顔を見ているとどこにでもいる青年だ。その顔が、意志を宿すと別人のように変わる。にやりと笑うと、すべてはこの男の言葉どおりになるような気がする。睨みつけられると、それだけで心まで握られるようなプレッシャーを感じる。それに自分は魅せられた。見ていると恐怖と魅力を同時に感じる神のような存在感に、すべてを捨てた。
 その日の夜、そう言うと彼は大声で笑った。
「俺は悪魔だ。神みたいな力はねえよ」
 どう違うのか、わからなかった。ただ、その時は納得した。だからこそ、自分が恋心を抱いてきた隣のクラスの少年を刺させたのだろう、と。

 零は啓司を起こさないように、そっとベッドから下りた。広い部屋を裸足で歩き、水差しから水をコップに半分注いで、飲んだ。大きめの鏡に、ぼんやりと自分が映っている。月明かりだけでははっきりとは見えないが、ひどい顔をしているだろうと思う。
「地獄に堕ちたいと思うなら、ついて来い」
 啓司が自分に手をさしのべたとき、そう言った理由はこの1週間で身に染みてわかった。啓司以外の人間が零に触れることはなかったが、啓司に蹂躙された人々の血と悲鳴を全身に浴びさせられ、彼の言葉のままにあらゆる「悪行」を行わされた。
 私立の学校に通う箱入り娘にとって、自分で主とすると決めたとはいえ、男の前に肌を晒すことも全身の血が逆流するほど恥ずかしかった。拷問のような責め苦を目の当たりにし、喉を引き裂くような悲鳴を耳にすることは悪夢でしかない。まして、自分自身が男の心臓を頭上で握りつぶし、床に転がった女の首に付いた血を舐め取ることは狂気の沙汰ですらなかった。どうして自分が正気を保っていられるのか、少なくとも正気を保っているような気がしているのか、わからなかった。
 コップを置き、何気なく部屋のドアを見た。啓司の寝息が聞こえる。高級ホテルの上等な部屋だ。外に出れば真夜中でも人がいる。バスタオルを巻いて少し恥ずかしさに耐えれば、逃げることはたやすい。逃げたら啓司は追ってくるだろうか。
(来ないよね……)
 その答えは、知り合ってたった1週間でも自信を持って言えた。啓司は自分を気まぐれで拾ってきた野良猫程度にしか考えていない。そばにいれば餌はやるし、いじめて遊ぶ。が、いなくなってもわざわざ探そうとはしない。そして警察に訴え出たところで、鼻で笑って蹴散らすだろう。
 そして、一言「来い」と言われれば、自分はついていくだろう。騒がせた罰で何かさせられるかもしれないが、そうとわかっていても。
 零はベッドに戻った。

 翌日、零はお使いを言いつかって、近所のデパートに行った。コーヒー豆をいくらかと、ベイクドチーズケーキ。部屋に戻ると、ドアを開けた瞬間に中から耳慣れない楽器の音がした。テレビでも見ているのかと思い、音が漏れないように素早くドアを閉めた。奥に入ると、啓司がトランペットを吹いていた。
 零の方をちらと見ただけで、何も言わずに楽譜を睨みつけて吹いていた。耳慣れない音だったのは、先端に四角い栓のようなものが挿してあるせいだろう。柔らかく、でも金属的な、どこかすすり泣くような音で、聴いたことのないバラードを吹いている。ケーキと豆をテーブルに置くかさり、という音が申し訳ないほど、哀しそうなメロディーだった。
 やがてトランペットから口を離すと、啓司は楽譜をぱらりとめくった。
「零、下のカフェテリアでその豆挽いてもらってコーヒー淹れてもらって持ってこい。あとケーキナイフももらってこい」
「……はい」
 思わず残念そうな声音になってしまった。啓司はちらりと零の方を見たが、零はコーヒー豆を袋から出していて気付かなかった。
 少し嫌そうな顔をされつつ、部屋番号を言うとカフェテリアのコックは黙って豆を受け取り、コーヒーを淹れてくれた。かりかりと豆を挽いている様子を零が横でじっと見ているので、彼はいつもの調子で言った。
「私どもでお持ちいたしますので、お部屋でお待ちください」
「いえ、私が持って行くように言われていますから」
 そう言うと、嫌そうというより不審そうな色がわずかに浮かんだが、口ではかしこまりました、とだけ答えた。きっといろいろと噂になるのだろう、と思ったが、それは零の気にすることではない。
 それでも淹れてくれたコーヒーと借りたケーキナイフを、これまた借り物の盆に載せて部屋に戻った。キーカードを忘れたのでノックをすると、案外すぐにドアが開いた。
「オートロックだぞ。鍵忘れんなアホ」
「すみません……」
 即座に飛んできた叱責も本気で言っている感じではなかったが、零は恐縮した。中に入ってコーヒーをテーブルに置くと、ケーキを出して手早く切った。
「どうぞ」
「ああ」
 啓司は楽器をケースにしまって椅子に座ると、コーヒーを飲んだ。零はベッドにぽすんと腰を下ろして、そんな啓司を見ている。
「……お前、自分のは?」
「え?準備してませんけど……」
 意外そうに言う零に、啓司はコーヒー豆の袋に目をやり、部屋に備え付けのポットに目をやった。
「お前、適当になんか飲み物用 意しろ。このケーキはなかなか旨い」
「いいんですか?」
「いくらなんでもホールケーキ1個食えるか」
 それもその通りだが、零は思わず目を丸くして、すぐに我に返った。
「いただきます」
 そう言って、慌てて自分の飲み物の準備にかかる。紅茶のティーバッグが備え付けてあったので、それを使うことにした。バタバタと準備をしている間に啓司は自分の分のケーキは食べてしまった。
「零、俺の分もう一切れくれ 」
 紅茶の準備ができるのを待って自分のケーキを切っていた零に声をかける。零は、はい、とだけ返事をして、自分の皿にもう1つケーキを載せた。それを持って行くと、啓司は呆れ顔で、片方をフォークで刺して取った。
「お前、余所でそれやるなよ?みっともない」
「?」
「面倒でも相手の皿を取りに来い。使ってないからって手前の皿に載せて運ぶなんざ論外だ」
 零はまた恐縮したが、縮こまってケーキを食べながら、ふと可笑しくなった。
「ん?」
「いえ……」
 啓司はそれにめざとく気付いたが、何をされるかわからないので口にはしなかった。

