2008年05月13日

横顔

「えー!?またぁ!?」
「ごめん、あと2週間しかないからさ……」
 電話越しにぶつけた久美の不満の声に、和志は気弱な声でぼそぼそと言い訳をした。目前に迫った連休に旅行に行こうと持ちかけたら、あっさり断られたばかりかデートもお預けと言われてしまったのだ。そうでなくても、今月に入ってから会えたのは一度だけだ。久美でなくても、文句の1つも言いたくなるだろう。
「あと2週間って、先月何か出したばっかりじゃないの?」
「うん。あれは創作のイベント用で、今やってるのはゲームのオンリーイベント用。二次創作だから最初は楽なんだけど、動かし始めるとかえって制約が多くて……」
「そんなん知らないよ。もう、これで何日会ってないと思ってるのよ?」
 久美は嘆きのため息を漏らした。大学の時の後輩だった和志と付き合い始めて4ヶ月になる。その間、和志が趣味でやっている物書きを理由に、月に1回は会うのを断られていた。
「このイベントが終われば冬まで少し間があるからさ、そしたら旅行行こうよ」
「……終わったらっていつよ?」
「12月の初めの週とか。仕事もそんなにきつくないし」
「連休でも何でもないじゃない。金曜の夜から行くの?」
「午後休とか……ダメかな?」
「……考えとくけど」
 和志の上目遣いな声に、久美は思わず口調を緩めてしまう。この声で言われると、大抵のことは許してしまうのだ。和志の表情まではっきり想像できて、目の前にいないのについ目をそらしてしまう。
 そらした視線の先に、買ったばかりの旅行雑誌があった。久々の連休を2人で過ごすために買ってきた本だ。久美は、これではいかん、と自分を奮い立たせた。連休は2人で過ごす。それはもう決定事項なのだ。
「それはそれとして、今度の連休!旅行は12月でいいけど、せめて1日ぐらいあたしのために使ってくれたっていいじゃない」
「うん……じゃ、土曜日の夜ご飯食べに行こうか」
 和志は少し考えてから言った。3日のうち、どれくらいの時間を執筆に使うか、計算したのだろう。が、久美はにべもなく言った。
「ダメ。土曜日は1日付き合ってよね。一緒に見たいものもあるし、お昼しかやってないとこにも行きたいから」
「うーん……」
 断りづらいが断りたい、という響きだ。いつもこれに譲ってしまっていた。でも、今日は譲らない。
「和志さ、あたしのこと好き?」
「好きだよ」
「本当に?」
「うん」
 その言葉に迷いはない。さっきまでの気弱げな響きもない。それは久美もわかっていた。そのまっすぐさは信じていた。だから訊いたのだ。
「でもさ。付き合い始めてから、何回会ったっけ?」
 和志は答えない。
「仕事もあるし、小説書くのが好きなのもわかってる。でもあたしは和志に会いたいの。毎日でなくても、週末ずっとじゃなくても、土日のどっちかぐらい、好きな人と一緒にいたいの」
 和志は頷いた。かすかな声で、久美にもそれがわかった。
「和志はあたしに会いたいって思わないの?彼女のために時間使うのは嫌?」
「そんなことない。俺も久美さんに会いたいよ」
「じゃあ会ってよ。あたしが和志んちに行くから。お昼作ったげるし夜は小説書いててもいいから、土日とも一緒にいてよ」
「……いいの?」
「寂しいんだよ?和志はそんなことないかもしれないけどさ」
 そんな訳ない、と和志は言った。久美もそこまで気にされてないとは思わない。ただ、自分の世界を、打ち込めるものを持っている和志と持っていない久美とが同じ寂しさを感じているはずはない。
 それからしばらくして電話を切った。和志はたぶん、すぐに書き始めているだろう。そして久美は、本を読む。和志が好きだと言っていた本を。
「不公平だわ」
 独りごちた。CD を流して、クッションにぽすんと身を預けた。2、3ページ読んで、ぱたんと閉じた。身を起こしてその本を棚に戻すと、もっと薄い本を手に取った。
 20ページにも満たない、妖精の話。音楽で耳を塞いで、するすると読んだ。和志が書いた本だ。表紙と挿絵は友達に頼んだ、と言っていたが、分量以外はその辺で売っている本と変わらない。
 表紙に描かれた妖精の横顔に、和志の書いている時の横顔を重ねた。パソコンの奥に広がる想像の世界を見つめる、真剣なまなざしを。
「不公平だわ」
 また、独りごちた。

