2007年10月27日

手を伸ばす理由

「どうして人を傷つけたりするんですか?」
 初めて啓司さんに会ったとき、そう訊いた。自分の力が通じない私を面白いと思ったのだろう、啓司さんはまだ制服を着ていた私の質問に答えてくれた。
「食事みたいなモンだ」
 その時の私はその意味が理解できなかった。朝は二日酔いでフラフラなのに、その日の夜にも酔っぱらって帰ってくる父親を思い出して、ああいう悪癖の極端なものなのかと考えていた。
「楽しいんですか?」
「時によるな。お前も飯食ってる時いつもいつも幸せだとは限らないだろ。マズいもんに当たることもあるし嫌いなもの食わなきゃいけないことだってある」
「……ええ、まぁ」
「いい具合に苦しんだり憎んだりされるといいんだがな。たまに間違って変なのに当たると、そういう感情が少なかったり中途半端だったりで不味いこともある」
 ここまで説明されてなお、私はあの人にとっての『人を傷つけること』がどういうことなのか、よくわからずにいた。
 ただ、私が好きだった先輩をあの人のナイフで刺した時、啓司さんは信じられない、という表情の彼を見て楽しそうな顔をしていた。その後何日か経って私より年上の女の人を誘い出した時は、どちらかといえば義務的であまり楽しそうには見えなかったから、何か差があるんだろうな、という程度には理解できた。

 板の間を踏むわずかな音で我に返った。あの時のナイフを右手に持って、広い和室の片隅にいる。足下に倒れているヤクザのおじさんの手から拳銃を抜き取ると、床に飛び散った血を踏まないように移動して、少し気後れしたが床の間に上がった。ぼんやりしていたのはどれぐらいの時間だっただろう。最初に部屋に飛び込んだ時は、部屋に集まっていた10人をいかに逃さないかに集中していたのに、最後の1人が口にした「どうしてお前みたいな――」という一言で、少し昔のことを思い出してしまった。
 足音が1つでないことはすぐにわかった。床の間の隅にぴたりと身を寄せて、ナイフを鞘に収めると拳銃を両手でしっかりと握った。相手も部屋の中が静かなことを警戒しているはず。ふすまを開けた瞬間に、事故を覚悟で掃射してくる可能性もあった。
 足音が止まった。おそらく3人。広間のふすまの向こう、両端と真ん中にそれぞれいる。少し間があって、ふすまが一斉に開いた。怒声と共に拳銃を構えたおじさんたちが飛び込んできた。部屋中に転がった死体と猛烈な血の臭いに一瞬体が強ばった。そこを狙う。
 消音器のついた拳銃は、細っこくて背も低い私には似つかわしくない暴力的な力で3人の頭に穴を開け、命を吹き飛ばした。自分たちの銃を使うことなくあっさり倒れ伏した3人を見ても、喜びも悲しみも特にない。恐れや畏れは啓司さん以外に感じなくなって久しい。
 そのまま床の間の陰で待っていたが、後からやってくる気配はなかった。警戒しながら、そっと床の間を降りて死体の1つに近づく。啓司さんの指示どおりに、組長と呼ばれていたおじいさんの手から指輪を全て抜き取って巾着袋に入れた。一緒に、そばに転がっていたはんこも放り込む。もう1人、組長と取引をしていたらしいおじさんのはんこと万年筆も入れる。この袋を持ち帰るのが私の一番の仕事だ。
 そろそろ弾切れしそうな拳銃を後から入ってきた3人のものと交換して、啓司さんと合流しようと広いお屋敷をうろうろしていると、部屋の1つで人の気配がした。周囲を警戒しつつ、ドアを思い切りけり開けた。銃を構えて急いで部屋に入る。
「きゃあぁぁ!」
 悲鳴を上げたのは、私と同じくらいの年格好の女の子だった。
「な……何よあんた?何があったっていうの……」
「ここの娘さん?」
 私がドアを閉めてちらりと彼女の方を見ると、彼女は涙目でこくこくと頷いた。拳銃の音はほとんどしていなかったはずだが、外で飛び交う怒号におびえているのだろう。柔らかそうな丸みをおびた体が細かく震えていた。
 和室なりに女子高生らしく飾られた部屋を見回し、クローゼットの中を確認して、私は銃を下ろした。それを見て、彼女が泣きそうな声で訊いてきた。
「ねえ……あなた誰……?なんでそんなの持ってるのよ……」
「私は零。ここで今日、この組と隣の三紅組の組長同士が会うからまとめて始末するように命じられたの」
「……!誰がそんなこと……」
 淡々と言った私に、彼女は目を見開いた。
「この辺のヤクザはたちが悪いから、2、3個つぶして様子を見る、らしいわ」
「そんな……何かの実験みたいな……どうして?どうしてこんなことするの?」
 彼女の目に溜まっていた涙が、ついにこぼれ落ちた。
「みんないい人なのに……どうして簡単に傷つけたり殺したりできるの!?」
「人間は多かれ少なかれ破壊衝動を持っているわ。普通の人はそれを理性で抑えられる。でもここにはその理性が少ない人が集められているのよ。怒った時に、普通の人なら我慢するところで簡単に弱い人を殴りつけるような人の集合。普段いい人であるかどうかは別としてね。だから、自分が同じ目にあっても文句を言う筋合いじゃないわ」
「そんな……それにしたって酷すぎるわよ!」
 彼女を抑えていた、恐怖から来る理性が外れたのだろう。やおら立ち上がると、片手に銃を提げたままの私の両肩を掴んで揺さぶった。
「返してよ!私の家族返して!」
「それは無理よ。人は死んだら生き返れない」
 こんな時、啓司さんならどうするだろう、と考えた。おそらく、もっと深く彼女を傷つけてから、そのまま放って帰るだろう。自分を恨ませて、何らかの形で追いすがってくるのを待つのだ。でも私は恨まれても特にいいことはない。
 だから、責めていたはずの私の体にすがりつくようにして泣いている彼女の背中を優しく撫でてやってから、腰のナイフを抜いて頸動脈を一息に切り裂いた。