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2007年03月09日

食卓

「どう、して……こんなこと……!」
 こぼれ落ちる涙とこみ上げてくる嘔吐感で言葉にならない。隣にうずくまっている彼女の夫は、ただただ驚愕の視線を送るだけで、何一つ口にできない。啓司はそんな2人の様子を見ながら、平然と三切れ目の肉を口にした。零も特に表情を変えずにそれに倣う。ただ1人立っている佐加野だけは、2人の反応を正視できずに、テーブルについている啓司と零を必要以上に見つめていた。
「こんな恥ずかしい娘なんざいらないんだろう?何そんな顔してるんだ」
 啓司は冷徹に言い放った。母親は言葉に詰まる。だが、すぐにぼそぼそと恨み言のように言葉をこぼした。
「に、人間を料理して、食べるなんて……狂ってる……なんで、なんでこんなこと……されなきゃいけないの……」
 それは砂のようにさらさらと床に溜まっていく。それに何かのスイッチを入れられたように、父親が突然がばっと立ち上がった。零はとっさに腰を浮かしかけたが、彼は啓司や零に直接手出しをしようとは考えていないようだった。食卓とは逆方向に駆け出し、電話の子機をつかんだのである。
 そのまま家の奥へ逃げていく。彼の手元からぴ、ぴ、ぽ、と3つだけ音がした。
「零」
「はい」
 零は電話の親機の方に駆け寄ると、裏に手を伸ばしてモジュラージャックを引っこ抜いた。表示がぎりぎりで通話になったのが見えたが、一瞬であれば悪戯だと思うだろう。そもそもあれほどの混乱状態で説明したら、どちらにしても悪戯だと思われたかもしれないが。
 席に戻ろうとする零に、突然母親が大声を上げて襲いかかった。肌が病的に白く髪もほとんど色が抜け落ちた零なら勝てると思ったのだろう。が、零は振り返った勢いのまま、右拳で相手の額を全力で打った。決して大柄とは言えないが、それでも零よりは確実に体格のいい大人の女が、悲鳴を上げて転がった。額を抑えたまま、体を丸めて痛みに耐える。一方の零は一歩たりとも動かずに拳を振り抜き、あっさりとはじき返した相手を無言でにらみつけた。蔑みはなく、怒りに近い光があった。

 零が食卓に戻って、残りの料理を食べ終わるまで、家の中も外も平穏だった。父親は奥から出てこようとはせず、母親もうずくまったまま、何もしようとはしない。
 佐加野が食器類を手早く片付け、零も手伝ってすいすいと洗っていく。啓司は食後のコーヒーを飲み干すと、立ち上がって家の奥に進み、一番手前の部屋のドアを開けた。母親には無遠慮な行動を咎める気もない。しかし、ほどなく戻ってきた啓司の手にしたものを見て、思わずのどの奥から悲鳴を上げた。
「ここまでが娘との契約だ。受け取れ」
 そう言って差し出したのは、髪の長い少女の首であった。啓司の手は乾ききらない断面の血液で赤黒く染まっているが、少女の顔には傷も汚れもない。そして何より、目を閉じたその表情は静かで、わずかに微笑みすら浮かべていた。
 母親はじりじり、と後ずさった。その顔は明らかに恐怖に彩られ、視線を外すことすらできないでいた。受け取る、などという行動に出られるとは、ちらりと振り返った佐加野も思わなかった。
「ったく、愛娘の肉は食えねえ首は受けとらねえ。人間の方がよっぽど情がねぇな」
 啓司はこれ見よがしにこぼして、手にした首を食卓に置いた。まっすぐに家の奥、父親のいる方に向けて。
「啓司さん、お台所は片付きましたよ」
「ん、じゃ行くか」
 佐加野は片手に鞄を持ち、啓司と零は手ぶらで、玄関の方に向かう。が、零は我慢できずに振り返って、静かに告げた。
「あなたの娘さんは、あなたとお父さんに撫でてもらいたいと言っていたわ。彼女の一番の望みだって」
「零」
 啓司の呼びかけに、零はすぐに身を翻した。答えがあるとは思っていなかったし、あっても聞こうとは思わなかった。そもそも通じるとすら思っていなかった。ただ、零は初めて、啓司のためではなく自分のためだけに言った。