posted by alohz at 09:00| Comment(0) | TrackBack(0) | [短編]恋愛模様 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月14日

号令を鳴らすのはギター

「なー、兄貴。オレどうすりゃいいんかなぁ」
「何がだよ」
「雅[みやび]のこと」
 浩太はギターを抱えたまま、ベッドに寝っ転がった美紀の方を見た。
「何かしなきゃいけねーのか」
「んー……いや別にしなきゃいけないってわけじゃないんだけどさ。このままこう、どこにも落ち着かない感じでいるのってなんかヤなんだよ」
「ふーむ……」
 浩太は少し考えて、アンプに繋いでいないエレキギターで和音を弾き始めた。
「キライー、キライー、Love You〜」
「誰がー、誰が、Can't be alive without you〜」
 一度バンドで合わせた曲だ。原曲と違ってやたらゆっくりなテンポだが、美紀もすぐに合わせて歌い始める。
「知らないわ、そんな魔法、想いは伝えたら壊れちゃう」
「アナタとは、違うから、人の心まで簡単に、盗まないで」
 ギターの和音で締める。
「……兄貴、これ歌いたくなっただけだろ」
「歌ってみたら全然今の状況と関係なかったな」
「っの野郎……!」
 はっはっは、と快活に笑った。
「人が真面目に話してるってのに……」
「一緒になって歌ったくせに」
「……」
「しかし、真面目な話、状況を変えたいのか?」
「んー……うん」
「じゃあ押し倒せよ」
「っだから真面目な話をだな――」
「いや、真面目な話。俺も寛美に押し倒されたし」
「……マジで?」
「おう、マジで。わりと前だけどな」
「どんな状況だったんだよ」
 浩太はその時のことを思い出すように、少し間を取った。
「ここで、ベッドに並んで座ってギャラクシーエンジェル見てたら3巻が終わったとこで急に押し倒された」
「何なんだよその状況!突っ込みどころ多すぎてどうしたらいいのかわかんねぇよ!」
「順番に突っ込めよ」
「なんでギャラクシーエンジェル見てて押し倒すとかになるんだよ」
「そりゃ寛美に訊けよ、俺が押し倒したんじゃねーんだから」
「で?」
「どうした急にって訊いたら」
「うん」
「コクられた」
「まだ付き合ってなかった頃かよ!」
「でなきゃお前の参考にならねーだろうが。なんで俺と寛美のラブライフをお前に語ってやんなきゃなんねーんだ」
「いやそりゃそーだろうけど……」
「それで今や大学内ベストカップル賞だ」
「ちょ、ちょっと待て、なんでお前彼女でもない女の子部屋に連れ込んでアニメ見るんだよ!」
「いや、あいつギャラクシーエンジェル見たことないっつーから」
「貸せばいいだろ!」
「あいつんち VHS のデッキねーの」
「……なるほど」
 美紀は突っ込み疲れてぐったりとベッドに突っ伏した。
「うあー、どうしよー」
「テメェ、お兄様の実体験に基づくナイスアドバイスは華麗にスルーか」
「いくらオレでもそんな異常者と同じ手段は取れねぇ」
「誰が異常者だ誰が」
「いろいろ間違いすぎだろうが!」
「どこがだ。あいつは俺があいつのこと気に入ってるのわかってて一番確実だと思うようにやったんだろ?お前もそうすりゃいいだろうが」
「それはまぁわかるけど、だからそこでどうして押し倒す一択なんだよ」
「俺から見りゃそれが一番確実だ。ちなみに押し倒して耳元でささやくのがベストだな」
「ほんっとに兄貴から見てそれがベストなんだな!?」
「ベストだ。断言する」
 重々しく頷いて、浩太はギターを構えた。
「一万年と二千年前からあ・い・し・て・る〜」
「……ほんっとに考えたんだろうなお前」