 啓司さんは私の報告を聞いて、お前は憎まれる必要がないんだな、と言った。私は何度も自問してから、頷いた。私と啓司さんが最も違うのは、そのことだ。私の体は啓司さんのようにはできていない。その思いが通じてしまったのか、啓司さんは私の頭を撫でてくれた。私は我慢できずに、その手をそっと取って何度も口づけた。

posted by alohz at 09:00| Comment(0) | TrackBack(0) | [短編]悪魔と虚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月20日

テンポラリー

 耕一は目の前の男を、射抜くようなまなざしで睨みつけた。超越者を前に、足がすくむことも手が震えることもない。本人はそれを意識していなかったが、睨まれている啓司はそのことに感心した。
 以前は、目の前で啓司が平然と人を傷つけるのに驚き、恐れていた。啓司は一人で、耕一を連れてあちこちで「悪行」を見せた。耕一にも協力させて、老若男女を問わず騙し、焚きつけ、絶望させた。
「今はどうしてる?その様子じゃ世間に埋没して無気力に生きてるってわけじゃなさそうだな」
「ええ。少々有名になりましたよ。あなたと違って」
 言葉の刺は飛び出さんばかりに鋭い。長い間怒ることもなかったのだろう。駅前だというのに三人の周囲にはぽっかりと人が寄りつかないが、離れたところで若い男女がそっと観察しているのがわかる。
 啓司は一歩近寄ると、耕一の頬に手を当てた。その性質とは裏腹に、女でも通じる顔立ちだから違和感がない。耕一は殊更に男がそばに寄るのを嫌うが、その理由には納得したものだ。女を組み敷くときの荒々しさにも。
 耕一は油断していなかった。頬に触れている冷たい手のひらが動くかどうか、啓司の肩が動くかどうか、隣に控えている女が動くかどうか。かつて後ろについて回っていて、啓司の強さは肌で知っていた。できるならばすぐにでも殴ってやりたいが、先に動いたら負けることは確信できた。だからこそ、後の先を取って一秒か二秒で勝負を決めるつもりでいた。
 それでも、耕一は啓司の動きに反応できなかった。肩はほとんど動かなかったし、反射的にかわそうとする身じろぎは頬の手に止められた。周囲にどよめきと、女の嬌声が響いた。
 一秒強で我に返った耕一は、首から上を固定されたまま足を上げた。そのかかとが啓司のスニーカーに届く直前、左頬を強烈に叩かれた。右頬に添えられていた手は同時に離れ、唇を引っぺがされるように吹っ飛んだ。そのまま倒れた耕一の頭に、啓司の足が乱暴に乗った。
「まだまだだな、こっちは」
 楽しげな声に、耕一はうめき声で応えた。啓司は足をどけると、零に声をかけて歩き出した。耕一はゆっくりと起き上がると、無警戒にそばを通り過ぎかけた零の腕を取った。驚いた顔の彼女を力任せに抱き寄せる。小さな悲鳴に啓司が振り返ったのを確認して、強引に唇を奪った。
「なんだ、お前そういうのが好みか?」
 啓司の言葉は、しかし期待通りの色を帯びていなかった。不本意な扱いを受けているにも拘わらず、腕の中の少女も抵抗らしい抵抗をしようとしない。
「もっと背ぇ高くて気が強いのがタイプだと思ってたのにな」
 耕一は唇を離した。
「別に宗旨替えをしたつもりはありませんよ」
 秋の気配がようやく顔を出した頃合い、零は桜花の色のブラウスに膝上のスカートといういでたちだ。それほど背が高くない耕一でも、ほとんど表情を変えずなすがままの少女は、小さく儚く感じられる。
「じゃそいつが特別か。何なら連れてっていいぞ」
「好きにしていい、と?」
 頷く、と耕一は読んでいた。何者にも執着しない男だ。
「ああ。二、三日したら連れてこい」
 それだけ言うと、啓司は耕一に笑いかけて、背を向けた。耕一は零のブラウスの襟を掴んで、そのまま勢いよく引きはがした。転ぶほどの勢いをつけたが、スニーカーをはいた少女は2、3歩たたらを踏んだだけでその勢いをいなした。声一つあげない。
 目を背けて、歩き出した。少し間を開けて、零も続いた。耕一は駅前の繁華街を通り抜けて、小さな看板が出ている階段を下りた。零も、看板に目をやってから続いた。
 何も言わずにカウンターに座ると、零は耕一の左隣に座った。まだ早い時間だからか、客は他に二組。席もいくつも空いている。耕一は零に視線を向けたが、零は無表情でメニューを見ていた。
「今日は早いな。大騒ぎは無しか?」
「後回しだよ。食い物とジンライム」
 マスターはさらさらと伝票を書いた。
「お嬢さんは?」
「……何か食べるものと、ズブロッカ」
「ズブロッカね」
 耕一は思わず隣の少女を見た。肩よりわずかに長い程度の銀髪、ほとんど化粧っ気を感じない横顔、自分より頭半分ほど小さな体、少し大人びて見えるハンドバッグ。味のきついウォッカをカクテルにもせずに飲むようには見えない。
「あの人の趣味も変わってるな。ガキにズブロッカなんて仕込むなんてな」
「……弱いお酒はかえって苦手なんです。すぐに回ってしまいますから」
 静かな声で言った。
「啓司さんにもしばらく下戸だと思われてました。ビールもカクテルもワインも飲めませんから」
 零は笑わなかった。淡々と、耕一を見て話した。他の客の声が聞こえないほど、静かで控えめな口調で。啓司の好きな声だ。幼く整った容姿も、小さく痩せた体格も、細い首や指も、薄い唇も、気配を消せば空気に溶けていきそうな雰囲気も、全てが啓司の好みそのままだ。
「マスター」
 さりげなく、手の動きを止めずに振り返った彼に言い放った。
「ジンをいつもの倍入れてくれ」
「悪酔いはいいとは言えないぞ」
「いいから」
 マスターはそっと溜め息をついて、棚に戻したばかりのジンの瓶に手を伸ばした。