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2006年08月21日

第二部 序章

 ミーンミンミンミンミー……ミーンミンミンミンミー……。

 屋上の日射しは強かった。明日から夏休みに入る、という日。手に持たされた宿題の重みも忘れて、皆1ヶ月半の休みを前に浮かれている。
 私もその1人だ。だから、たった一月のお別れの前に、暑いのを承知でこんなところに寝っ転がっている。制服もしばらく着ないのだから、多少汚れたって構うことはない。

 あの日も暑かった。蝉の声がうるさくて仕方がなかった。それでもここに上ってきたのは、手紙で呼び出されていたからだ。去年の7月13日、期末テストが終わった日だった。
 告白劇はほんの数分で終わり、私は帰る気にもならなくて、屋上に寝っ転がった。その時、たまたま彼が残って私が帰っていたら、私が彼と付き合っていたら、誰かがその時上ってきていたら。
 全てが変わっていたに違いない。

 私がいて、他に誰もいなかったから、彼女は私を選び手を取ったのだ。彼がいたら、彼が選ばれてサイラークへ行ったのだろう。
 もし誰もいなかったら?
 彼女はいつものようにありきたりな悪態をつきながら校舎をうろつき周り、「適当な人材」を求めたかもしれない。すなわち、「最初に月の神官と視線を交わす者」を。

 彼女が人の少ない校舎をぶつぶつ言いながら歩く姿を想像して、可笑しさがこみ上げてきた。あまりにも彼女らしかったし、それがまざまざと想像できてしまったのだ。誰もいないのをいいことに、声に出して笑った。
「シェリルだわ」
「お、よく気づいたな」
 独り言に返事が返ってきた。思わず飛び起きて、声のした方を向いた。赤い髪、青が基調の重そうなトーガ。月の神官シェリル・シェーラはにかっと笑って言った。
「久しぶりだなトーコ、いや、黒き月。悪いがまた力貸してくれねーか?」

posted by alohz at 21:00| Comment(0) | TrackBack(0) | [短編]ファンタジー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月06日

移転しました

ようやくですが、当文箱は底なし文箱(短編全般)および底なし本棚(「ギター弾きの見る夢」を含む続き物)に移転いたします。

もうしばらくここは残しておきますが、今後は新しい文箱の方においでくださいますよう、お願いいたします。
posted by alohz at 07:08| Comment(0) | 事務連絡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月04日

板塀の道を抜けて

 夏の夜中。うるさいセミは寝付いたし、外はそれなりに涼しい。清少納言も「夏ってやっぱ夜よねー」とかなんとか言っていたような気がする。しかし、こんな時間に外を歩くのはそうあることじゃない。
 街灯の下で、持っていた葉書を見た。筆で手書きされているらしい地図では、もう少し行った先の公園に印がついていた。葉書といったが、そして事実それは葉書サイズの少し厚めの紙なのだが、正規のルートを通って届いたものではないのだ。無論、誰かに手渡されたわけでもない。
 起きたらそばに置いてあったのだ。住所も切手もないが、宛名だけは書いてあった。間違いなく俺の名前だった。しかも美しい字だった。裏面にはこの地図があり、『今夜25時、こちらまでおいで下さい』と、これも美しい字で書き添えられていた。
 誰に渡されたわけでもなく、差出人を示すものは何もなかった。捨ててしまってもよかったのだが、それでもなんとなくずっと持ち歩き、日が変わった頃合いに起き出して、こうして夜の散歩をしている。
 当然だがこんな夜中には誰もいない、と思ったが、意外にそうでもないらしい。車も走っているし、ワイシャツ姿の疲れた男とすれ違ったりする。……勤め人ってのは大変だ。

