2010年08月24日

玄関口

 空港のビルを出ると、途端に熱気が全身に覆いかぶさってきて、一瞬息が詰まる。熱帯の空気だ。
空港の一階すぐ外にタクシースタンドがある。昔は外に出て路線バスを捕まえることができたのだが、今は無理だ。ここから市内行きのバスがあるかどうかも知らない。
 そもそも何も知らないのだ。特に理由はないが、調べたり準備したりを一切せずに来た。ついさっき、市内と空港とを繋ぐエアポートリンクの看板があった。辞書が無くても大体何が書いてあるかはわかるが、そこに書かれていない停車駅はわからない。無料だから乗ってもよかったのだが、どこに行くのかも定かでないもののために一時間も待つ気にはならなかった。
 前の空港からそのまま持ってきたような、古びたデスクが三つ。まん中のデスクには、つまらなそうな顔の女がつまらなそうに「Where you go?」と訊いてくる。「โรงแรม แอมบาซาด้า(アンバサダーホテル)」と返して、「สุขุมวิท ซอย11(スクムヴィットのソイ11)」と付け加える。女はわら半紙の紙切れに何やら書き込んで、いつの間にか近づいてきていたおっさんに渡した。水色のシャツ。タクシーの運転手だ。女はこっちが慣れていると踏んだのか、ついて行けという身振りすらなく、空港の方に向き直った。
 おっさんの車は黄色と緑のツートンカラー。それにべたべたとステッカーが貼ってある。旅行かばんを後部座席に放り込んで、自分も乗り込んだ。社内は外側の印象よりずっときれいだが、天上に紙幣をラミネ加工したものが新旧取り混ぜていくつもある。単に国王の肖像が入っているからか、他に意味があるのかはわからない。
แอม-บาซา่ด้าหรือ(アン・バサダーだっけ?)」「ครับ BTS เออ นานา ซเทชั่น(はい。BTS の、えー、ナーナーステーションです)」
 当然訊かれるはずのことなのに言葉が出てこなくて、とっさに外国人っぽく英語で逃げた。駅は สถานี だ。それでもタイ語ならなんとか言葉が口をついて出る。こんなど忘れはいつものことだ。
「มาจากไหน?(どこから来たの?)」「พูดไทยได้หรือ(タイ語しゃべれるのか)」はよく言われるから、半ば定型文になった答えが口をついて出る。「มาบอยไหม?(よく来るの?)」でつまづいた。学生の時はよく来たけど、としどろもどろで返すと、次の話題に移っていった。
 有料道路に入る頃には、車内はカーラジオの音楽が響いていた。日本語でも大してしゃべれない僕には拙いタイ語で必死で話し続ける元気もネタもない。代わりに考える。
 日本はいい、発展してるし、みんな金持ちだ。日本と戦ってもタイは勝てない。そう言っていた。タイは良くない、とも。タイもすごいペースで発展しているし、金持ちが増えた。日本は生活保護の対象世帯が増えているし、全体に精神病的なところが徐々に表に出始めてきている。彼に伝えることはできなかったが、どっちもどっちだ。
 プルンチットの出口で高速を降りると、相変わらずの渋滞に引っかかった。ホテルまで乗って行くのは諦めて、少し歩く。暑い。歩道がたがた。Hello、Taxi! とタクシーやトゥクトゥクの運転手が声をかけてくる。派手な服を着て路上で群れている女たちの前を通り過ぎ、五分と経たずに今日の宿に着いた。
 ああ、またタイに来た。何のためでもない、ただ来るために。

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2004年09月26日

贅沢な日常

 2階の座り慣れた椅子に腰を下ろして、ホッと息をついた。斜め下に見えるTV画面には、見覚えのある女性シンガーがビッグバンドを従えて歌っていた。スピーカーはライブ演奏と共用のものだから、音はいい。音源がDVDなのだから余計だ。
 一曲丸々聞き終える前に、コーヒーを持ってきてくれた。ここはバーなのでさすがに驚くほどの味じゃないが、その辺の安いカフェのレベルは十分にクリアしているので、問題ない。熱いうちに一口。
 今日は金曜日だから、ライブはファンク主体のバンドだ。ヴォーカル兼ギタリストは魅力的な声をしていると思うけど、どうやら録音はなさそうだ。洋楽のコピーが主だからかもしれないが、でもそれは俺が彼の歌をライブバーでしか聴いたことがないからかもしれない。その辺りの事情はよくわからない。時間が近づくにつれて、キーボードやベースが準備を始め、俺は a day を広げた。内容が濃く字も小さいから、照明の暗いここではいつもより時間を食う。ゆっくりと読んでいると、突然ピィーッと耳をつんざくような音がした。驚いて目を上げたが、音の出所はわかっていた。ベースアンプの電源がオンになっている時にシールドを挿そうとしたのだ。何度も聴いたノイズだ。毎週同じセッティングでやってるはずなのにな……。開演前に雑誌を読んでいる間にもう2回、アンプからのノイズにびっくりさせられた。

