2009年01月25日

双子星の紡ぐ音

 薄暗いライブハウスの階段を、咲子は春香の背中を頼りに下りていった。斜め下、狭い階段を下り切ったところの足下には窓があって、ガラス越しにステージが見える。今はスクリーンが下りていて、パソコンのスクリーンセーバーのように次々と変わる幾何学模様が映っていた。
 思わずじっと目で追っていると、横から春香に呼ばれた。
「咲子、ワンドリンク500円」
「あ、うん」
 窓の方に気を取られて、そばに受付があるのに気付かなかった。春香に急かされて、座っていた女の人に千円札を渡すと、おつりとドリンクチケット、チラシの束が入ったビニール袋を手渡された。
 もう一度階段を降りると、また窓。今度はステージが正面に見えた。もうかなりの人が、窓の中にも外にも立っている。
「春香、飲み物もらってこようか」
「あ、お願い」
 春香の分のドリンクチケットも受け取って、階段の裏側にあるカウンターに近寄った。メニューを見ていると、前の人にコップを渡した黒人のおばさんがこちらを無表情に見つめてくる。
「あ、えーと……こ、コーラ2つお願いします」
 視線に押されるようにして、慌て気味にそう言った。咲子は普段なら炭酸飲料はあまり飲まないのだが、アルコールが入っていないのはコーラぐらいしかないのだ。
 ぬっと突き出された分厚い手の平にチケットを乗せると、おばさんはすぐに大きめのコップを2つ取って、コーラを一杯に入れてくれた。
「Thank you」
「あ、ありがとうございます」
 いつも行くファーストフード店なら M サイズのコップを持って春香のところに戻る。また何人か客が増えたようだった。
「あ、ありがと。中入っときましょ。前埋まっちゃうかもしれないし」
 そう言ってすっと人の間を抜けていく春香にくっついて、防音扉の中に入る。中にはテーブルがぽつぽつとあるが、どれも先客で埋まっていた。2人は最前列、演奏者の足下に陣取った。コーラは手に持ったままだ。ステージの少し手前に柵があるから、その辺りに置けるかな、と咲子は見て取った。
 今はスクリーンに隠れているステージを見透かすように見て、咲子は春香に訊いた。
「2人でどんな演奏するのかな」
「あの2人のことだから、バラードばっかりなんてことは絶対ないし、テクノ寄りになるんじゃない?」
「テクノ?生楽器なのに」
「音もそうだけど、構成が、よ。京子さんはエフェクター使うぐらいだろうけど、小川さん、ドラム叩くかもしれないし、リズムマシン使うかもしれないわね。あの人なら何でも持ってそうだもんね」
 春香はそう言って、自分で言った構成ならどうなるか、と音を想像し始めた。咲子には『テクノ寄り』な音楽がどういうものか、にわかに想像がつかない。そもそもテクノを意識的に聴いたことがないのだ。
 気がつけば自分たちの隣にも人が立っていた。後ろを振り返ると、さっきはテーブルの周り以外は比較的空いていたのに、外にいた人がほとんど入ってきているのか、入り口のドアや窓が見えないくらい混んでいた。
 BGM がすーっとフェードアウトすると、スクリーンが音もなく上がり、ざわめきが拍手に変わる。ステージには2人が丸椅子に座っていた。三春はギター、小川はベースを抱え、アンプが背後に置いてある。弾き語りができるように、それぞれにマイクが置かれている。それだけだ。
 三春がゆっくりと歌い出す。楽器に腕を乗せたまま、歌声だけが響く。小川のコーラスが重なり、耳馴染みのない、どこか哀愁を帯びたメロディーを飾る。そのままアカペラで一曲歌いきった。咲子にとっては伴奏のいらない、完璧なハーモニーだった。
 わき上がるような拍手が収まると、2曲目がカッティングギターとスラップベースのイントロで始まった。さっきの曲もそうだが、この曲も聴いたことがなかった。
 だが、三春が歌い出した瞬間、咲子は弾かれたように春香の方を振り返った。春香は三春の方を驚きの表情で見つめ、やがて咲子の視線に気付いてこちらを向いた。アレンジこそまったく違うが、春香が書いた曲なのだ。2人同時にステージに視線を戻す。
 春香よりも低くて太い三春の声は隙間の多い伴奏でさらにその力を際立たせ、躍動感の強い伴奏と相まってまるで聴いたことのない曲のように響く。それなのに、メロディーは間違いなく春香が自分の声で作ったものだ。
 曲が終わり、拍手が落ち着いてくると、三春がマイクに口を寄せた。
「ありがとう。1曲目は Roaming Sheep、2曲目は黄金色の鍵、とお送りしました」
「1曲目は某有名ゲームのイメージソングで、2曲目は僕らとバンド組んでる子のオリジナルです。これは京子さんの希望で今日やったんですけど、元の曲とは全然違うアレンジにしました」
 三春に続いて小川が曲の説明をした。それを聞いて、咲子は思わず春香に耳打ちした。
「三春先生が選んでくれたんだね」
 嬉しそうな咲子とは対照的に、春香は難しい顔で頷いた。
「これくらいやれよって言われた気分だわ」
「そうかなぁ……単純に気に入ってくれたんだと思うけど」
 足下でこそこそと話しているのが聞こえているのかいないのか、ステージ上の2人はお互いおしゃべりでもしているような調子で次の曲紹介に入った。
「さて、じゃー次は2曲続けてやります」
「あれ、次3曲じゃなかった?」
「そうだっけ」
「そうだよ。決めたの昨日なんだからちゃんと覚えててよ……」
 三春はいつもどおりだが、小川はいつもよりずいぶんラフな口調だ。
 呆れ顔で言って笑いを誘う小川に、三春は「いいんだよ、2曲で!」とぴしゃりと言って、小川が何か言うより先に弾き始めた。
 小川は大げさに慌ててベースを構えると、まるでずっと待ちかまえていたようなタイミングで弾き始めた。そのままミドルテンポのポップな曲を2曲弾くと、三春は拍手に「ありがとう」と答えてギターから手を離した。本当に2曲で止めてしまったのだ。
 咲子はどこからどこまでが打ち合わせをしてあったのかわからなくなってきた。三春の言い方が本気なような気もするが、小川の対応を見ていると台本どおり、という気がしてくる。
 と、春香がそっとささやいた。
「京子さん、本気で忘れてたわね。あんな強引なこと、デュオじゃなかったらできないわ」
「あれ、元々2曲だったんじゃないの?」
「小川さんならともかく、京子さんよ?仕込んで意味があるネタじゃないし」
 目の前に本人がいるのにすごい言い様だが、咲子もついつい同意してしまった。
「さて……あ、そーか3曲か」
「え?何が?」
 ステージ上では、三春が次の曲を言おうとして、突然思いだしたように言った。
「いや、これで曲紹介してメンバー紹介してラスト2曲って考えてたのに、1曲余るな」
「今思い出したの!?」
 がっくりと突っ伏した小川に会場中がどっと湧いた。咲子はおかしい反面、なんだか恥ずかしくなってきた。
「ま、いーや。じゃあラスト3曲やります」
「の、前にメンバー紹介を」
 平然と言った三春にかぶせるように小川が割り込んだが、これは予定どおりなのか、三春は当然のように次の言葉を待った。
「ギター、三春京子」
 三春が手を上げると、わっと拍手が湧いた。それが収まるのを待って、今度は三春がマイクを近づけた。
「ベース、小川和紀」
 再び拍手が湧いた。咲子が精一杯拍手している横で、春香は自分も手を叩きながら真剣な顔で耳を澄ませていた。
「大体同じくらいね」
「何が?」
「拍手の量」
「……そりゃそうよ」
「人気に差があると如実らしいわよ」
 あくまで真剣な春香の意図がよくわからず、咲子は曖昧に頷いた。
 じゃあ改めて、と言って三春が弾き始めたのは、ゆっくりとしたアルペジオ。ギターの底を支えるように、ベースも同時に入った。