 公園にはさすがに人影もない。それほど大きい公園ではないが、遊具がいくつかあったり砂場があったりして、昼間は親子連れと犬の散歩でそれなりに人が多い。しんとしているのはさすがに夜だけだ。
 腕時計は、集合時間の20分前を指していた。ちょっと早過ぎだ。何が起こるとも知れないが、ベンチにでも座って待とう、とベンチの方を向いて、思わず体が硬直した。人がいた。
 入り口の方からは見えなかったが、白い和服を着た女性がベンチに座っていた。寝ているのかいないのか、目を閉じて動かない。膝に何か抱えていて、細い棒のようなものが脇にはみ出している。
 どうしたものかと思ったが、数秒迷って、近づいた。彼女がこの葉書の差出人であるかもしれない。
 そばに寄って口を開きかけたとき、不意に彼女が目を開いた。思わず驚いた俺と目が合う。と、彼女は俺の持っている葉書に視線をやって、破顔した。
「あら、ずいぶん早いんですね。お若いのに……」
 自分はもっと若いんだろうに、そう言ってコロコロと笑った。
「あ、じゃやっぱりあなたがこれ……」
「ええ。私がお渡ししたんです。すみませんけど、時間までもうちょっと待っていただいていいですか?今日はあと4人来られることになってますから……」
 そう言って、彼女は俺に隣に座るよう促した。呆気にとられて頭が回り出さないまま、とりあえず俺は腰を下ろした。ふわりとかすかな香りが届いた。彼女の香水か。
「私、結衣と申します。今日の案内役です」
「あ、俺、三田村義弘です」
 つられて挨拶をして、頭を上げてから、彼女が書いた葉書に俺の名前が書いてあったことを思い出した。ようやく頭も回り始めたらしい。
「あの、今日の、って、今日はなんで呼ばれたんですか?」
「え、ご存じないんですか?」
 結衣さんは本気で不思議そうだ。……知ってるはずのことなのか?
「ええ、なんとなく来てはみたんですけど」
「……」
 どうやら知ってるはずのことらしい。でも今日何かあったという記憶はないし、この葉書に書いてある以外に何か聞いたり見たりした覚えもない。
「ええと、こう言うのも何ですけど、あなたは――」
「あのー」
 誰かが横から急に割り込んできた。呑気そうな爺さんの声に俺は思わず非難がましい視線を向けた。
「あんたが案内人の方ですかいな」
「あ、私です。結衣と申します」
「おお、かわいい案内人さんですな。では、よろしく頼みますわ」
 爺さんは今日のことを知っているようで、旅行に行く前のような調子で言った。結衣さんもツアーガイドのような風情で笑顔を見せている。
「で、ですね」
「あ、はい」
 結衣さんがこちらに向き直った。
「結論から言いますと、私はこれから義弘さんを含めて5人の方を、黄泉の国へご案内します」
「黄泉……つまり死ぬってことですか!?」
 あまりのことについ声を上げたが、結衣さんは微笑んで首を横に振った。
「もうあなたは既に亡くなられてますよ。今日のお昼間、事故に遭われたのを覚えてませんか?」
「事故……」
 事故、と言われて、ようやく少しずつ思い出してきた。昼間、バイトに行く途中に、隣を走っていた車にいきなり横からぶつかられて、ド派手にこけた。そして――
「……あれ?こけて、それから……」
「対向車線に飛び出してしまい、トラックに轢かれたんです。ヘルメットにすごいヒビが入ってましたよ」
「……ぅぉ……」
 想像しただけで気持ち悪い。そう言われてもその時のことは思い出せないが、たぶんそうなのだろう。俺は、とっくに死んでいた。
「死んでた……ってことは俺来週のライブ!」
「?」
「うああああ出られねぇ!つーかバンド自体出られないじゃねーか!来週じゃ穴埋まんねーよ!」
「!?」
「おおおお……せめてあと1週間待ってくれたら……!」
 いきなり悶え始めた俺にさすがの結衣さんも驚いたらしい。かなり引き気味だ。
「あの……大丈夫ですか……?」
「大丈夫かどうかといえばきれいさっぱり大丈夫じゃないです」
「まぁその、お若いですから気持ちはわかりますが……」
 気を遣ってくれるが、ポイントが微妙にずれている。
「結衣さん、俺行くの1週間だけ待ってもらえませんか?来週の土曜の夜にまた来ますんで」
 俺のお願いに、結衣さんは少し悲しそうな顔をした。
「すみません、今日行く方は今日でないといけないんです。別に私が連れていったら亡くなるわけじゃなくて、もう亡くなってますから、今日行かないとこのまま亡霊になっちゃいます」
 一瞬亡霊でも何でもいいや、という気になった。それを察知したのか、少し慌てた様子で言った。
「あ、ダメです。亡霊になっちゃったら黄泉の国に入るのに一度穢れを落とさないといけなくなります。火で焼いて、熱湯でふやかして、それからこそげ落とすんです。麻酔なしで」
「……じ、地獄じゃないですかそれ」
「そうです。地獄は黄泉の国の大浴場なんです」
「風呂ならリラックスさせてください……」
「じゃあ洗濯場」
 ぐうの音も出ない。
「それに、そこに入るまでも大変なんです。成仏も自力でできなくなりますし。ですから、今日お連れします」
「はい……」
 心の中でバンドメンバーに土下座しながら、俺は頷いた。さすがに頷くしかない。
 不意に、周りの空気が変わった。
「あら、時間ですね」
 結衣さんはそう言って、膝に抱えていたものを手にした。引っ張り上げると、ぱたぱたぱた、と小さな音を立てて広がっていく。提灯だった。中に手を入れると、ぽっと火が点った。
 準備ができて、結衣さんが立ち上がった。俺も立ち上がりながら周りを見渡すと、さっきの爺さん以外にも人がいた。ご老体ばかりだ。まぁいいことだろう。
「皆さん、お待たせいたしました。それではご案内しますので、ついてきてください』
 そして、浴衣姿で提灯を提げた結衣さんを先頭に、爺さん3人と婆さん1人と俺、というよくわからない一行は夜の町を再び歩き始めた。
 俺はこの町で生まれ育っているから、自分の行動範囲以外でも多少の地理はわかる。が、結衣さんの先導で辿っていく道は、すぐに俺の見覚えのない道になった。
 結衣さんは時々後ろを振り返って、迷子がいないか確かめるように俺たちを見回す。
「もう少しです。ちゃんとついてきてくださいねー。ここではぐれちゃったら、ちゃんと成仏できませんから」
 怖いことをにこやかに言って、再び歩き出す。いつの間にか青白い鬼火が彼女の周りに漂い始め、提灯でオレンジ色に染め上げられていた彼女の肌が、本来の透き通るような白い色を取り戻した。
 一歩一歩、一行は黄泉の国へと進んでいく。前を歩く結衣さんのうなじの白さと、時折視界を通り抜ける鬼火の青さに、頭の中が少しずつ空っぽになっていく気がした。
 たまに横道がある、まっすぐな板塀の道を進んでいく。戻ろうか、という迷いはもうない。仲間へのすまない気持ちも消えた。
「そろそろですよー」
 結衣さんの声に頷いたときには、もう心は言葉になっていなかった。わずかに、スティックを握ったときの感触を思い出し、それも残り火のようについとかき消えた。