「お嬢さん、この男のどこがいいと思ったんだね」
 手が空いたマスターの一言に、耕一は鋭い一睨みで応えた。それをまったく意に介さず微笑みかけてくる中年の男性に、零はどう答えたものかと迷った。いいも悪いもない。
「……よく、わかりません。私は啓司さんの言ったとおりについて来ただけですから」
 まさか、という視線を向けられて、耕一は吐き捨てるように言った。
「あの人が帰ってきたんだよ。こいつはあの人が連れてた女だ」
「……啓司が、また来たのか……」
「ご存じなんですね」
 マスターの微笑みに、隠しきれないかげりが見えた。
「知ってるさ。まだ2年経つか経たないかだ。この男がここに来るようになったのも、そもそも啓司に連れられてだったしね」
 そう言ったマスターの声は沈痛だ。零もそれはよくわかる。そして、今自分がしているようなことを、以前は耕一がやっていたのだということも推察できた。
 ちびり、とズブロッカを口にした。舌の奥から喉の中までがカッと熱くなる。味はその前後にほんのりと感じる。
「しかし、あいつがまた来たとなると、痛々しい話が増えるな」
 マスターのうめくような言葉に、耕一は無言でジンライムをあおった。カウンターの奥の時計に目をやると、がたんと席を立った。
「行くぞ」
 カウンターに五千円札をぼんと置く。マスターは何も言わずにレジを開け、それをしまうとすぐに閉じた。零も立ち上がり、マスターに会釈をして耕一の後を追った。
 2人の姿を見送った1時間後、来客を告げるドアベルに顔を上げたマスターは、思わず息を飲んだ。が、すぐにいつもの表情に戻って、静かに話しかけた。
「本当にまた来たんだな」
「……?ああ、耕一にでも聞いたのか」
 濃い青に染めた髪、外したサングラスは真円、痩せた体つきまで2年前とまったく変わらない。マスターは無言でジントニックを作った。
「何しに来たんだ?」
 当たり前のようにジントニックを受け取って、啓司はにやりと笑った。
「立ち寄っただけだよ。用事も何もない。4、5日で出るさ」
「前もそう言って、結局半年くらいいたな。金田君を堕落させて、次はあの女の子か?」
「あれはとっくに耕一以上になってるよ。腕も中身も」
「罪人が。何も知らない顔してたぞ」
「だからいいのさ。吸収早いクセに全くもって色が変わらない。あんなにどんだけ染めても真っ白な奴は初めてだ」
 啓司はカクテルに口を付け、マスターは嘆息した。
「耕一にゃあいつは使えないよ」
「……彼も成長したよ。よくない方向にだがな」
「本人も言ってたな」
「――あぁ、すみません。少々お待ち下さい」
 マスターは別の客の会計を終えると、そのまま客を見送るように外に出た。しばらくして、外でがたがたと音がした。
「随分早いな」
「ここを破滅の苗床にはしたくないんでね。最近はまともな客がようやく戻ってきたんだ」
 マスターはカウンターに戻ると、手早く中を整理し、新しいグラスに自分の分のウィスキーを入れた。
「あ、しまっちゃう前にレーズンバター」
「レーズンバターな」
 冷蔵庫から容器を出して、手早く切った。
「見栄えは気にするな」
「いいよ。食べやすく切ってくれればそれで」
 いつもは全体に散らすレーズンバターが、元の棒状そのままに行儀よく並んでいる。啓司は軽く笑って、フォークで1つ突き刺した。
「で、あいつは今何をやってるんだ?」
「ヤクザみたいなもんさ。高校生くらいの若い連中集めて喧嘩したり、強請の真似をしたり。それで男女問わず人気があるんだから不思議なもんだ」
「あいつ見てくれがいいからな。馬鹿はいくらでも寄ってくる」
 啓司はつまらなそうに言った。
「下らん奴になったなぁ。もう半年はそうやってんだろ?」
「ああ」
「ま、本能になってないんなら仕方ねぇけどな」
 マスターはこの言葉に、わずかな悪寒を覚えた。耕一に啓司が言う「本能」が存在していたら、彼は今以上の災厄になるのではないかと。それを打ち消すように言った。
「そんな本能、人間にはないさ。お前が特別イカれてるんだよ」
 かつての耕一がいたら真っ青になったであろう台詞に、啓司は笑いで応えた。
「俺だけじゃないさ。漫画みたいな気違いオヤジは実在するぞ?殺しがショーになるような世界とかな。俺なんかよりよっぽどヤバい連中だ」
「見てきたような言い方だな」
「見てきたよ。殺されるはずだった男助けて司会をぶっ殺したら大喜びしてな。拍手と小遣いくれた。カス以下だな」
 何の感情も交えずに言った。マスターはぐい、とウィスキーを飲み干し、瓶に手を伸ばした。
「聞きたくもない話だ」
「そのショーに俺を誘ったの、ナンパしたどっかの金持ちのご令嬢だったな。もう24、5だったけど」
「聞きたくないと言っただろう。……あの女の子はどこからさらってきたんだ?」
「神戸だかあの辺の高校で会ったんだ。誘ったらついてきた」
「高校生……か。若いのに不憫な」
「自分で不幸に向かってくるような奴だぜ。それからのこと考えても、あいつはあいつで相当狂ってるよ」
「狂わせたんだろう」
「あれは自分でこっちに来たよ。耕一にはちょっと魔法使ったけどな。零には一切使ってない。名前つけたぐらいだな」
「どっかの婆さんみたいなことするな」
 啓司は笑ったが、言ったマスターは面白くなさそうにストレートのウィスキーを口にした。
「早仕舞いさせといて何だが、そろそろ行くよ」
「さっさと帰って目一杯寝てくれ」
 マスターはそう言いながら、カウンターの外へ回った。その鼻面に万札が現れた。
「……なんだ、どういう風の吹き回しだ」
「金持ちから枯れるまで吸い上げた金は庶民に還元してやらないとな。あと明日もたぶん来るからそれもコミで」
「……次は俺が中にいるときに出してくれ。おつりの用意ができない」
 立ち上がった啓司が見慣れないものを肩から提げていることに気づいたのは、その時だった。
「これは?」
「ん?ああ、トランペットだ。メーカーは聞いたことないんだが、音がいいし吹きやすいから気に入ってる」
 事も無げに言う。マスターは驚きと共に、1つの予感が浮かんでくるのを見た。が、すぐに打ち消した。階段を出て、駅の方に歩いていく後ろ姿は、記憶のそれと変わらない。どこにでもいそうで、しかし決定的に他人と異なる気配を持ったそれだ。
(まさか……な)
 マスターはもう一度、虫のいい妄想を打ち消して、看板のコンセントを挿し直した。