+with the song [魔理沙は大変なものを盗んでいきました] by IOSYS
+and [創聖のアクエリオン]+

posted by alohz at 21:21| Comment(0) | TrackBack(0) | [短編]恋愛模様 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月05日

彼女を笑わせる方法

「うちのクラスには天使がいるじゃねーか」
 なんて恥ずかしいことを真っ昼間から言い出したのは、深山だ。2年に進級して1ヶ月が過ぎた頃、このクラスでよかった、としみじみ言うので何かと思って聞き返したら、そう言ったのだ。
 深山の言う天使というのは、小野田みゆきのことだ。親切で人当たりのいい、おっとりとしたお嬢さんだ。秀才で顔もかわいいのだが、周りの女子の話を聞くと運動神経はイマイチらしい。
 クラスの中でも人望があるのだが、深山のように天使扱いしている奴は滅多にいない。背丈は平均くらいでプロポーションが特にいいということはなく、制服をきっちりと着て眼鏡をかけて、と地味な印象があるせいかもしれないし、姿が見えなければ図書館にいる、というくらいに本好きだからかもしれない。滅多に、というのは、深山だけではないのを知っているからだ。言い換えれば、俺も彼女が好きなのだ。
「小野田さんかわいいよなー……」
「そうだな、かわいいな」
 それまではそんな話ついぞ聞いたことがなかったので、読書に縁のないサッカー少年の深山がどうしたことだろうと思いながら、俺も同意した。ぱっと人目を引くことはなくても美少女だし、優しさと笑顔を絶やさない温かい雰囲気がいい、というのが俺たちの共通の見解だ。
 それからしばらく、2人が寄れば一度は彼女の話が出る、と言う日々が続いた。とはいえ、結局のところそれは2人の間でだけだ。周囲にそれを広めるでもなければ、本人にもっと近づこうということもない。少なくとも2人で結託して彼女にちょっかいをかけることはなかった。
 そんなある日。朝礼前に寄ってきた深山が不意に妙なことを言い出した。
「小野田さんの怒った顔ってどんななんだろうな」
「……あ?」
 眉をひそめて俺の机に腰掛けている深山を見上げると、さすがに唐突だと自分でも思ったのか、すぐに説明を始めた。
「いやさ、小野田さんっていっつも笑ってるじゃん。たまに真剣な顔してたり困った顔してることもあるけど、怒った顔って見たことないなーって思ってさ」
「……まぁ確かに俺も見たことないけど、他の女子でも怒った顔なんてほとんど見たことないぞ。お前あるか?」
「……ないな」
 深山は素直に認めた。が、すぐに反論してきた。
「でも、他の奴らって大概不機嫌な顔ぐらい見たことあるだろ。でもお前、小野田さんの不機嫌な顔なんて見たことあるか?」
「んー、確かにない」
 今度は俺が認める番だった。深山はそら見ろ、という顔で俺を見た。
「しかし、これまでそんなだったらたぶん見ずに終わるよな」
「……だよなぁ」
 そろそろ夏休みも近づいてきた。この学校は各学年でクラス替えがあるから、来年も続けて同じクラスになれる確率はそれほど高くない。現に去年は俺も深山も小野田とは別のクラスだった。
 ため息をついた深山だったが、何か思いついた顔でこっちを見た。
「お前ちょっと小野田さんのこと怒らせてみない?」
 ぼそりと言った。俺は呆れて深山を睨んだ。
「お前ね……自分が怒られるのやだからって俺に振るかそれを」
「いいだろー?きっと俺たちの天使はすぐに許してくれるよ」
 俺は言い返そうと口を開いて、声が出る寸前で止めた。タイミングよく教室のドアが開いて担任が入ってきたので、深山は怪しむ前に机から降りると、にっと笑って自分の席に戻った。
 深山の申し出は誰が見ても馬鹿馬鹿しいことだったが、俺は受ける気でいた。人の縁は何でもきっかけがあれば動くのだ。それこそ、こんなくだらない提案であっても、だ。それを自分にとって一番いい結果にするために、俺は考え始めた。