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2006年06月08日

とどかない、そら

 珍しく、啓司さんが私を下がらせた。いつもなら、相手が何と言おうが構わずに一緒に中に入ってしまうのに、だ。
「その辺で時間潰してろ。4時にさっき通った喫茶店に来い」
 まだ1時を回った頃だ。さっき2人でコーヒーとサンドイッチという簡単な食事をしたばかりだから、すぐにそこに戻ろうという気にはならなかった。手元にはそれなりにお金はある。でもそれをぱーっと使う気にも、ならなかった。そもそもあまり買う物もない。
 エレベーターで、最上階まで上がった。高級、とはお世辞にも言えないマンションだ。最上階と言っても8階までしかない。私が昔住んでいた家は14階にあったし、エレベーターももっと速くて静かだった。ドアもこんなに錆が浮きそうなドアではなかった。
(……ずいぶん、昔の話)
 口は動かさずに、独り言。非常階段は下だけではなく、上にも伸びていた。鍵が開いているとは限らなかったが、とりあえず行ってみる。
 頑丈そうな錆色の扉があった。ノブをぐっと下げて押した。重い。足に力を入れて左手を添えると、ごごんとわずかに音がして、扉が開いた。ふっと外から風が入ってくる。それを感じながら、外に出た。
 低いフェンスが周囲に据え付けてあるだけ。でも、空は意外なほど広かった。何気なく左手を見ると、はしごが壁に付いていた。その上には、前は白かっただろう給水タンクが置いてある。そのてっぺんまでは、顔をいっぱいまで上げないと見えなかった。

 はしごがぎしぎし、と音を立てる。でも、音の割に手応えはしっかりとしていた。つるりとした給水タンクのてっぺんまでは、はしごを離れて3、4歩歩く。周りに私より高いものはなかった。まだ日射しがあって、思わず手を額に当てる。
 視界いっぱいに、四角い町が広がっていた。そして、雲一つない青空。
(広いんだな、この町)
 これまで、啓司さんに連れられていろんな町に行った。船で学校に行くような田舎にも行ったし、電車内に知り合いなんて1人もいないような都会にも行った。そんな中では、今いるここは、別に大きくも小さくもないと思っていた。それでも、私の小さな体と比べたら、思った以上に大きい。
(啓司さんも広いって思うかな)
 考えて、すぐに打ち消した。あの人は、きっとそんなことは思わない。あの人はどこまででも行ける、大きな力強い翼がある。私が必死で走ってもなかなか横断できないこの町を、一飛びで越えてしまう。啓司さんは誰も持っていない「絶対」を持っているから。
 きっと、この四角い町は啓司さんが見下ろしている人々なのだろう。そして、啓司さんはこの空。私は何故か、誰よりも空に近いところにいる。でも、他の誰よりも近いだけだ。どんなに従順に見上げても、甘えて飛びついたとしても、私に翼が生えない限り。
 空には届かないのだ。

 4時15分前。私が喫茶店のドアを開けると、くっと襟首を引っ張られた。振り返ると、啓司さんがいた。行くぞ、という一言で、私はただついていく。盲目的にではない。啓司さんの視線の先をじっと見て、言葉の示すことをじっと感じて、考えながら進む。
 啓司さんの体からは、わずかに血の臭いがした。他の人の匂いは、しない。無造作に歩く物腰からは、私がいなかった3時間の間に何をしていたのか、窺うことはできない。私はそっと足を速めて、下から横顔をのぞき込んだ。すぐに気づいて、わずかに微笑んでくれる。頭を撫でてくれる。その手の大きさを感じながら、横顔をじっと見た。
 飛べない私が空を感じるためには、偽物でもいいから翼が要る。張りぼての翼を磨いて、鍛えて、少しでも空気を掴ませていれば。
 届かない空にも、近づくことはできる。

posted by alohz at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | [短編]悪魔と虚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月12日

窓越しの空

 夏の晴れた日はいい。空の青はこの上なく明るく、少年の瞳のように健やかだ。そこに浮かぶ雲は、少女達の笑いさざめく声にも似た、弾けるような元気さ一杯に伸び上がっている。
 そういったのは誰だったか。作家を気取っていた父か、インテリぶっていた兄か、前の恋人だったかもしれない。よくよく、うざったい口が近くに多いものだ。