 A メロは小川1人で歌った。ここまでずっとコーラスだけだったが、三春のような特徴のある声とは違う、アクの少ない声がバラードに乗ると、すーっと頭に入ってくる感じがする。
 サビに入ると三春がメロディーを引き継ぎ、小川はハーモニーに回った。咲子は急に2人が入れ替わったのにあれ、と思ったが、すぐに納得した。小川の音域ではちょっと高すぎるのだ。しかし、力強い三春のメロディーに低い音で合わせたハモりはぴたりと合っていて、高音域から逃げているようにはとても思えなかった。
 ブリッジは2人交代で、最後のサビは再び三春がメロディーを取って、終わった。拍手が収まるのを待って、今度は小川が先に弾き始めた。さっきまでは客の方を見たり、お互いの方を見たりしていた2人が、気付けばどちらも顔を伏せていた。
「……これ、何拍子?」
 咲子は思わず春香に訊いてしまった。音の長さもフレーズも不規則で、どこまでが一小節なのかわからない。
「たぶん……8分の7」
 答えてはくれたが、春香も自信はなさそうだ。それも三春のギターが入ってきたときに崩れた。思いも寄らないタイミングで入ってきたからだろう、春香があれ、という反応をしたのが咲子にもわかった。歌は入ってこない。
 咲子にはもう今出ている音がどういう構成によるものなのか、さっぱりわからない。ただ、頭の中にまとわりついてくるような音の流れに囚われながら、短い前髪に隠れて表情の見えない小川の手をじっと見つめるだけだ。それでも、わずかにアクセントはあれど滔々と流れるベースと、逆にメロディーらしきフレーズを飛び飛びに入れるギターとの絡み合いは、まったくつかみ所がないのに不思議と不快ではなかった。
 不意に音が消えた。全員が虚を突かれたのだろう。曲が終わったのだ、と最初に気付いた誰かが手を叩くまでに、数秒かかった。拍手が始まったとき、三春と小川が同時にふっと顔を上げ、目を合わせてにやっと笑い合ったのが見えた。
 最後の曲は、一転してストレートなロックだった。ディストーションとファズで歪んだ弦の音に三春の力強い声が重なり合う。それに時折コーラスが入る。アクセントやブレイクを駆使してドラムがないことを感じさせない2人の演奏は、前の曲で感じたぼんやりとした感覚からはほど遠い緻密な構成を見せつけるようだった。
「ありがとうございました!」
「ありがとう!」
 最後の音の残響が消える暇も与えずに、2人は素早くアンプからシールドを引き抜き、拍手に見送られて下手の袖に並んで消えていった。遅れて、スクリーンが下りてくる。照明も戻って、アンコールをかけていた一群が諦めるのに合わせて、咲子は手を止めて、思わずほうっとため息をついた。
「すごかった……」
「2人であれだけやれるんだもんね……」
 春香も呟く。春には咲子と春香も同じフォーマットで演奏した。だからこそ、自分たちとの差がはっきりとわかる。
 2人はしばらく動かずに、氷が溶けてやたらと薄くなったコーラをちびちびと飲んだ。
「咲子、一旦出ましょ。次のバンドを聴きに来た人にここ譲んないと」
「あ、うん」
 春香に言われて、咲子はまた春香にくっついて外に出た。ぼーっとしている間に結構人は動いていたらしく、さっきはいなかったグループが入り口のそばでしゃべっていたし、咲子たちのいた最前列はすぐに別の人が陣取った。
「先生たち、出てくるかな」
「ちょっと待てば出てくるんじゃない?」
 ざわざわと狭いところに人がひしめく中、2人はたばこの煙を避けてすみっこに立っていた。結構知り合い同士も多いらしく、あちこちで挨拶したり親しげにしゃべっている。もちろん、2人の知り合いは1人もいない。
「あ、出てきた」
 手持ちぶさたできょろきょろしていた咲子は、奥の階段から2人が上ってくるのを見つけた。春香もわかったらしかったが、その場を動かない。
「他にもいろいろ知り合いとかいるだろうし、ちょっと待ちましょ」
 春香はそう言って、2人の方を見ていた。春香の言ったとおり、階段を上りきるとすぐそばにいた2、3人のグループが2人に気付いて話しかけ、2人も親しげに言葉を返した。そうして次々に言葉を交わす2人は、咲子の知っている教師としての2人とはまるで違う人のようだった。
「ああ、2人とも来てくれたんだな。ありがとう」
「よう。ああ春香、『黄金色の鍵』借りたぞ」
 やがてやってきた三春の第一声に春香はすぐに反応した。
「次無断でやったら使用料取りますよ」
「来るって聞いてたからビビらそうと思ってな」
「しかし、てきめんだったね」
「すげー顔してたもんな」
 三春も小川も、全然悪いと思っていない様子で笑う。春香は恥ずかしそうに食ってかかった。
「当たり前でしょ!イントロ全然違うし誰も自分の曲やるなんて思わないわよ!」
「でもあたしあの曲、特に好きだからさ」
 春香がぐっと詰まった。そんな春香を、三春はわしわしとなでた。いつもならすぐに振り払いそうな春香が、されるがままになっている。きっと三春も振り払われるとは思っていないのだろう。
「なんか2人、姉妹みたい」
「ホントだねぇ」
 咲子が言うと、小川もしみじみと頷いた。
「お、京子ちゃん娘さん?」
「……ぶっ殺すよ?あたしがいくつだと思ってんだ」
 後ろから声をかけた中年のおじさんに、三春は一転してぎらりと鋭い視線を向けた。おじさんはまるっきり意に介さない。
「ああ、教え子か。京子ちゃんの子にしちゃちょっと大きいと思った」
「ちょっとで済むか。せめて妹とか言えねーのかよ」
「いやそれは無理」
 咲子の感想をおじさんは即座に切って捨ててしまった。小川も苦笑していた。
 咲子はそういえばまだ今日の感想も言っていないと気付いて小川の袖を引いた。
「今日の演奏、すごかったです」
「ん、ありがとう。今日はまぁまぁうまくいったかな」
「まぁまぁ……」
 あれ以上があるんだろうか。咲子は2人が最高だった、と言う演奏が想像できなかった。
「あ、最後から2曲目って、あれ何拍子だったんですか?全然わからなくて……」
「あれは8分の7とハチロクを適当に混ぜてた。1曲ぐらいああいうの入れないと物足りなくてさ。ポップス路線でもよかったんだけど」
 7拍子は普通に考えても変拍子だが、それにさらに8分の6拍子を混ぜたと言う。まだ3拍子も満足に弾けない咲子には想像もつかない世界だ。
「適当にって……楽譜見ないでよく弾けますね」
「そりゃ自分で作った曲だからな、覚えてるよ」
「三春先生は?」
「京子さんは本能で覚える人だから。楽譜書けない曲でも弾けるんだからおかしいよなこの人」
「ん?なんか言ったか?」
「何にも」
「三春先生はすごいって話です」
「なんだそりゃ。今更何言ってんだか」
 しれっと言う。それが根拠のない自信には見えないから、この人は本当にすごいのだと思う。そして、そういうことを口では言わない小川も、楽器を手にした姿は自信に満ちている。
 咲子は春香と一緒に、階段を上っていった。時間も遅くなってきたので、次のバンドは聞かないで出ることにしたのだ。
「もっとうまくなんなきゃな」
 春香は、賑やかな夜の街に溶けてしまいそうな声で言った。
「そうだね。あんな人たちと一緒にやれるんだもんね」
「それに、曲も書かないと」
 咲子の相づちは耳に入っていないような、そんな呟きだった。それも仕方ないかと、咲子は今度は返事をしなかった。咲子にはまだ曲を書いたりアレンジしたり、というような作業には手が届かない。ベースをうまく弾けるようになるしかない。
 それに、春香はきっと今、感動しているのだ。三春が好きだといってくれた曲は、春香と咲子がたった1回だけ、デュオで演奏した曲だ。三春はその曲を聴いて、自分たちを認めてくれた。
 三春の知るあの曲は、作ったときの想いだけでなく、2人で必死で練習した時間と想いもこもった曲なのだ。