 隣に人が来た。フロアのリーダーかマネージャーでもやっているような、年上のウェイターだ。俺が1人なのを気にしてくれているのか、時々話をしに来てくれる。別に大した話をするわけではなく、ほんの挨拶程度の会話だが、彼は俺がライブ目当てなのをわかっていて、「あと少しで始まる」とか「今日はどうだった?」とか、英語混じりで話しかけてきて、いわば「空白を埋めて」くれる。
 彼が去って、文字にまた目を落とす。ゆっくりゆっくり読みながら、頭がぼうっとしてきた。ふと気付いたら寝ていて、はっと目を覚ます。これから音楽を聴くのに、これじゃまた聴きながら寝てしまう。本は諦めてカバンにしまった。さっきまでBGMにしていたDVDにしっかり視線を向けると、ハスキーな歌声に少し頭を刺激された。目が覚めてくる。
 前奏が始まった。え?と思ってステージに目を向けると、いつの間にやら全員揃っていた。準備はとっくに終わっていたのだ。俺は少し浅く座り直すと、サックスのメロディーに耳を傾けた。

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2004年06月18日

天上記

雲がゆっくりと流れていく
上から見下ろせば、その流れにいくつかの層が見える
下から見上げるより、はっきりと
今、僕がいるのはどの辺りだろう
何層もある雲の裏側には、何層もある天使の世界
今、僕がいるのはどの辺りだろう

posted by alohz at 02:30| Comment(0) | TrackBack(0) | [短編]旅の言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2003年09月01日

漫画喫茶

――しんと静まりかえっていた廃工場のプラントが加山の声に呼応して動き始めた。足下からエンジンのかかるグイィーッという音がしたかと思うと、工場全体が唸っているような雑音がタカシの耳を包む。
「お前……」
 視線を戻すと、加山はいつもの薄ら笑いを浮かべて、きれいに直立していた。不意に背広のポケットを探り、小さな玉を1つ取り出した。手の平に乗せてタカシに示す。
「……ビー玉?」
「おやおや、あなたがそうおっしゃるとは思いませんでした。覚えていらっしゃらない?」
 加山の視線が一瞬鋭さを増す。
「これは鍵ですよ」
 雑音が響きわたる廃工場の中で、2人の男はじっと向かい合っていた――

「ふぅ」
 パタン、と漫画を閉じた。誰も口をきかない店内には、遙か昔に流行を過ぎたダンス・ミュージックが静かに流れている。俺は手の中の漫画をテーブルの上の山の一番上において、山を丸ごと持ち上げた。支えを抜き取られて傾いている本を指先で立てて、そのまま手の中の5冊を一気に突っ込んだ。
 外に出ると、相変わらずのジリジリした熱気と、飽きずに行き交い続ける車の音が俺を迎えてくれた。ありがた迷惑な歓迎に一瞬止まった足が動き始めると、その地面を踏んだ感触がいつもと違うことに気付いた。なんとなく頭が宙に浮いて、1枚薄皮に包まれているような感覚。覚えがあった。
 高校の頃、親しい友人の少なかった俺はよく図書館で本を読んでいた。予鈴が鳴って本を閉じ、本棚に戻してドアを抜けた瞬間、そして教室に戻るまでのわずかな間、いつもこの感覚を味わっていた。当時はざわめきを BGM に SF ばかり読んでいた。今はわずかな音楽とエアコンの音を BGM に漫画を読んでいる。それでも、全く同じ感覚を当時も今も持っている。
 火星や月やあり得ない現在に持っていかれた心が、まだこの体に戻りきっていない。非現実から戻りきっていない、あるいは外の世界と薄皮1枚分離れている。懐かしい感覚に思わず昔を思い出して、笑みが浮かんだ。