 少女は窓辺の机に座って、外を見ていた。細い脚を片方だけ立てて、その膝に白い腕をのせて。窓の外に歩く人の姿はない。彼女の視界にはたまに車が飛び込んでくるぐらいだ。彼女のあられもない格好を考えれば、それはいいことだろう。小さな体を黄色の下着とスリップとで覆っただけで、乱れた髪も軽くまとめただけだ。彼女の幼い顔立ちを見れば、しっとりと女の匂いたつ姿はとてもアンバランスで、しかし奇妙に似合っていた。
 机の上の携帯が震えた。手だけを伸ばして探った。差出人はわかっていた。
『今日は会えて嬉しかった。クレハの笑顔が見られなかったのは残念だったけど。また連絡するよ』
 一読して、ベッドに放り捨てた。その行方には見向きもせずに、ぼんやりと外を見る。その視界に車が1台入ってきた。洒落っ気のない国産の小型車。メールを打ち終えてから、走り出したのだろう。彼女――クレハは眠そうなしかめっ面で濃紺の車を見送った。
 夏の青い空に、その車はまるでそぐわなかった。馬の群れの中に混じったロバのように、影を背負ってのろのろと走っていた。クレハもまた、窓越しの空とはまるっきり異質だった。露わになった小さな体も、幼い顔に表れた不機嫌さも、外の景色とは相容れない影を浮かび上がらせていた。
 室内はエアコンで冷やされていた。ぞっとするほどの外の暑さは感じられない。昨晩の汗を流した直後は少し肌寒く感じたが、それももう感じない。寝乱れたままのベッドの上にはタオルケットが1枚だけ丸まっていた。もう1枚、暑くてはねのけたのかベッドの脇に落ちている。
 不意にクレハは窓辺を離れ、ベッドの上の携帯を手に取った。さっき届いたメールを表示して、もう1度読んだ。そのまますぐに削除した。空のメールボックスが表示されると、興味を失ったように目を離し、周りを見渡した。自分の好きな物がしっくり来る位置に置かれた、自分の部屋だ。クレハは大人びたため息をつくと、タオルケットを両方丸めて抱えると、部屋を出て行った。
 主のいない部屋は静かだ。時計の針が1秒に2度鳴り、エアコンが低く低く唸っている。携帯は鳴らず、コンポも黙っている。机の上の写真も、何も語らない。

 ドアが開いて、下着姿のままのクレハが姿を現した。右目にかかりそうな髪をかき上げ、机の上の写真をぱたんと倒しながら、机の端にとんと尻を載せた。ごく自然に足を上げ、窓枠をぴたりと踏んだ。
「もういいよ……」
 ほんの一言、彼女の唇から漏れた。そのまま、何を見るでもなく夏の日を見ていた。

posted by alohz at 00:17| Comment(0) | TrackBack(0) | [短編]日常の風景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月18日

ピアノマン

 その男は、小さな公園のベンチに寝転がっていた。所持品はない。薄いブルーのワイシャツとチノパンに、くたびれたジャケット。無精ひげはそろそろ目立ち始める、という頃合いだ。
 朝の散歩に来た老人は、まだ若い彼の顔を見て、酔っ払いだと思って無視した。愛犬の散歩に来た少女は、彼の着古した服を見て、浮浪者だと思って無視した。朝のおしゃべりに集まってきた主婦たちが、気味悪がって警察に届けた頃には、すでに太陽は高く上がっていた。
 主婦に促されて、近くの交番から来た警官が男の肩を揺り動かした。最初はそっと、次は強く。男はかすかに呻き声を上げ、目を開けた。
「大丈夫か?こんなとこで寝てちゃダメだろう」
 警官も、最初に見た時からこれは酔っ払いだと思っていた。繁華街にほど近いこの地区に回されてから、彼はよくこの手の酔っ払いが朝まで寝ているのを起こしていた。
「ほら、起きた起きた。もう10時半だぞ」
 しかし、男は目を開けこそしたが、すぐにまた目を閉じてしまった。警官は一瞬いらっとしたが、すぐに違和感に気づいた。男の様子は、見慣れたうるさげな反応とは少し違っていたのだ。よく見れば、呼吸の仕方が普通より荒い。一瞬合った視線も、あまり焦点が合っていなさそうに見えた。
 少し迷って、彼は携帯を出した。

「身元不明……ですか」
 丹沢医師は、目の前の若い警官の言葉を思わず繰り返した。忙しい日常を過ごしている身には、耳に馴染まない言葉だ。自分の職場である金元第一病院のロビーで聞くと、逆に現実感がない。
 警官は頷いた。
「ポケットの中身も空で、財布すら入っておりませんでしたし、洋服もずいぶん古い上に、タグが全て切り取られていました。一応写真を公開して情報を集めるつもりですが、今のところ彼の身元を示す情報は何もありません」
 生真面目に答えた。丹沢医師はあまり面白くない結論が見えてきた。
「つまり、彼を当院で預かれ、ということですか?」
「いえ」
 意外な返答が来た。それが顔に出てしまったのか、警官は続けて説明した。
「先ほどの診断の結果から、彼は肉体的には健康だということになりますよね。ですから、当面は警察病院に転院していただくことになります」
「なるほど」
 ほっとした。丹沢医師が件の患者の預かりを嫌がったのは、身元がわからないからではない。2日前に運び込まれてきたこの患者は、疲労こそしていたが、丸1日で健康体に戻った。しかし、その間の診断の反応から、精神的に何らかの病を患っている可能性は高い。そして、彼の勤める病院には精神科はない。
「では、今日の午後には退院できるよう手続きをしましょう」
「はい、よろしくお願いします。それから、転院に必要な手続きについてもお願いできますか?」
「ええ、それはもちろん」
 警官は欲しい結論を得ると、どことなくロボットのような礼をして、その場を辞した。残った丹沢医師も、仕事に戻る。彼が診ている患者は、1人ではないのである。