 耕一は呆然としていた。兎を蛇の巣穴に放り込んで、いたぶるつもりだった。唯々諾々と耕一の言葉に従う零が、一体どんな顔をするのか見てやりたかった。
 目の前に、兎に言いように翻弄された蛇が5匹、転がっている。最後の1匹も、肩を完全に極められて動きを止めた。零は痛みに悲鳴を上げる男を無表情に見下ろし、そのまま肩を外した。激痛のあまり満足に叫ぶこともできない男を捨てるように転がして、耕一の方を見た。
「お前……」
「終わりました」
 そう言って近寄ってくる零に、耕一は思わず拳を振り上げかけた。心から消えることのない理性が、それを押しとどめる。零は無防備に、無表情に、耕一の葛藤を見ていた。
「あの人の仕込みか」
「はい。自分で自分の身ぐらい守れるようにと」
 耕一は鼻で笑った。
「よく言うよ。自分が危険に飛び込んでくクセに」
「はい。ですから、常に隣にいられるように、です」
「すぐ人を見捨ててく人間の台詞じゃないな」
「捨てられるまでは、一番近くにいたいですから」
 耕一の理性が一瞬緩んだ。乾いた音が響く。
「……来い」
 襟首をぐっと引っ張られて、零は頬を押さえながら立ち上がった。手を離して部屋の奥に歩いていく耕一の後に、零は素直に従った。足下でうめいている高校生を、2人とも一顧だにしなかった。

 翌朝は曇りだった。窓から入ってくる気弱げな光で、零は目覚めた。隣でまだ寝ている耕一を起こさぬように、ゆっくりとベッドを降りて服を着た。窓の外を見ると、眼下に小さな公園があった。誰も来ることがないのか、遠目にも錆が浮いているブランコが、所在なげに揺れていた。
 もう一度、耕一を見た。寝顔を、素直に可愛いと感じられる。零より2歳年上の男性なのに、どれほど睨まれても怖さがない。
 たぶん、あの人に会ったからだ、と声には出さずに呟く。啓司の目には、耕一とは違うものがある。くだらない話をしていてすら、目が合った瞬間に心を握りしめられるような何かが。耕一は、彼と比べるとあまりにも普通だ。
 いつの間にか、前の晩に零に襲いかかってきた男どもはいなくなっていた。用を足し、ソファにもたれかかった。帰ったものか。少し迷ったが、起きるのを待つことにした。啓司は耕一に「連れてこい」と言っていた。
 昼過ぎに起きてくると、零には見向きもせずにシャワーを浴びた。しばらくして出てくると、そのままトイレに入る。零はなんとなくトイレのドアを見つめて待った。時が止まったような錯覚を覚えて、零は時計を見た。壁の時計は電池がないのか、8時33分16秒を指したまま静止していた。視線を上げると、静かに時を刻んでいる銀色の置き時計があった。12時50分。零は思わずトイレのドアと時計を見比べた。シャワールームのドアが開いてから、もう30分近く経っている。
 控えめにノックした。すぐにドアに耳を当てて、中の音を聴いた。水が流れ出す音に、零は安心して耳を離した。実際にドアが開いたのは、もう少し間があってからだった。

 耕一は、確信を持ってドアを開けた。オレンジの光に満ちた店のカウンターに、啓司がいた。カウンターでコーラを飲んでいる。
 昔、それを嘲った客がいた。耕一がかみつこうとするのを止めて、啓司は笑顔でその男の肩を親しげに叩くと、隣にいた女の顔面を思い切り殴った。
「こんな化粧臭い女連れてんなよ。いるだけで鼻が曲がる」
 男は何も言えずに、失神した女を引きずっていった。何事もなかったかのようにカウンターに戻った啓司の横顔と、今目の前にいる男の横顔がぴったりと重なった。一瞬、自分が啓司にくっついていた頃に戻った気がした。啓司を探し歩いて、見つかるのは大抵この店で、必ずカウンターにいた。
 耕一は軽く首を振った。あの時自分が置かれていた立場に今いるのは、自分の後ろにいる女だ。
「啓司さん」
「早かったな」
 ゆっくりと振り向いて、笑った。自分の言葉に他人が踊らされているのを見て、よくこの顔をしていた。
「退屈な女でしたよ」
 そう言いながら、啓司の隣に腰を下ろした。零は何も言わず、反対側に座った。
「子飼いの連中ボコられたんじゃねぇか?」
 にやにやしながら言った。
「その辺にいたのを集めただけですよ」
「そりゃ無理だろうな。ヤクザの2、3人なら屁とも思わない娘だ」
 耕一は啓司を睨みつけた。その視線に気づいてもいない様子で、啓司はグラスに口を付けた。
「ペットはな。至極使えるのが2、3匹いりゃいいんだよ。零に手も足も出ないのなんざただの無駄飯喰らいだ。捨てちまうか?」
「そのつもりです」
「嘘つけ」
 啓司の返答は早かった。
「組織は無駄飯喰らいでも飼わなきゃいけない。どうしても頭数がいるからな。捨てたら後で困るぜ?」
「別に俺は組織を作ったわけじゃないですよ」
「味方がいるんだろ?」
 耕一は少し間をおいて、頷いた。
「同じコトだ」
 耕一は席を立った。扉に手をかけようとする影に、啓司が言った。
「つまらん奴になったな」
 ぴたり、と止まった手は、すぐにノブを掴んだ。
「俺なら零を無事に返したりしない」
「――じゃあ、啓司さんならどうしました?」
「わからないか?」
 半分だけ店の外に体を置いて、答えた。
「首だけ返しますか?」
「手足を全部切って返す」
 一言、なるほど、と言って、耕一は今度こそ出て行った。
「気色悪いこと言うな。本気にするだろう」
「ハイハイ」
 マスターの渋面を見もせずに言って、啓司はコーラを飲み干した。席を立つと、マスターに「じゃあな」と手を振って出て行った。零も、マスターに一礼して後を追った。
「これからどうします?」
「飯にしよう。耕一が後2、3日で騒ぎを起こさなければ移動する」
「はい」
 啓司は慣れた足取りで路地に入った。近道はよくわかっているのだ。零は薄暗い道を歩きながら、呟くように言った。
「あの人、すごく寂しそうでした」
「家庭が原因でヒネた奴だからな。根っこにあるのは構ってほしい欲求なんだよ」
「……だからわざと突き放したんですね」
「まーな。俺に一時構われて散々いい思いしたのがいきなり捨てられたんだ。なんだかんだ言って、あいつたぶん身近な仲間切り捨てたりするんじゃねぇかな。そうすれば俺が構ってやると思ってるんだから可愛いもんだ」
 零は溜め息をついたりはしなかった。ただ心の中で少しだけ、耕一と将来の自分とを重ね合わせた。