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2003年06月01日

異郷

 もう通い慣れたラーメン屋の屋台で腰を下ろすと、傍らのラジオの音が妙に大きく聞こえてきた。いつの間にか降り始めていた雨のせいで普段よりもさざめきが少ないのか、聴いたことのない洋楽をぐっと押し出してくるように感じる。
 とん、と丼が目の前に置かれ、無言のまま食べ始めた。さらさらと降る雨はビニールシートに覆われて体にかかることはなく、汁のないビーフンは調味料を足しても味が薄かった。白熱灯の明かりが自分と、3つのテーブルを照らし出している。
 ふと、自分の部屋を思った。全てが自分用に整えられ、ある必要があるものはちゃんとある部屋。そこで新聞を読み、音楽を聴き、コーヒーを口にすることを思った。
 そして、レコード屋を思った。見慣れた文字や絵が並び、それでも自分用のものは何一つない店。そこでじれったい会話をし、姦しい騒ぎを聞き、野菜炒めを口にしたことを思った。

 席を立つと、店主がすぐ傍に立っていた。その笑顔にいつもの笑顔を返して、勘定を済ませた。
 ほんの少し営業用の、でも半ば以上本当の気持ちで浮かべる笑顔。学校に行っても電話をかけても見ることのできる表情。そして、この世界を支えている表情。

 部屋に作りつけのダブルベッドに座り、この街に来てから初めて、ほんの少しだけ泣いた。

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2002年10月11日

空の旅

 飛行機がゆっくりと滑走路に向けて動き始めた。ようやく動いたか、と思い、軽く息をついた。毎回乗ってから動くまでは、何をするでもない退屈な時間を過ごさなければならないからだ。電気機器はすぐに離陸するから使えなくなるし、かといって本を取り出すにしても微妙な時間だ。腰を落ち着けて読もうという気にはならない。滑走路の手前で止まる。ふぅ、ともう一度息をついた。
 両翼のエンジンがうなりを上げ、期待が振動し始めると、ようやく少しだけドキドキする。これから飛び立つのだ、という不安の入り混じった緊張。やがてぐっと体を押し付けられ、これまでの「移動」としか言えないような動きとはまったく違う「滑走」が始まった。ぐんぐん速度が上がっていき、今では各席に1つずつくっついているようになったモニターを見ないでも、その時速の上がり具合が実感できる。
 ぐっと機首が持ち上がり、少し遅れて機体全体が宙に浮く。この瞬間、地面という支えを失った機体が、ふっと下がる。ほんの一瞬の事なのだが、そのほんの一瞬だけ、ひやりとする。

 昔、初めて飛行機に乗った頃と比べると、ずいぶんあっさりと乗るようになったと思う。親の海外転勤なんて事情からクラスの他の人よりは多く飛行機に乗っていたが、滑走の時の緊張感やその後の一瞬のひやりは変わらないものの、昔はベルトを締めてから飛び立つまでの間に退屈なんてしなかった。
 やっぱり慣れたのか、と思うと嬉しいとも悲しいともつかない、何とも言えない気分になる。同じ事を数回やれば、慣れるのは当然だ。慣れないのは、エコノミーの座席で座ったまま寝る事だけ。これだけはどうにもならないのだ。

「おー、飛んだ飛んだ」
 窓に近い隣の席に目をやると、飛行機は初体験だという私の彼氏は緊張も興奮も隠せない様子で、下の見えづらい二重窓に額を押し付けている。普段は歳よりずっと上に見えるぐらい落ち着いた人なのに、まるで子供だ。思わず苦笑がこぼれた。
「あー、なんかわくわくするよ。って、こら。何笑ってんだ」
「だって、なんかすっごいはしゃいでるんだもん」
「そりゃお前、初めて飛行機乗ればはしゃぐよ」
「そっかなぁ?」
 確かにそうかもしれないが、それにしても普段とのギャップがある。ひょっとしてこれが素なのか、と疑いたくなる。そう思うと、なんとなく彼がかわいく見えてしまって、思わず頭を撫でてあげた。
「……お前に子ども扱いされるとは……」