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2006年04月18日

ピアノマン

 その男は、小さな公園のベンチに寝転がっていた。所持品はない。薄いブルーのワイシャツとチノパンに、くたびれたジャケット。無精ひげはそろそろ目立ち始める、という頃合いだ。
 朝の散歩に来た老人は、まだ若い彼の顔を見て、酔っ払いだと思って無視した。愛犬の散歩に来た少女は、彼の着古した服を見て、浮浪者だと思って無視した。朝のおしゃべりに集まってきた主婦たちが、気味悪がって警察に届けた頃には、すでに太陽は高く上がっていた。
 主婦に促されて、近くの交番から来た警官が男の肩を揺り動かした。最初はそっと、次は強く。男はかすかに呻き声を上げ、目を開けた。
「大丈夫か?こんなとこで寝てちゃダメだろう」
 警官も、最初に見た時からこれは酔っ払いだと思っていた。繁華街にほど近いこの地区に回されてから、彼はよくこの手の酔っ払いが朝まで寝ているのを起こしていた。
「ほら、起きた起きた。もう10時半だぞ」
 しかし、男は目を開けこそしたが、すぐにまた目を閉じてしまった。警官は一瞬いらっとしたが、すぐに違和感に気づいた。男の様子は、見慣れたうるさげな反応とは少し違っていたのだ。よく見れば、呼吸の仕方が普通より荒い。一瞬合った視線も、あまり焦点が合っていなさそうに見えた。
 少し迷って、彼は携帯を出した。

「身元不明……ですか」
 丹沢医師は、目の前の若い警官の言葉を思わず繰り返した。忙しい日常を過ごしている身には、耳に馴染まない言葉だ。自分の職場である金元第一病院のロビーで聞くと、逆に現実感がない。
 警官は頷いた。
「ポケットの中身も空で、財布すら入っておりませんでしたし、洋服もずいぶん古い上に、タグが全て切り取られていました。一応写真を公開して情報を集めるつもりですが、今のところ彼の身元を示す情報は何もありません」
 生真面目に答えた。丹沢医師はあまり面白くない結論が見えてきた。
「つまり、彼を当院で預かれ、ということですか?」
「いえ」
 意外な返答が来た。それが顔に出てしまったのか、警官は続けて説明した。
「先ほどの診断の結果から、彼は肉体的には健康だということになりますよね。ですから、当面は警察病院に転院していただくことになります」
「なるほど」
 ほっとした。丹沢医師が件の患者の預かりを嫌がったのは、身元がわからないからではない。2日前に運び込まれてきたこの患者は、疲労こそしていたが、丸1日で健康体に戻った。しかし、その間の診断の反応から、精神的に何らかの病を患っている可能性は高い。そして、彼の勤める病院には精神科はない。
「では、今日の午後には退院できるよう手続きをしましょう」
「はい、よろしくお願いします。それから、転院に必要な手続きについてもお願いできますか?」
「ええ、それはもちろん」
 警官は欲しい結論を得ると、どことなくロボットのような礼をして、その場を辞した。残った丹沢医師も、仕事に戻る。彼が診ている患者は、1人ではないのである。