 翌日は何も起こらなかった。啓司はいつものように人を騙して小銭を巻き上げ、日が暮れると生演奏のあるバーで、スタンダードを数曲吹いた。零は日中は啓司と離れ、一人黙々とフルートを吹いていた。夜は啓司の演奏に、静かながら誰よりも想いを込めた拍手を送り、酔って騒ぐ客を無表情に黙らせた。
 その更に翌日、啓司は昼間のうちにバーのシャッターを叩き、不機嫌そうなマスターに荷物を預けた。
「……俺のところに泊める気はないぞ?」
「心配するな。今日中に取りに来るよ」
 ようやく不安げな色を浮かべたマスターに手を振って、啓司は零を連れて住宅街を歩いた。行き先はわかっているようで、足取りに迷いはない。零が道を覚えきれなくなってきょろきょろし始めた頃、啓司が口を開いた。
「着いたぞ」
 零が啓司の視線を追うと、学校の門が見えた。
「高校、ですか?」
「耕一のな。あーでもクラス知らねぇな」
 そう言いながら、耕一はモンに手をかけると、ひょいと上に飛び乗った。
「越えられるか?」
 零が首を振ると、啓司は手をさしのべた。零が手首を掴んで飛び上がると、それに合わせて引っ張り上げ、門の上に下ろした。
 誰にも見とがめられることなく校舎に入ると、下駄箱の奥を見回した。下駄箱は横長の校舎のほぼ真ん中にあり、左右は事務室など生徒の気配のなさそうな部屋と特別教室しか見あたらない。
「上か」
 2人は堂々と階段を上る。2階は1年生の教室だったので、もう1階。懐中時計を開くと、2時20分を過ぎたところだ。
「零、向こう見てこい」
「はい」
 3階に着くと、啓司は右手を指してそう言い、自分は左手に歩き始めた。教室の前後のドアからそっと中の様子を確認する。1つ目はハズレ、2つ目もハズレ、3つ目と4つ目は空だった。服が脱ぎ散らかされているから、体育だろう。一番端は無人の被服室。反対側の教室も見て回ったが、耕一の顔は見つからなかった。階段の向こうを見ると、零がある教室の前にうずくまっていた。啓司の視線に気づいて、その教室を指さす。
 啓司も零の隣にうずくまった。中に入る気は今のところなかった。今まで何もしなかった理由はわからないが、じき動くという確信があった。
 並んで、耕一が受けている現国の授業を聞いた。教科書を順に読み、年寄り先生が場面や登場人物の心情を説明する。零は聞いているのかいないのか、ぼうっとただうずくまっていた。
「じゃあ次を、金田」
 教師の指名で、席を立つ音が聞こえた。続けて何やら軽い物音がして、女生徒の悲鳴が上がった。零は弾かれたように啓司を見た。
 机や椅子を蹴立てて逃げる騒音が響いて、流石に隣の教室から中年の女性が出てきた。すぐに2人を見つけ、誰何しようと近づいてくる。彼女に、中から飛び出してきた制服が思い切りぶつかった。
 啓司は立ち上がり、倒れたまま起きあがれない2人に笑いかけてから、続いて飛び出してきた男子生徒に足をかけた。あっさりと転んだ彼の上に、次々とクラスメイトが倒れ込んでいく。
 前のドアが開く音に反応して、零は1人目の足下にスライディングをした。両腕に力を込めて、2人目が現れる直前に下半身を引いた。こちらも数人が将棋倒しになって、出口を塞ぐ。
 中から机を蹴飛ばす音はほとんど聞こえなくなった。代わりに教室中が悲鳴を上げていた。同じ階の教室から次々と教師が顔をのぞかせ、あるいは叱責しようと姿を見せた。
「あ、あなた達は誰なの?何をしたの!?」
 腰が抜けた生徒を膝に載せたまま、最初に現れた教師が叫んだ。啓司はそちらを見もせずに、下から3番目の生徒を蹴りつけた。避けようもなく、顔を赤く染めて呻く。
「やめなさい!」
「お前、なんてことしやがる!」
 奥から来た若い男の教師が、取り押さえようと躍りかかってきた。それをカウンターの裏拳1つで黙らせて、零の方を窺った。同じように取り押さえようとした中年の教師の股間を、冷静に蹴り上げたところだった。つい笑みがこぼれる。
 中から聞こえる悲鳴の質が変わっていた。小さくうめくような、絞り出すような声が混じっている。それを認めたとき、火災報知器のけたたましい音が鳴り響いた。同時に校内放送のチャイムが鳴った。
『全校の皆さん、校内に不審者が侵入しました。授業を中断し、直ちに避難してください。繰り返します。不審者が3階の教室で暴れています。授業を中断し、直ちに避難してください』
「啓司さん」
 サイレンの音に埋もれかかった耳に、零の澄んだ声は易々と届いた。
「彼が出てきます」
「来い」
 零の耳にも、啓司の低い声がまっすぐに届く。ぱっと駆け出し、すぐそばで足を止めた。
「オイ、テメェコラァ!」
 背後、そして前方からもドラ声がぶつけられた。
「テメェ何やっとんじゃコラ!」
 啓司は、ごく自然に嘆息しただけだった。前の入り口を見つめ続ける。
「きいとんのかテ――」
「金田さん!」
 前からの声に、後ろの男も口と足を止めた。零は息を飲んだ。長袖のワイシャツが、まだらに染まっている。耕一は表情が抜け落ちた顔で、自分を呼ぶ声の方を見やった。
「か……金田さん?」
 異様な姿に若干の恐怖を覚えたのか、震える声で呼びかける。その喉に、一瞬前まで耕一が持っていたナイフが突き立った。
 太り気味の体が崩れ落ち、耕一がナイフを引き抜いたときには、まともに動ける人間は啓司と零だけになっていた。怪我をしていない者も、中と外で無造作に生み出された死に凍りついてしまっていた。
「どこまでいっても予想通りだなお前」
 耕一はすぐには答えず、抜き身のナイフを持ったまま近づいてきた。あと一歩でナイフの間合い、というところで、啓司は手を差し出した。上を向いた手の平に、耕一は首を振って、零と視線を合わせた。
 いきなり飛びかかってきた耕一を、零は落ち着いて見ていた。まっすぐに心臓を狙うナイフを避け、右手でそれをそっと抑えながら、後ろ襟を掴んで全力で体をひねった。がづっと硬い音がして、肉厚のナイフが壁の掲示板に突き刺さった。距離を取ろうと引いた零の胸ぐらを耕一の手が捉えた。ぐいと引っ張られた零は抵抗せず、逆に耕一の懐へ飛び込んで迷いなく耕一の喉にかみついた。驚いて引きはがそうとする耕一に、両腕を耕一の背に回して抵抗する。
 耕一の顔が痛みにか恐怖にか、歪んだ。右手で必死に零の首を引いて、左手は壁に付き立ったナイフに伸びた。引き抜こうとしたが、動かない。零の右手がいつの間にか耕一の背中から左腕に伸びて、猛烈な握力で締め上げていた。その痛みに、呻き声が漏れる。
 零は急に耕一から離れた。かなり無理な体勢とはいえ、耕一が全力で引いていたその力で飛び離れ、啓司のそばに戻った。その動きを目で追った耕一は、どうして零が離れたか理解した。啓司が呼んだのだ。笑っていた。2年前には、隣で見ていた笑みだった。
 何も言えずに見ていると、2人は耕一に背を向け、そのまま去っていった。耕一を含め、誰も止めなかった。2人の気配がなくなってから耕一がまっすぐに立つまで、優に5分はあった。地に着かない足取りで、2人を追うように歩き始める。
「……か、金田さん!」
 声のした方にナイフを投げた。うぉ、危ねぇ、と声がするのが耳に入った。振り返る気はなかった。