 その男は、全く語ろうとしなかった。転がっていたベンチから引きはがされた時も、病院で食事を出された時も、「退院だ」と言われた時も、口をきくことはおろか、眉1つ動かさなかった。言葉だけでなく、表情ですら語ることはなかった。担当の看護婦は数度話しかけて、あっさりと諦めた。担当の医師はそういうわけにもいかないが、事務的な問いかけにすら全く反応を示さないので閉口した。
 そして、新しくあてがわれたのは別の病院の個室だった。個室といってもそれほど広くはない。必要十分、という言葉を思い出してしまうくらいだ。
「名前は?」
「住所は?」
「どうしてあのベンチに寝っ転がってたんだ?」
 新しいベッドに座っていると、時々若い警官が来て、いろいろなことを訊いた。それに対しても、彼は一言も答えず、ただ黙って俯いていた。警官も、自分の座っている病室が精神科病棟だということをわきまえているので、手のつけようがない。
 彼は、しかし人形のような状態ではなかった。食事を出されればきれいに平らげ、看護婦が呼びに来ると風呂に自分で入る。服も自分の物は警察にあるので、病院服を一日着ている。スリッパも使う。ただ、語らなかった。周囲からは、他者というものを否定しているように見えた。名前もわからないと、仕事にも支障が出る。誰が言い出したのか、医師や看護師は彼のことを國木田さん、と呼んでいた。
 精神科病棟に来てから2日が経った。しとしとと雨のたおやかに降る日。何1つ刺激のない病室にはさすがに飽きたのか、國木田はベッドから降り、病院の中を歩いた。
 ロビーには人が出入りしている。外が雨なので、國木田が初めて通った時と比べると、薄暗い印象を受ける。植木と採光窓がいくつもあるので、晴れているとアトリウムのように明るいのだが。
 病室の間を歩いていると、ロビーほどではないが、時々人とすれ違う。患者より見舞客と、見舞客より看護婦とすれ違った。普段とは違う病棟なので、顔見知りはいない。1階を全て見て回って、普段いる病棟に戻った。玄関ロビーで繋がっているこの病棟の奥に、精神科の共同スペースがある。普段は入らない場所に、國木田は足を向けた。
 共同スペースとは言っても、テーブルがいくつかとテレビが1つ、置いてあるだけだ。あまり他の人がいるのを見たことがない。今日も見舞客らしき母娘が、隅っこのテーブルでぼそぼそと何やらしゃべっているだけだ。何を見るでもなく、結局病室に戻った。
 その夜。國木田は暗闇の中で仰向けに寝転がったまま、考えていた。これからどうすべきなのか。今のところは病院に厄介になることにするとして、その後はどうするか。
 彼は自分の基盤を失っていた。サイズもきちんと合っていない服を無理矢理着せられ、真夜中に明かりもないところで車から蹴落とされた。自分の声が出ないことは大したことではない。数日前の苦痛と比べればマイナスとも思えない。しかし、あれほどの苦しみを経て得たものが、身元不明の入院患者という肩書きだけだという現実は、堪えがたい。さらには、自分を縛っていた鎖が一夜にして全て消え失せたことに対して、喜びよりも不安を感じていることも堪えがたい。
 表情を作ることも思い出せないまま、國木田は沈黙のように柔らかくのしかかってくる不安と戦っていた。