 その男は、全く語ろうとしなかった。転がっていたベンチから引きはがされた時も、病院で食事を出された時も、「退院だ」と言われた時も、口をきくことはおろか、眉1つ動かさなかった。言葉だけでなく、表情ですら語ることはなかった。担当の看護婦は数度話しかけて、あっさりと諦めた。担当の医師はそういうわけにもいかないが、事務的な問いかけにすら全く反応を示さないので閉口した。
 そして、新しくあてがわれたのは別の病院の個室だった。個室といってもそれほど広くはない。必要十分、という言葉を思い出してしまうくらいだ。
「名前は?」
「住所は?」
「どうしてあのベンチに寝っ転がってたんだ?」
 新しいベッドに座っていると、時々若い警官が来て、いろいろなことを訊いた。それに対しても、彼は一言も答えず、ただ黙って俯いていた。警官も、自分の座っている病室が精神科病棟だということをわきまえているので、手のつけようがない。
 彼は、しかし人形のような状態ではなかった。食事を出されればきれいに平らげ、看護婦が呼びに来ると風呂に自分で入る。服も自分の物は警察にあるので、病院服を一日着ている。スリッパも使う。ただ、語らなかった。周囲からは、他者というものを否定しているように見えた。名前もわからないと、仕事にも支障が出る。誰が言い出したのか、医師や看護師は彼のことを國木田さん、と呼んでいた。
 精神科病棟に来てから2日が経った。しとしとと雨のたおやかに降る日。何1つ刺激のない病室にはさすがに飽きたのか、國木田はベッドから降り、病院の中を歩いた。
 ロビーには人が出入りしている。外が雨なので、國木田が初めて通った時と比べると、薄暗い印象を受ける。植木と採光窓がいくつもあるので、晴れているとアトリウムのように明るいのだが。
 病室の間を歩いていると、ロビーほどではないが、時々人とすれ違う。患者より見舞客と、見舞客より看護婦とすれ違った。普段とは違う病棟なので、顔見知りはいない。1階を全て見て回って、普段いる病棟に戻った。玄関ロビーで繋がっているこの病棟の奥に、精神科の共同スペースがある。普段は入らない場所に、國木田は足を向けた。
 共同スペースとは言っても、テーブルがいくつかとテレビが1つ、置いてあるだけだ。あまり他の人がいるのを見たことがない。今日も見舞客らしき母娘が、隅っこのテーブルでぼそぼそと何やらしゃべっているだけだ。何を見るでもなく、結局病室に戻った。
 その夜。國木田は暗闇の中で仰向けに寝転がったまま、考えていた。これからどうすべきなのか。今のところは病院に厄介になることにするとして、その後はどうするか。
 彼は自分の基盤を失っていた。サイズもきちんと合っていない服を無理矢理着せられ、真夜中に明かりもないところで車から蹴落とされた。自分の声が出ないことは大したことではない。数日前の苦痛と比べればマイナスとも思えない。しかし、あれほどの苦しみを経て得たものが、身元不明の入院患者という肩書きだけだという現実は、堪えがたい。さらには、自分を縛っていた鎖が一夜にして全て消え失せたことに対して、喜びよりも不安を感じていることも堪えがたい。
 表情を作ることも思い出せないまま、國木田は沈黙のように柔らかくのしかかってくる不安と戦っていた。

 翌朝。担当医の増田が國木田に手渡したのは、A4 サイズのスケッチブックと12色入りのペンだった。
「何か絵を描いてくれるかな。テーマは特にないから、思いついたものを描いてくれ」
 國木田は頷きもせずにスケッチブックとペンを受け取った。少し考えていたが、黒のペンを取ると、サラサラと絵を描き始めた。隣でその様子を見ていた増田の表情が、段々驚きのそれに変わっていく。
 太いペンで國木田が描き出したのは、ピアノだった。それも、ホールなどでよく見かけるグランドピアノが寸詰まりになったような形をしていた。左右に余白があるから、紙の大きさの都合ではなく、彼の心に映っているピアノがその形なのだろう。黒く塗るべきところはきっちり黒く塗り、太いペンで器用に鍵盤を描き出していく。
 國木田は相変わらず黙して、ただ描いた。サスティンペダルを描いて、ピアノの足に付いている車輪を描いて、ようやくペンを置いた。見直しでもするようにじっと見て、増田にスケッチブックを戻した。
「すごいじゃないか。見本も見ずにこんなにきれいに描けるなんて……絵で食っていけるな」
 そう言って笑顔を向けた。國木田は一応顔を増田の方に向けてはいるが、反応はしない。少しアテを外された増田は、もう一度スケッチブックを國木田に渡した。
「じゃあ次は、木を描いてくれ。地面に生えてる方の木だ」
 増田の言葉に、國木田はもう一度スケッチブックを開いた。ピアノの次のページに、これも黒ペンだけを走らせた。真ん中より少し左寄りに、柳の木を描いていく。今度はピアノよりも時間をかけて、それでも増田が見た中ではトップクラスに速く、きれいな線を引いている。全体に木の幹には影がかかっているが、細身の幹のラインは女性の腰のような魅惑的な曲線を描いていた。増田は、思わずため息をついた。
「君は絵が得意なんだなぁ。こんなに迷わずさっさと描いてく人なんてそうそういないんだが……」
 國木田は褒められたという感情を持たなかった。目で見たものを細かく記憶することもそれを絵に描くことも、國木田にとっては生きていくための技能の1つでしかない。
 増田はしばらくピアノの絵を眺めていたが、ふと國木田を見た。その顔を少し見て、一つ頷いた。
「ちょっとついて来てくれないか?君に見せたいものがあるんだ」
 そう言うと、返事を聞かずに立ち上がった。数日の経験で、國木田相手に何かをして欲しい時は有無を言わせずに行動を始めてしまうのが正解だと学んでいるのである。そして彼の見込み通り、國木田は警官の勝手さに溜め息をつきもせず、立ち上がった。

 増田が國木田を連れてきたのは、一階にある共同スペースだった。相変わらず人影がまばらなスペースの、奥の方に導いていく。
「これが見せたかったんだ。弾いてもいいよ」
 そう言った増田の後ろには、グランドピアノがあった。カバーは少々埃っぽい色になっていたが、コンサートグランドと呼ばれる、堂々たるグランドピアノだ。國木田の絵を見て、ピアノになら興味を示すかと思ったのだ。しかし、彼のの表情は動かない。
 失敗か、と増田が肩を落としかけた時、國木田がすっと歩き出した。ピアノの椅子に腰掛けると、ごく自然な動作でピアノの上蓋を開け、鍵盤の蓋も開けた。赤いフェルトをピアノの蓋の上に軽く放って、鍵盤に指を落とした。
 増田の表情はどんどん緩んでいった。彼の想像は当たっていたのだ。グランドピアノから流れ出したのは、力強いタッチの「Imagine」だった。ピアノソロ用にアレンジされたものなのだろう、右手でメロディーを、左手で和音を弾いている。それも、そう難しいものではない。しかし、簡単な曲ながら、國木田の指の動きは滑らかで迷いがない。おそらく何度となく練習したのだろうと思わせる演奏だった。
 ジョン・レノンの名曲が終わると、國木田は手を下ろしてふっと一つ息をついた。が、すぐに指を鍵盤に戻し、次の曲を弾き始めた。今度は増田の知らない曲だった。これも淀みなく弾いていく。
 増田はそっと、國木田の表情をうかがった。その横顔には、やはりいつもと同じく何の表情もないように見える。だが、増田はどことなく真剣な雰囲気を感じ取った。
 2曲目が終わると、増田は思わず拍手をした。
「すごいじゃないか。今のはなんて曲なんだ?」
 しかし、國木田は答えなかった。答えないだけではない、質問を投げかけられたことに対して全く反応していなかった。次の曲が始まって、自分が完全に無視されたことを知った増田は、いつものことながら一抹の苛立ちを覚えた。仕方ない、仕方ないんだと自分を抑えながら、増田はそばにあった椅子に座った。彼が國木田に使える時間はまだ20分以上残っていた。