「本当に来たな。ようやく行くのか」
「ああ」
 零も荷物を取ってすぐに出てきた。零は荷物の一部を啓司に渡すと、ありがとうございました、とマスターに頭を下げた。
「君が何とか幸せになれるよう願っているよ」
「今以上の幸せなんてありえませんけど、ありがとうございます」
 零が心の底からそう言っているのがよくわかって、マスターは嘆息した。
「耕一が来たら適当にあしらって追い出しな。店潰されるぞ」
「もうほとんど潰れかけだ。関係ない」
「それならそれでいいけどな」
 啓司は肩をすくめて外に出た。零も続く。まだ陽は傾きかけだ。マスターは出しかけの看板を片付けた。耕一は来る。マスターはそう信じていた。

 駅はまだ混雑しておらず、学校が終わったばかりの学生でざわついている。零が切符を買いに行き、ふと視線を外した啓司の目に耕一の姿が映った。駅前のバス乗り場のロータリーのど真ん中だ。
「あーあ」
 啓司は耕一と一瞬だけ視線を交わすとすぐに零の方を向いた。切符を2枚持って啓司を待っている。1枚を受け取って、自動改札を抜けた。
 背後でどよめきが起こったが、2人は顧みることなく、反対側のホームに渡るために陸橋を上った。

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2007年03月14日

切れることのない首輪

 零は声にならない叫び声を上げて飛び起きた。部屋の中は十六夜の月の銀光に照らし出されて、昼間以上に無機質に見えた。零は荒い息を吐きながら自分の手を見た。日焼けを知らない手の平を穴が開くほど、見る。細かく震えている。ゆっくりと裏返して、今度は手の甲を見た。ごつごつとした凹凸はほとんどない、白く滑らかな手だ。長く息を吐く。
 隣を見た。つい1週間ほど前に自分の主となった男が、細いいびきをかいて寝ていた。美しい、とは思わない。怖い、とも思わない。濃い青に染めた髪に、どちらかというと色白のやせた顔。寝顔を見ているとどこにでもいる青年だ。その顔が、意志を宿すと別人のように変わる。にやりと笑うと、すべてはこの男の言葉どおりになるような気がする。睨みつけられると、それだけで心まで握られるようなプレッシャーを感じる。それに自分は魅せられた。見ていると恐怖と魅力を同時に感じる神のような存在感に、すべてを捨てた。
 その日の夜、そう言うと彼は大声で笑った。
「俺は悪魔だ。神みたいな力はねえよ」
 どう違うのか、わからなかった。ただ、その時は納得した。だからこそ、自分が恋心を抱いてきた隣のクラスの少年を刺させたのだろう、と。

 零は啓司を起こさないように、そっとベッドから下りた。広い部屋を裸足で歩き、水差しから水をコップに半分注いで、飲んだ。大きめの鏡に、ぼんやりと自分が映っている。月明かりだけでははっきりとは見えないが、ひどい顔をしているだろうと思う。
「地獄に堕ちたいと思うなら、ついて来い」
 啓司が自分に手をさしのべたとき、そう言った理由はこの1週間で身に染みてわかった。啓司以外の人間が零に触れることはなかったが、啓司に蹂躙された人々の血と悲鳴を全身に浴びさせられ、彼の言葉のままにあらゆる「悪行」を行わされた。
 私立の学校に通う箱入り娘にとって、自分で主とすると決めたとはいえ、男の前に肌を晒すことも全身の血が逆流するほど恥ずかしかった。拷問のような責め苦を目の当たりにし、喉を引き裂くような悲鳴を耳にすることは悪夢でしかない。まして、自分自身が男の心臓を頭上で握りつぶし、床に転がった女の首に付いた血を舐め取ることは狂気の沙汰ですらなかった。どうして自分が正気を保っていられるのか、少なくとも正気を保っているような気がしているのか、わからなかった。
 コップを置き、何気なく部屋のドアを見た。啓司の寝息が聞こえる。高級ホテルの上等な部屋だ。外に出れば真夜中でも人がいる。バスタオルを巻いて少し恥ずかしさに耐えれば、逃げることはたやすい。逃げたら啓司は追ってくるだろうか。
(来ないよね……)
 その答えは、知り合ってたった1週間でも自信を持って言えた。啓司は自分を気まぐれで拾ってきた野良猫程度にしか考えていない。そばにいれば餌はやるし、いじめて遊ぶ。が、いなくなってもわざわざ探そうとはしない。そして警察に訴え出たところで、鼻で笑って蹴散らすだろう。
 そして、一言「来い」と言われれば、自分はついていくだろう。騒がせた罰で何かさせられるかもしれないが、そうとわかっていても。
 零はベッドに戻った。