 翌朝。担当医の増田が國木田に手渡したのは、A4 サイズのスケッチブックと12色入りのペンだった。
「何か絵を描いてくれるかな。テーマは特にないから、思いついたものを描いてくれ」
 國木田は頷きもせずにスケッチブックとペンを受け取った。少し考えていたが、黒のペンを取ると、サラサラと絵を描き始めた。隣でその様子を見ていた増田の表情が、段々驚きのそれに変わっていく。
 太いペンで國木田が描き出したのは、ピアノだった。それも、ホールなどでよく見かけるグランドピアノが寸詰まりになったような形をしていた。左右に余白があるから、紙の大きさの都合ではなく、彼の心に映っているピアノがその形なのだろう。黒く塗るべきところはきっちり黒く塗り、太いペンで器用に鍵盤を描き出していく。
 國木田は相変わらず黙して、ただ描いた。サスティンペダルを描いて、ピアノの足に付いている車輪を描いて、ようやくペンを置いた。見直しでもするようにじっと見て、増田にスケッチブックを戻した。
「すごいじゃないか。見本も見ずにこんなにきれいに描けるなんて……絵で食っていけるな」
 そう言って笑顔を向けた。國木田は一応顔を増田の方に向けてはいるが、反応はしない。少しアテを外された増田は、もう一度スケッチブックを國木田に渡した。
「じゃあ次は、木を描いてくれ。地面に生えてる方の木だ」
 増田の言葉に、國木田はもう一度スケッチブックを開いた。ピアノの次のページに、これも黒ペンだけを走らせた。真ん中より少し左寄りに、柳の木を描いていく。今度はピアノよりも時間をかけて、それでも増田が見た中ではトップクラスに速く、きれいな線を引いている。全体に木の幹には影がかかっているが、細身の幹のラインは女性の腰のような魅惑的な曲線を描いていた。増田は、思わずため息をついた。
「君は絵が得意なんだなぁ。こんなに迷わずさっさと描いてく人なんてそうそういないんだが……」
 國木田は褒められたという感情を持たなかった。目で見たものを細かく記憶することもそれを絵に描くことも、國木田にとっては生きていくための技能の1つでしかない。
 増田はしばらくピアノの絵を眺めていたが、ふと國木田を見た。その顔を少し見て、一つ頷いた。
「ちょっとついて来てくれないか?君に見せたいものがあるんだ」
 そう言うと、返事を聞かずに立ち上がった。数日の経験で、國木田相手に何かをして欲しい時は有無を言わせずに行動を始めてしまうのが正解だと学んでいるのである。そして彼の見込み通り、國木田は警官の勝手さに溜め息をつきもせず、立ち上がった。

 増田が國木田を連れてきたのは、一階にある共同スペースだった。相変わらず人影がまばらなスペースの、奥の方に導いていく。
「これが見せたかったんだ。弾いてもいいよ」
 そう言った増田の後ろには、グランドピアノがあった。カバーは少々埃っぽい色になっていたが、コンサートグランドと呼ばれる、堂々たるグランドピアノだ。國木田の絵を見て、ピアノになら興味を示すかと思ったのだ。しかし、彼のの表情は動かない。
 失敗か、と増田が肩を落としかけた時、國木田がすっと歩き出した。ピアノの椅子に腰掛けると、ごく自然な動作でピアノの上蓋を開け、鍵盤の蓋も開けた。赤いフェルトをピアノの蓋の上に軽く放って、鍵盤に指を落とした。
 増田の表情はどんどん緩んでいった。彼の想像は当たっていたのだ。グランドピアノから流れ出したのは、力強いタッチの「Imagine」だった。ピアノソロ用にアレンジされたものなのだろう、右手でメロディーを、左手で和音を弾いている。それも、そう難しいものではない。しかし、簡単な曲ながら、國木田の指の動きは滑らかで迷いがない。おそらく何度となく練習したのだろうと思わせる演奏だった。
 ジョン・レノンの名曲が終わると、國木田は手を下ろしてふっと一つ息をついた。が、すぐに指を鍵盤に戻し、次の曲を弾き始めた。今度は増田の知らない曲だった。これも淀みなく弾いていく。
 増田はそっと、國木田の表情をうかがった。その横顔には、やはりいつもと同じく何の表情もないように見える。だが、増田はどことなく真剣な雰囲気を感じ取った。
 2曲目が終わると、増田は思わず拍手をした。
「すごいじゃないか。今のはなんて曲なんだ?」
 しかし、國木田は答えなかった。答えないだけではない、質問を投げかけられたことに対して全く反応していなかった。次の曲が始まって、自分が完全に無視されたことを知った増田は、いつものことながら一抹の苛立ちを覚えた。仕方ない、仕方ないんだと自分を抑えながら、増田はそばにあった椅子に座った。彼が國木田に使える時間はまだ20分以上残っていた。

 國木田はほっと脱力して、鍵盤から指を外した。ふと我に返ると、周囲には人だかりができている。それぐらいで表情が崩れる國木田ではないが、さすがに内心では少々驚いた。ピアノを片付けて、席を立つと、聴衆はなんだかんだと言ってきた。皆口々に誉めそやしているのだが、当人はまるで聞く気もないので、何を言っているのかまで理解していなかった。國木田はどちらかというと、増田という若い医者の姿がないことの方が気になっていた。無論、実際には別の仕事に行かねばならなかったため、後ろ髪を引かれる思いでこの部屋を後にしたのである。
 病室に帰りながら、國木田の心は自分の指が思いの外スムーズに動くことに占められていた。絵は仕事に使うために覚えた。しかしピアノは完全に趣味だった。仕事に使うことなどできず、そのためここ数ヶ月はピアノに触れていなかった。まだ弾けたのだ、という驚きと、喜びがあった。
 國木田は、独り言も含めて病院では一切口を利いていなかった。それが必要なことだからでもあるし、元々あまり喋らないように習慣付けていたせいで無口になったのもある。表情を変えないことも含めて、苦痛を感じることはなかった。それ自体は良くも悪くもない。ただ、感情の起伏が表情に合わせて緩やかになっている自分を実感するようになって来た。
 彼はここ数日で急速に「國木田」になりつつあった。
(‥‥いつまで待たせるのだ、あいつは‥‥)
 表情を変えず声帯を震わせることすらなく、國木田の一瞬の感情は空気に溶けていった。

posted by alohz at 00:11| Comment(0) | TrackBack(0) | [短編]音楽的 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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