 國木田はほっと脱力して、鍵盤から指を外した。ふと我に返ると、周囲には人だかりができている。それぐらいで表情が崩れる國木田ではないが、さすがに内心では少々驚いた。ピアノを片付けて、席を立つと、聴衆はなんだかんだと言ってきた。皆口々に誉めそやしているのだが、当人はまるで聞く気もないので、何を言っているのかまで理解していなかった。國木田はどちらかというと、増田という若い医者の姿がないことの方が気になっていた。無論、実際には別の仕事に行かねばならなかったため、後ろ髪を引かれる思いでこの部屋を後にしたのである。
 病室に帰りながら、國木田の心は自分の指が思いの外スムーズに動くことに占められていた。絵は仕事に使うために覚えた。しかしピアノは完全に趣味だった。仕事に使うことなどできず、そのためここ数ヶ月はピアノに触れていなかった。まだ弾けたのだ、という驚きと、喜びがあった。
 國木田は、独り言も含めて病院では一切口を利いていなかった。それが必要なことだからでもあるし、元々あまり喋らないように習慣付けていたせいで無口になったのもある。表情を変えないことも含めて、苦痛を感じることはなかった。それ自体は良くも悪くもない。ただ、感情の起伏が表情に合わせて緩やかになっている自分を実感するようになって来た。
 彼はここ数日で急速に「國木田」になりつつあった。
(‥‥いつまで待たせるのだ、あいつは‥‥)
 表情を変えず声帯を震わせることすらなく、國木田の一瞬の感情は空気に溶けていった。

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2005年06月25日

新たな一歩

 最寄り駅の駅前広場。小型の発電機にアンプを繋ぎ、抱えた楽器から伸びるシールドがそこに入っている。足元にはラジカセが置いてある。立っているのは、髪の長い少女と、大人しそうな少年。少女は立ち、少年は椅子に座っている。
 少女は、ギターのような楽器を抱えていた。近づいてよく見ると、弦は5本で太い。エレキベースだった。少年は開いた足の間にボンゴを挟んでいる。それぞれに音を確かめるように出して、少女がアンプの音量をいじった。また音を出して少年の方をうかがった。少年が頷いて、少女も元の位置に戻った。
 いつもなら気にせず通り過ぎるところだが、私は足を止めて二人の準備を見守った。譜面台に載ったスケッチブックに、バンド名なのか「tail」と大きく書いてある。バンド名の下に、19.00開始、と書いてあるのを見て、腕時計を見た。あと2分。
 スケッチブックの下にS字フックで吊ってあるチラシを取った。少女が気付いて「もう少しお待ちください」と言ってくれたのに頷いて、中を見た。名前、パート、バンド名、バンドの成り立ち、ライブの日程。バンドの成り立ちのところで、目が留まった。2人の方を見ると、ちょうど準備が終わったところのようだった。ベーシストとドラマー。2人だけのバンド。

 少年がラジカセを回す。スピーカーからエレキピアノの和音が流れ出す。2人は視線を合わせて、同時に入った。5弦ベースでスラッピングし、延々繰り返される4つの和音にグルーヴをつける少女。素手で確実にリズムを刻み、時にソロのようなフレーズを叩き出す少年。
 私の知っている2人の音とは似ても似つかないサウンドに、驚きと共に聴き入った。2人が音を止め、ラジカセからの音も止まる。拍手は私1人だけではなかった。少女が落ち着いた低めの声で、口上と曲目を言った。そして、今度は少年のフリービートのソロに、ラジカセのシンセ音が合わせ、少女の指弾きの高音フレーズがメロディーを奏でる。誰かが感嘆のため息を漏らした。
 少女のお礼の言葉と共に2人揃ってお辞儀をして、30分ほどの路上ライブは終わった。2人はケースを置いていなかったが、数人が近寄って、小銭を渡していく。私も少年にコインを渡して、「ずいぶん雰囲気が変わったね」と言った。私の言わんとしていることがわかったのだろう、少年は嬉しそうに笑った。
「元々僕はこういう音楽やってたんです。前のバンドやってた時にも、こういうファンク系の曲やってたんですよ」
「へぇ。聴いたことない……し、想像できないな」
 彼らの前のバンドは純粋なハードロックだった。メンバーもサウンドも、ハードロック一筋にしか見えないほどに。そう言うと、彼は「そうでしょうね」とまた笑った。
「表ではやってませんでしたから。あくまで練習の1つでしたからね」
 意外だった。他ジャンルの曲を『練習の1つ』でやるというのは、私の知識にも印象にもない。
「そういえば、次のライブも2人でやるの?」
 当たり前のことだ。彼は笑顔を絶やさずに頷いた。
「もしお時間がありましたら、ぜひいらしてください。前とは違うってことがわかると思いますよ」
「楽しみだね。都合つけて、行くよ」
 お礼を言う彼に挨拶をして、私はその場を辞した。振り返ると、手早く機材を片付けている2人の姿が見えた。少年の意味深な言葉を思い返した。手元のチラシに書いてある、一番近いライブの日は再来週の木曜日。楽しみだ、と思いながら家路についた。今日は、いつも活躍してくれる iPod の出番はなかった。

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2004年11月15日

The Rock Star

 「サラマンドラ・ラストステージ」というポスターの貼られた300人収容の会場には、観客がひしめいていた。下手をすると踊る隙間もないほどの超満員。メジャーデビュー直後に、女性絡みでスキャンダルを起こして解散せざるを得なくなったバンドのラストライブとは思えない熱気に、会場主が驚いたほどだ。
「いっぱい来てるわ」
「嬉しいことじゃない。最後なんだし、多けりゃ多いほどいいよ」
 袖に観客の様子を見に行っていたベースのリザが戻ってきた。少し緊張した面持ちの彼女にドラムスのカイトが気楽に応じると、そうね、と気が抜けたように笑った。この最後の時に和やかなのはこの2人だけだ。スタッフは自分の仕事を完璧にするのでピリピリしているし、残る3人のメンバーにも笑い合う余裕はなかった。リザたちを咎めるでもないが、応じようともしない。
 リーダーであり、リードギターのハイルはメンバーの誰よりもこの日を忌避していた。自分が集めた初めてのバンドであるサラマンドラでメジャーデビューまでこぎつけた時は、まるで夢の中にいるような気分だった。と同時に、自分の宝物を手にしたばかりの少年のように、そのことを誰よりも大切に思い、メジャーシーンに執着していた。日々の練習やライブの手配だけでなく、プロモーションとしての様々な活動にまで手を広げる必要があれば、第一にハイルが動き、他の4人の尻を蹴飛ばすように動かした。
 だからそれをあっさりと粉々にしたスキャンダルに、ハイルは猛烈な怒りを覚え、それを隠そうともしなかった。仕方なくやったことではない、不誠実さと不注意から起こったことだ。発覚した時点では致命傷になるとは限らなかったが、デビュー直後で実績がなかったことと、人脈のなさが凶と出た。事務所はスキャンダルの原因となったヴォーカルのケイジを切るよう指示したが、それはハイルにとって解散指示と同義だった。
 咎め立てたハイルと、基本的に悪いことをしたとは思っていないケイジは激突した。実際に、口で言い合うだけでは収まらず、事務所の一室でつかみ合いになったのだ。リザとカイトはすぐに退避したが、リズムギターのシンは間に入って必死で止めた。止めた結果、頭に血が上っているハイルにもケイジにも散々ののしられた挙げ句、押しのけられたはずみで眼鏡を割ってしまい、危うく失明するところだった。様子を窺っていたカイトがすぐに連れ出し、幸い大事には至らなかったが、2人の間に立った者の気まずさがずっと残っていた。