 翌日、零はお使いを言いつかって、近所のデパートに行った。コーヒー豆をいくらかと、ベイクドチーズケーキ。部屋に戻ると、ドアを開けた瞬間に中から耳慣れない楽器の音がした。テレビでも見ているのかと思い、音が漏れないように素早くドアを閉めた。奥に入ると、啓司がトランペットを吹いていた。
 零の方をちらと見ただけで、何も言わずに楽譜を睨みつけて吹いていた。耳慣れない音だったのは、先端に四角い栓のようなものが挿してあるせいだろう。柔らかく、でも金属的な、どこかすすり泣くような音で、聴いたことのないバラードを吹いている。ケーキと豆をテーブルに置くかさり、という音が申し訳ないほど、哀しそうなメロディーだった。
 やがてトランペットから口を離すと、啓司は楽譜をぱらりとめくった。
「零、下のカフェテリアでその豆挽いてもらってコーヒー淹れてもらって持ってこい。あとケーキナイフももらってこい」
「……はい」
 思わず残念そうな声音になってしまった。啓司はちらりと零の方を見たが、零はコーヒー豆を袋から出していて気付かなかった。
 少し嫌そうな顔をされつつ、部屋番号を言うとカフェテリアのコックは黙って豆を受け取り、コーヒーを淹れてくれた。かりかりと豆を挽いている様子を零が横でじっと見ているので、彼はいつもの調子で言った。
「私どもでお持ちいたしますので、お部屋でお待ちください」
「いえ、私が持って行くように言われていますから」
 そう言うと、嫌そうというより不審そうな色がわずかに浮かんだが、口ではかしこまりました、とだけ答えた。きっといろいろと噂になるのだろう、と思ったが、それは零の気にすることではない。
 それでも淹れてくれたコーヒーと借りたケーキナイフを、これまた借り物の盆に載せて部屋に戻った。キーカードを忘れたのでノックをすると、案外すぐにドアが開いた。
「オートロックだぞ。鍵忘れんなアホ」
「すみません……」
 即座に飛んできた叱責も本気で言っている感じではなかったが、零は恐縮した。中に入ってコーヒーをテーブルに置くと、ケーキを出して手早く切った。
「どうぞ」
「ああ」
 啓司は楽器をケースにしまって椅子に座ると、コーヒーを飲んだ。零はベッドにぽすんと腰を下ろして、そんな啓司を見ている。
「……お前、自分のは?」
「え?準備してませんけど……」
 意外そうに言う零に、啓司はコーヒー豆の袋に目をやり、部屋に備え付けのポットに目をやった。
「お前、適当になんか飲み物用 意しろ。このケーキはなかなか旨い」
「いいんですか?」
「いくらなんでもホールケーキ1個食えるか」
 それもその通りだが、零は思わず目を丸くして、すぐに我に返った。
「いただきます」
 そう言って、慌てて自分の飲み物の準備にかかる。紅茶のティーバッグが備え付けてあったので、それを使うことにした。バタバタと準備をしている間に啓司は自分の分のケーキは食べてしまった。
「零、俺の分もう一切れくれ 」
 紅茶の準備ができるのを待って自分のケーキを切っていた零に声をかける。零は、はい、とだけ返事をして、自分の皿にもう1つケーキを載せた。それを持って行くと、啓司は呆れ顔で、片方をフォークで刺して取った。
「お前、余所でそれやるなよ?みっともない」
「?」
「面倒でも相手の皿を取りに来い。使ってないからって手前の皿に載せて運ぶなんざ論外だ」
 零はまた恐縮したが、縮こまってケーキを食べながら、ふと可笑しくなった。
「ん?」
「いえ……」
 啓司はそれにめざとく気付いたが、何をされるかわからないので口にはしなかった。

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2007年03月09日

食卓

「どう、して……こんなこと……!」
 こぼれ落ちる涙とこみ上げてくる嘔吐感で言葉にならない。隣にうずくまっている彼女の夫は、ただただ驚愕の視線を送るだけで、何一つ口にできない。啓司はそんな2人の様子を見ながら、平然と三切れ目の肉を口にした。零も特に表情を変えずにそれに倣う。ただ1人立っている佐加野だけは、2人の反応を正視できずに、テーブルについている啓司と零を必要以上に見つめていた。
「こんな恥ずかしい娘なんざいらないんだろう?何そんな顔してるんだ」
 啓司は冷徹に言い放った。母親は言葉に詰まる。だが、すぐにぼそぼそと恨み言のように言葉をこぼした。
「に、人間を料理して、食べるなんて……狂ってる……なんで、なんでこんなこと……されなきゃいけないの……」
 それは砂のようにさらさらと床に溜まっていく。それに何かのスイッチを入れられたように、父親が突然がばっと立ち上がった。零はとっさに腰を浮かしかけたが、彼は啓司や零に直接手出しをしようとは考えていないようだった。食卓とは逆方向に駆け出し、電話の子機をつかんだのである。
 そのまま家の奥へ逃げていく。彼の手元からぴ、ぴ、ぽ、と3つだけ音がした。
「零」
「はい」
 零は電話の親機の方に駆け寄ると、裏に手を伸ばしてモジュラージャックを引っこ抜いた。表示がぎりぎりで通話になったのが見えたが、一瞬であれば悪戯だと思うだろう。そもそもあれほどの混乱状態で説明したら、どちらにしても悪戯だと思われたかもしれないが。
 席に戻ろうとする零に、突然母親が大声を上げて襲いかかった。肌が病的に白く髪もほとんど色が抜け落ちた零なら勝てると思ったのだろう。が、零は振り返った勢いのまま、右拳で相手の額を全力で打った。決して大柄とは言えないが、それでも零よりは確実に体格のいい大人の女が、悲鳴を上げて転がった。額を抑えたまま、体を丸めて痛みに耐える。一方の零は一歩たりとも動かずに拳を振り抜き、あっさりとはじき返した相手を無言でにらみつけた。蔑みはなく、怒りに近い光があった。