 一旦水平飛行になってしまえば、あとはただ着くのを待つだけだ。今朝頑張って早起きしたから、到着時間は現地時間で午後3時。一旦ホテルに荷物を置いてからでも、結構余裕がある。しばらくガイドブックを挟んで今夜はどうするかと相談していたが、朝頑張った分の揺り戻しで眠くなってきた。見ると彼はまだまだ元気そうだ。やっぱり興奮してるらしい。
「ごめん、眠いからちょっと寝るね」
「うん、お前にしちゃ今朝は頑張ったもんな。お休み」
 少々引っかかる言い方だがいつもの事だ。聞き流して毛布を肩までずり上げた。少しでも寝られるといいんだけれど。

 ふと目を覚ますと、頭が重い。正確に言うと、頭に何かが乗っていて重たい。目の前にある彼の肩をぐいと向こう側に押して、ようやく頭を上げられた。時間時間、と時計を探ると、もう4時近い。結構寝てしまったらしい。時差は2時間なので、あと1時間ちょっとで着陸だ。
 彼の頭が再び私の方に降りてきて、左肩を占領されてしまったので、私は足元に置いたかばんから本を取り出した。最初に映画のプログラムはチェックしたのだが、いまいちだった。結構最近は新しい映画が入っている事が多くて期待していたのだけど、今回は残念ながら空振りだ。ガイドブックも少々飽きていたので、持ってきたクロスワードを解こうとテーブルを出した。出してからふと思い出す。
「あ……」
 機内食を食べた覚えがない。普段と違う時間のせいか、彼と一緒にいるせいかは知らないが、これは初めてだ。最初に配られたピーナッツが手付かずで残っていたので開けた。一口食べて、結構空腹だった事に改めて気付いた。夕飯はちょっと豪華にしよう。

 着陸10分前のアナウンスが入ると、機内がなんとなく落ち着かなくなってくる。寝ていた人は起き出してくるし、入国のための書類を書かなければならない事もあって少しざわつくのだ。
「これ、滞在先ってどうするんだ?」
「ホテルの名前とか書くんだけど、いいよ適当で」
「適当って言われてもどう適当に書くんだよ」
「最初の日に泊まる予定のホテルの名前書いておけばいいの」
 しかし、私が初めて一人で飛行機に乗った時は、どこに何を書くのかと少し慌てたものだが、滞在先以外は全てすらすらと書いていく彼が少々憎らしい。私より彼の方が英語は得意なのだ。
 全ての欄を埋めてしまうと、彼は窓の外がやはり気になるらしい。もう既に雲の下まで降下しているので、目指す異国の町並みが一望できる。
「もう着いたんだな……。あんまり日本の町と変わんないな」
「そりゃ首都だもん。大差ないでしょ」
「そっか」
 今時、どこの国でも首都はかなり西洋化されている。上から見たら、あまり差は見られない。でも、ちゃんと見れば東京にはなかった様々なものが見える。無論、それは着いてからのお楽しみだ。
 ぽーん、と気の抜けた音がした。同時にシートベルトのバックルのサインが点灯する。実は私が一番緊張するのはこの時だ。シートベルトを確認して、座席の背を元に戻す。テーブルをしまって、手荷物をささっとかばんに詰める。口を閉めて前の座席に蹴り出して、あとはおとなしく座っているだけだ。ぐんぐん高度が下がり、町並みが少しずつ大きくなってくる。それが何もない開けた場所に来て一呼吸すると、左右に空港の施設や車が見えてくる。来るか、来るか、来るか、というところで、ずん、と重たい着地音があった。エンジンから猛烈なブレーキ音が聞こえてきて、ようやく一息つける。
「着いたね」
「うん、着いたな」
 見ると、彼の方が何故か余裕がある。いつの間にか普段通りに戻ってしまったみたいだ。外はきっとまた暑いだろう。日本の夏から飛び出してきたのに結局避暑にはなりそうにない。楽しめればいいのだ。
 かちゃんと音がするので見れば、彼がベルトを外して荷物を整理し始めた。
「あ、こっからターミナルまで長いからね」
「……そうなのか?」
「5分かそこら」
「ふーん……じゃガイドブックでも読むか」
 ぱらぱらとめくった先は入国審査のページ。
「そこ見なくても大丈夫。ホテルの場所探しといて」
「大丈夫って」
 彼はこういう時、前もって調べておくのが好きなのだ。知らないと不安になるだろ、と言っていた。だから、こう言う。
「私が知ってるから大丈夫。何回通ったと思ってんの」
 彼はあきらめに近い笑顔で、市内のホテルマップのページを開いた。

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