「はーい、本番5分前でーす!」
 スタッフの声に、5人は無言のまま一斉に立ち上がった。一度袖に集まってプログラムの最終確認をし、体と心の緊張をほぐす。やがて観客席の証明がすっと落ちた。間断なく続いていた観客のざわめきが、わぁーっという歓声に変わる。スタッフの方を一度窺ってからカイトがまず駆け出し、すぐにリザが続く。シンは一瞬とまどってからその後を追う。ハイルは厳しい顔を崩さないままケイジを振り返った。ケイジは何も答えない。ハイルも何も言わずに、ステージに駆け出した。4人がそれぞれ楽器を構えた。それを確認して、ケイジもファンの前に姿を現した。

 インディーズバンドのライブだとは想像できないほどの熱気が会場に充ち満ちていた。このバンドの姿を見るのは最後、というだけではない。この場に集まった客の半数以上は、実はサラマンドラを見に来たのではなかった。客席が暗くなり、全員の視界にステージが浮かび上がった。その時を迎えた観客は、歓声でメンバーを迎えた。
 このバンドは余計なタメを嫌う。すぐに1人ずつステージに駆け込んでくる。まずはドラマーが、続いてベーシストが。この順番も常に一定だ。それぞれのファンや関係者がより大きな拍手や歓声を上げる。リズムギター、そしてリードギター。4人が楽器を構え、すぐにでも演奏できる状態になると、ヴォーカルがゆっくりと入ってくる。その瞬間、これまでの4人への歓声をかき消すような叫びが会場全体から上がった。
「今日で終わりだ!」
 ケイジが叫んだ。轟音のような歓声がぴたりと止んだ。もう一度、ケイジが叫んだ。わぁっと一声だけ、観客が応える。
「思いっきり行くぜぇ!」
 その声が消えるか消えないかのうちに、カイトがハイハットでカウントを入れた。4つの楽器が同時に吠え、観客の声に高められながらの最後の音が流れ始めた。

 ハイルはじっとケイジの横顔を見つめていた。体はリズムを取り、ギターを操っているが、その視線は手元でも客でもなく、マイクを両手で握りしめてかじりつくように歌うケイジの姿を追っていた。メインスピーカーを通じて会場に響き、モニターから自分の方へと返ってくる声は、かつてハイル自身が身震いするような驚きを感じた力を全く失っていなかった。むしろ日々の練習やライブを重ねてきたことで技術も喉も鍛えられたのか、輝きを増している気がする。それが嬉しくもあり、悔しくもあった。とびきりの原石は自分のバンドの中でより大きく育った。そのケイジに自分の曲を歌わせられるのはこれで最後だ。

 ケイジはほとんどトークを挟まず、ほんの一言二言叫ぶだけで次の曲へ移る。実際喋って繋ぐのは苦手だからなのだが、サラマンドラでは無理をする必要はない。曲の数も集中力も、DJが繋いだように切れ目のほとんどない演奏に十分耐えうるからだ。ライブ中にケイジが最も心地よく感じるのはこのことだ。歌いたいと思えば、いくらでも歌える。そして曲も演奏者の腕も、ケイジの求めるレベルを十分クリアしている。
 サビを歌いきり、ハイルの指が指板を踊る。機関銃のように流れ出る音にケイジは乗るだけでいい。ハイルは悔しさも怒りも、そして喜びも全てをごちゃまぜにしてギターに載せた。一瞬閃いた理性が、フレーズの途中で一度だけ顔を上げさせた。リザと視線が合った。それを意識すると、すぐにギターに意識を集中した。
 ケイジは乗るだけでいい。リザの視線に乗って送られた指示のままに、カイトとシンはリザのアドリブのフレーズにタイムラグなしで合わせた。楽譜上では16小節しかないはずのギターソロが、当然のように17小節目を通過していったのだ。カイトはソロの間中、穴があくほどハイルを見つめている。次から次へと流れてくるソリストの音にポリリズミックなフレーズを当てていくための、カイトの癖だ。そのカイトをリザとシンは冷静に見つめ、揺らぐビートを抑えて揺るぎない基盤を構成する。
 ソロが終わりに近づいているとは客は思わなかった。それでもハイルのソロに絡むように入ってきたケイジのヴォーカルは、そのまま半分ソロのように音量を絞って弾き続けるハイルの意図をしっかりと掴んでいた。そのまま楽譜に戻り、曲は終わりに向かう。

 ライブの終わりは、これまで発表したことのない曲だった。聞いたことのない曲名とモニターにどっかと腰を下ろしてしまったハイルの姿に、客は一様にざわめいた。イントロはざわめきにかき消されそうなほど静かなフレーズだった。ディストーションを切ったエレキギターは鎧を脱いでしまったような細身の音だ。それにケイジの歌が入った。もうざわめきはない。どれほど驚いていようと、ギターと声が一体化したような音に聴き入るしかなかった。
 最初は立って歌っていたケイジも、すぐにハイルの隣に腰を下ろした。最初は定位置を動かなかった残り3人もそれぞれに動いた。シンはそっとギターをエレアコに替え、リザはステージの真ん中に座る2人に寄っていった。カイトは立ち上がると、ドラムセットの影に置いてあった一対のウッドブロックを片手に、椅子をもう片手に持ってドラムの前に出た。椅子をリザに差し出して座らせると、自分はその側に立ってウッドブロックを両手に持ち直した。
 これまでに一度もやったことのなかった編成だった。シンがアコースティックの音でソロを取り、機械のようにロングトーンを鳴らすリザの隣で、カイトがこれも機械のようにウッドブロックを3拍目に打ち鳴らす。ソロが終わるとシンは音を止め、4人が残った。3人の伴奏を得てケイジは、深い水の底のような、静かで穏やかな別れを歌い続ける。そこには既婚の女性と浮気をしていた男の俗な臭いはなかった。
 音が止み、同時に照明がすっと落ちた。一瞬、止みと静寂とがライブハウスの中に訪れた。それが染み渡った瞬間、爆発するような歓声が起こった。アンコールの手拍子が響き始めるが、それを拒絶するように、通常照明が観客と誰もいなくなったステージを照らし出した。