 零が食卓に戻って、残りの料理を食べ終わるまで、家の中も外も平穏だった。父親は奥から出てこようとはせず、母親もうずくまったまま、何もしようとはしない。
 佐加野が食器類を手早く片付け、零も手伝ってすいすいと洗っていく。啓司は食後のコーヒーを飲み干すと、立ち上がって家の奥に進み、一番手前の部屋のドアを開けた。母親には無遠慮な行動を咎める気もない。しかし、ほどなく戻ってきた啓司の手にしたものを見て、思わずのどの奥から悲鳴を上げた。
「ここまでが娘との契約だ。受け取れ」
 そう言って差し出したのは、髪の長い少女の首であった。啓司の手は乾ききらない断面の血液で赤黒く染まっているが、少女の顔には傷も汚れもない。そして何より、目を閉じたその表情は静かで、わずかに微笑みすら浮かべていた。
 母親はじりじり、と後ずさった。その顔は明らかに恐怖に彩られ、視線を外すことすらできないでいた。受け取る、などという行動に出られるとは、ちらりと振り返った佐加野も思わなかった。
「ったく、愛娘の肉は食えねえ首は受けとらねえ。人間の方がよっぽど情がねぇな」
 啓司はこれ見よがしにこぼして、手にした首を食卓に置いた。まっすぐに家の奥、父親のいる方に向けて。
「啓司さん、お台所は片付きましたよ」
「ん、じゃ行くか」
 佐加野は片手に鞄を持ち、啓司と零は手ぶらで、玄関の方に向かう。が、零は我慢できずに振り返って、静かに告げた。
「あなたの娘さんは、あなたとお父さんに撫でてもらいたいと言っていたわ。彼女の一番の望みだって」
「零」
 啓司の呼びかけに、零はすぐに身を翻した。答えがあるとは思っていなかったし、あっても聞こうとは思わなかった。そもそも通じるとすら思っていなかった。ただ、零は初めて、啓司のためではなく自分のためだけに言った。

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2006年06月08日

とどかない、そら

 珍しく、啓司さんが私を下がらせた。いつもなら、相手が何と言おうが構わずに一緒に中に入ってしまうのに、だ。
「その辺で時間潰してろ。4時にさっき通った喫茶店に来い」
 まだ1時を回った頃だ。さっき2人でコーヒーとサンドイッチという簡単な食事をしたばかりだから、すぐにそこに戻ろうという気にはならなかった。手元にはそれなりにお金はある。でもそれをぱーっと使う気にも、ならなかった。そもそもあまり買う物もない。
 エレベーターで、最上階まで上がった。高級、とはお世辞にも言えないマンションだ。最上階と言っても8階までしかない。私が昔住んでいた家は14階にあったし、エレベーターももっと速くて静かだった。ドアもこんなに錆が浮きそうなドアではなかった。
(……ずいぶん、昔の話)
 口は動かさずに、独り言。非常階段は下だけではなく、上にも伸びていた。鍵が開いているとは限らなかったが、とりあえず行ってみる。
 頑丈そうな錆色の扉があった。ノブをぐっと下げて押した。重い。足に力を入れて左手を添えると、ごごんとわずかに音がして、扉が開いた。ふっと外から風が入ってくる。それを感じながら、外に出た。
 低いフェンスが周囲に据え付けてあるだけ。でも、空は意外なほど広かった。何気なく左手を見ると、はしごが壁に付いていた。その上には、前は白かっただろう給水タンクが置いてある。そのてっぺんまでは、顔をいっぱいまで上げないと見えなかった。

 はしごがぎしぎし、と音を立てる。でも、音の割に手応えはしっかりとしていた。つるりとした給水タンクのてっぺんまでは、はしごを離れて3、4歩歩く。周りに私より高いものはなかった。まだ日射しがあって、思わず手を額に当てる。
 視界いっぱいに、四角い町が広がっていた。そして、雲一つない青空。
(広いんだな、この町)
 これまで、啓司さんに連れられていろんな町に行った。船で学校に行くような田舎にも行ったし、電車内に知り合いなんて1人もいないような都会にも行った。そんな中では、今いるここは、別に大きくも小さくもないと思っていた。それでも、私の小さな体と比べたら、思った以上に大きい。
(啓司さんも広いって思うかな)
 考えて、すぐに打ち消した。あの人は、きっとそんなことは思わない。あの人はどこまででも行ける、大きな力強い翼がある。私が必死で走ってもなかなか横断できないこの町を、一飛びで越えてしまう。啓司さんは誰も持っていない「絶対」を持っているから。
 きっと、この四角い町は啓司さんが見下ろしている人々なのだろう。そして、啓司さんはこの空。私は何故か、誰よりも空に近いところにいる。でも、他の誰よりも近いだけだ。どんなに従順に見上げても、甘えて飛びついたとしても、私に翼が生えない限り。
 空には届かないのだ。

 4時15分前。私が喫茶店のドアを開けると、くっと襟首を引っ張られた。振り返ると、啓司さんがいた。行くぞ、という一言で、私はただついていく。盲目的にではない。啓司さんの視線の先をじっと見て、言葉の示すことをじっと感じて、考えながら進む。
 啓司さんの体からは、わずかに血の臭いがした。他の人の匂いは、しない。無造作に歩く物腰からは、私がいなかった3時間の間に何をしていたのか、窺うことはできない。私はそっと足を速めて、下から横顔をのぞき込んだ。すぐに気づいて、わずかに微笑んでくれる。頭を撫でてくれる。その手の大きさを感じながら、横顔をじっと見た。
 飛べない私が空を感じるためには、偽物でもいいから翼が要る。張りぼての翼を磨いて、鍛えて、少しでも空気を掴ませていれば。
 届かない空にも、近づくことはできる。

posted by alohz at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | [短編]悪魔と虚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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