 ライブを終えた後、スタッフに5人で挨拶に回った。これまではそれぞれに挨拶を交わしてはいたが、こうやって全員で回ることはなかった。最後だから、とハイルが連れて回っているのだ。こういうことはあまり好かないケイジも、神妙な顔で、とはいかないまでも大人しくついてきて、一緒に頭を下げて回った。
 それも終えて、自分たちの片づけが終わると、5人は揃ってライブハウスを出た。室内の猛烈な熱気に慣れている体には、10月の夜の空気は寒いほどに感じられる。普段なら反省会を兼ねて飲みに行くのだが、今日はなんとなく最寄り駅に向かって歩き出した。ライブの後の心地よい脱力感と寂寥感とに包まれて、駅に着くまで誰も口を開こうとはしなかった。
 ケイジ、ハイル、シンの3人が一方、カイトとリザがもう一方に乗る。一本しかないホームはそれなりに人が立って、思い思いに電車を待っていた。ライブ自体が終了してから結構経っているので、客にぶつかることはなかった。そうでなければ、まだ誰もこの5人に気付くことはない。
 ケイジたちの乗る電車の方が先に着いた。駅内のアナウンスでホーム全体が騒がしくなった。
「じゃあ、またな」
「おう。またどっかで一緒にやろうな」
 ハイルが手を挙げると、カイトがにこやかに応じた。続いてシンと、そしてケイジと握手を交わす。リザも極力明るく、別れの言葉を口にした。
「オマエらさ、俺がこれまでやった中で一番うめーよ」
 ケイジの言葉は唐突だ。最後まで変わらないその調子に、リザは思わず笑った。カイトは正面から褒められて少しはにかんだ。
「じゃーな、ケイジ」
「おう」
 3人はドアが閉じられる寸前に順に列車に滑り込んだ。と、最後のケイジの肩がドアに引っかかった。ぐお、と呻いたのがカイトの耳にまで届いた。思わず先に乗っていた2人が両側からドアを押さえながら、なんとかケイジの体を中に引っ張り込んだ。駆け込み乗車はおやめ下さい、というアナウンスと、残ったカイトとリザの笑い声に見送られて、電車はするすると駅を離れていった。

posted by alohz at 03:40| Comment(0) | TrackBack(0) | [短編]音楽的 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年06月18日

僕たちのスタイル

 いつもの喫茶店で、俺と泰治はいつもより難しい顔で向かい合っていた。視線は合わない。泰治は目を閉じて、イヤホンから流れてくる音に集中し、俺はそんな泰治の一挙一動に集中していた。
 段々と気温が上がっていく季節になっても、この店は変わらずに適温に保たれている。そして、他にほとんど客のいない店内は、不思議な静けさがある。耳を澄ませば、わずかに BGM が流れていることがわかるのだが、意識しなければ無音なのだ。よく音を聴いて話をする俺たちが、別にうまいコーヒーが出るわけでもないこの店に入り浸っているのは、この静けさの為だ。
 腕を組んで微動だにしない泰治を前に、俺も動かなかった。頭の中で、泰治が聞いているであろう音を再生し、表情の変化を見ているのだ。たまにわずかに表情が変わる。大抵そこは、作曲した俺自身が特に自信があったり無かったりしたところなのだから、俺はこいつの耳を信頼している。
 メモリースティックに入れておいた4曲が終わると、泰治はゆっくりと目を開け、組んでいた腕を解いた。
「どうよ」
 平静を装って訊いた。実際はかなり不安だ。泰治は少し言葉を選んでから言った。
「かなり良い、と思う。今回はアレンジというか、スタイル似てるね」
「ああ、たまたま合ったんだ。そういう時期なのかな」
「時期なんてあるの?」
 適当に言ったことをまじめに訊き返されて、俺はさあ、と肩をすくめた。泰治は曲を作らないのだ。俺は曲を作るようになって結構長いが、作る曲のジャンルはバラバラなのが常だ。今回のように、ほとんど全部同じスタイルというのは確かに珍しいが、別に理由があるわけではない。
 とにかく、泰治の高評価に気をよくしたが、泰治は、でも、と付け足した。
「なんか、何となく Kraftwerk の音に似てる気がする。アレンジをかなり考えないといけないね」
「‥‥なんで?」
 さっきの泰治のように、素朴な疑問をそのまま口にする。泰治は心底意外そうな顔をした。
「確かに最近よく聴くからそんな音がするのも無理ねーけどさ。別にパクったわけでもなし、全く同じってわけでもなし、良いんじゃない?」
「‥‥そうかな」
 反論こそしないが、納得したわけでもないらしい。
「質が低いんなら没っちゃうけど。これとこれが同じに聞こえる、とか」
「あ、そんなことはないよ。質もそこそこ高いし、ちゃんと曲ごとにイメージが違う」
「じゃ OK じゃん?」
 泰治はなんとなく腑に落ちない様子で、それでも頷いた。頷いてから、慌てて言い足した。
「あ、個別に修正点はあるよ?楽譜があったら印するけど」
「ああ。えーっと‥‥」
 俺は苦笑しながら、鞄から楽譜を出した。さすがにただでは通してもらえないらしい。

 印刷した時より幾分黒くなった楽譜を置いて、すっかり冷め切ったコーヒーの代わりを頼んだ。
「思ったより少なかったな」
「そう?」
 それでも1曲に5、6カ所は変更、ないし気になった点が書き加えられている。かえったら、今付いた修正点を直せるだけ直して、パート毎の譜面を作らないといけない。
「‥‥で、アレンジはどうする?このまま行くならそれで打ち込み始めちゃうけど」
「うーん‥‥正直、曲自体は良いんだけど、こうも似てる時になるんだよね。少し、なんていうか、クラフトっぽくない感じにした方がいいと思う」
 泰治は少し遠慮しながら、自分の意見を口にした。俺は少し考えてから、あまり感情的に聞こえないように反論した。
「俺はできれば、細かいところはともかく、大筋としてはこのイメージでやりたいんだ。なんつーか、こういう形で出てきた曲だしさ、他の形にアレンジすると、たぶん違和感を感じると思う」
「‥‥それは確かに」
 泰治が頷いたので、俺は次の言葉が来ないうちにと、すぐに話し始めた。
「それにさ。俺たち素人ミュージシャンは、別に新たなスタイルを創らなきゃいけない訳じゃない。俺らに必要なのはさ、既存のスタイルを一捻りして個性を出す、その一捻りのセンスじゃねーか?」
 俺が一息吐いても、泰治はまだ考えて込んでいるような顔で口を開かない。届いたばかりのコーヒーを二口ばかり飲んで、ようやく話し始めた。
「でも、それじゃ僕らである必要なんてないでしょ」
「だから、それをあるようにするのが一捻りなんだって。大体ごく一部の天才を除いて、音楽自体、そうやって進化してきてんだ。で、俺らは別に天才じゃない」
 泰治が再び考え始めたので、俺はとどめを刺すようにいった。
「でなかったら、Green Day が他のロックバンドと同じ8ビート叩いてるってことは、Green Day である必要がないってことになる。でも、Green Day は Green Day じゃなきゃーいけない。違うか?」
「‥‥なるほどね」
 泰治は考え込むのを止めて、コーヒーをすすった。カップの奥に見える口には、苦笑いが浮かんでいた。
「確かに僕らは天才じゃあないね。なんたって‥‥」
「?」
 次に何を言い出すのかと疑問符を浮かべた俺に、泰治は手にしたコーヒーカップを示した。
「毎日コレ飲んでるんだもんね」
 俺たちは、店主が奥に引っ込んでるのをいいことに、2人で大笑いした。

posted by alohz at 02:30| Comment(0) | TrackBack(0) | [短編]音楽的 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2002年09月29日

On the Beat

 かつて、僕らの父親が僕らぐらいだった頃。ロックを好んで聴いたり演奏したりする青年は不良だと言われた時代があったらしい。不良という言葉も、最近はもうあまり見かけなくなった。僕らが想像する不良は、黒の学ランにリーゼント、車座にしゃがみ込んで煙草だ。今の小学生に訊いたら、きっと違う事を言うに違いない。

 同じリフ、同じ SE、同じビートが繰り返されるトランス。気怠げな、どこか厭世観の漂う声が、気分を高揚させるはずの力強いオンビートに乗って響く時、そこにはただの気怠さでも熱狂でもない不思議な感覚がある。挟み込まれたストリングス系のシンセサウンドは、ビートが抜かれた瞬間に恐ろしく強烈に僕らを骨抜きにする。僕は高校1年の春、そんな音楽を友人に聴かされてこう言った。こんなのが流行るようじゃ、日本の若者は駄目になるんじゃないの、と。

 僕は高校に入ってから、1度だけ泣いた。声を上げて号泣した訳じゃない。けど、人前で涙を流したのは今のところあれ1度きりだ。その原因が音だったのは、ある意味では僕らしかった。ただそれが自分の音でなかったのは、僕らしくなかったように思う。人並みの感動という奴に、どうにも慣れない人間だからだ。

 僕が2年の時の文化祭。食べ物の出店が並ぶ中庭で昼食を物色していた。側にあった仮設のステージから降ってくるヴィジュアル系ロックの粗悪なコピーを聞き流しながら焼きうどんを待ち、ギターのあまりのやかましさに辟易し出した頃にようやく紙皿を受け取った。友達のクラスで売っていた焼き鳥を受け取るためにステージの前を横切った時、クラスの女子の1人が僕に気付いて声をかけてきた。珍しく1人で、まだ手を付けていない紙皿を持っていた彼女は、僕が自分と同じ境遇だと知ると僕を昼食のお供に誘った。何の気無しに応諾して焼き鳥の皿を受け取ると、彼女は中庭の隅にその日だけ置いてあるベンチに僕を引っ張っていき、その左側に腰を下ろした。僕も隣に座って、焼き鳥の串をひょいと取り上げた。
 ステージの上で、次のバンドが何やらしゃべっていた。ステージには2人しか見えない。ドラムの側にベースが立てかけてあり、キーボードの前にマイクが立っている。そしてキーボードの隣に、さっきまではなかった簡易テーブルがあった。片方がベースを肩に掛け、もう片方がキーボードの前に立ってしゃべっている。
「あ、やっぱりステージが気になる?」
 僕が音楽が好きだというのを、どこから聞いたのか隣の女の子は知っているらしい。それに頷いて、スピーカーの振動を待った。どん、というバスドラムの音が、そのバンドの第一声だった。ベーシストが機械的なリズムに合わせて淡々とリフを並べ、キーボードは一定の和音を繰り返しながら、時折何か呟いた。毎拍ごとに打たれるバスドラムを筆頭に、同じパターンが延々続く。ただキーボーディストの呟きだけが少しずつ変わっていった。
 おおよそ5分間。僕は1串目の焼き鳥を食べ終えられなかった。ライブでこういう音楽をやるという発想が僕になかったからだ。次の曲に行く頃には、2串目の焼き鳥を半分食べ終えていた。
 他愛のないおしゃべりをしながら美味しいとも不味いとも言えない食事を終え、2人分の紙皿を捨てに一度席を立った僕の耳に、次で最後の曲になります、という声が聞こえてきた。見れば2人は最初の曲と同じ場所に、同じ様子で佇んでいた。
 今度はキーボードが始まりを告げた。ベーシストが簡易テーブルに載った何かに手を置いて、キーボードのソロを真剣に聴いている。左手で和音、右手で流れるようなメロディを作り出していくその様子は、まるでフュージョン・キーボーディストを思わせる。
 ひとしきりイントロを弾いた後で、ちらっと隣のベーシストに目配せをした。ピアノソロのブレイクに合わせて、リズムマシンが動き始める。ベースが弾き始めたのはリフではなかった。
 僕は思わず足を止めていた。

「ゴミ捨てに行ったっきり帰って来ないと思ったら、なんでこんなところでぼーっと……って、どうしたの!?」
 わざわざ呼びに来たのか、何やら驚いている彼女を見て初めて気が付いた。視界がぼやける。頬に何かむず痒い感覚があった。手で拭おうとして、両手にゴミを抱えてた事に気付く。彼女が僕に、おずおずと訊いた。
「ひょっとして、感動した?」
「……そうだね。」
 そう答えておいて、僕は手に持っていた紙皿をゴミ箱に捨てた。

 何であの時泣いたのか、理由はよくわからないと言えばよくわからない。ただ、あの最後の演奏でだけ、2人が2人とも必死に音を紡いでいた。後から人づてに、最後の1曲だけ、インプロヴィゼーションが中心だったことを聞いた。無機質な音の上に有機質の音が混じっていた事そのものか、2人それぞれのソロに感動したのか。エレキベースを手にした今でも、よくわからない。
 僕の膝の上に乗っかっている小さな寝顔を、あの時涙を見られたお返しにじっと見ている。そっと頬をつつくと、何とも言えない柔らかな気持ちになってくる。彼女はあの後、赤い顔でこう言った。

「あの時、泣いてたの見てさ。どきっとしたんだ。あたしとか、他の人が全然何とも思ってなかった事で、泣くぐらい感動してたのが、さ。お前普段、あたし達が盛り上がってるのを一歩引いて見てるだろ。だからすごく、意外って言うのもあったんだけど……気ぃ悪くしないでよ、綺麗に、見えてさ。」

 ロックが魂を揺さぶる時代はもう終わってしまったのかも知れない。未熟な電子音に涙した僕も、その涙から目を離せない彼女も。ぽかぽかと部屋を暖める西日の下で、僕は少しかさついた彼女の頬を撫でていた。開かれっ放しで自力で戻る気力もないくたびれた問題集を、ステレオから等間隔でこぼれ落ちる低音が励ましている。

posted by alohz at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | [短編]音楽的 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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