 3、4限は2時間続きの美術の授業なので、美術室に移動だ。その前の休み時間にはがたがたと教室中が騒がしくなる。数学の三春が教室を出るなり、俺はすぐに深山のところに行った。
「深山、お前クロッキー帳忘れたことにしろ」
「んあ?」
「朝の話、やってやるから協力しろ」
 小さな声でそう言うと、深山は小声でわかった、と言った。こういうところはきちんと合わせてくれる。これでみんなに聞こえる声で返事でもしたら即中止するところだ。
「んじゃ誰かに借りるか……」
 俺はわざとらしく聞こえないようにそう言って、教科書片手に小野田の席に行った。いつものことだが、小野田は教室移動となるとしゃべってなくても最後の方になる。思ったとおり、ようやく美術の教科書を出したところだった。
「小野田ー」
「あ、大野君。何?」
 少し高めのゆったりした口調で名前を呼ばれるのは心地いい。俺はすまなそうな顔で言った。
「悪いんだけどさ、先週うっかりクロッキー帳持って帰っちゃって持ってくるの忘れたんだ。1枚分けてもらえない?」
「ああ、うん。いいよ。1枚でいいの?」
 小野田は俺の言葉を疑ってもいない様子で頷いた。すぐにかばんや机の中に手を伸ばさないところを見ると、ロッカーに置いてあるのだろう。俺はちょっと迷った風を装って付け足した。
「ごめん、できれば2枚。深山の奴もないらしくてさ」
「ふふ、やっぱり。じゃあ2人分あげるね。後ろに置いてあるから、ちょっと待ってて」
「うん。ありがとう。助かるよ」
 そう言いながら、俺は緊張し始めていた。小野田がすっと席を立つ瞬間に、周囲をざっと見渡した。教室に残っているのはあと5人。小野田とよく一緒にいる香田は彼女を待っていたようだったが、俺を見てから小野田の方を見て、誰かと一緒に出ていった。わずかな間をおいて、俺は小野田のかばんの中にすっと手を突っ込んで、手に取ったものを教科書の影に隠した。深山に後ろに行くように手振りで示しておいて、音を立てないように自分の席に戻った。手の中のものを自分の机の中にすっと隠すと、その前に筆箱を置いてすぐに自分のロッカーに向かった。
 俺たちが自分のロッカーを開いて絵の具箱を取っているのに気付いて、小野田が顔を上げた。
「あ、絵の具箱はあるんだ?」
「う、うん。こっちは突っ込んだんだけどさ。ごめんねー」
 深山が慌てて答える。俺は中に入れっぱなしのクロッキー帳が見えないように注意しながらロッカーから絵の具箱だけを出した。深山も一緒くたに出さないようにと苦心している。この馬鹿。
「ああ、そんなに丁寧に切らなくても、適当でいいよ」
「ん、きれいに切った方が気持ちいいじゃない?」
 俺が深山と小野田の間に立って手元をのぞき込むと、小野田は丁寧に2枚切り取って、俺に渡してくれた。背を向けている間に俺のしたことに気付いた気配はなかった。今更申し訳ない気がしてきたが、既に行動してしまった。あとは昼休みに俺がどれだけうまく立ち回れるか、だ。

 美術の時間はあっという間に過ぎていく。合間の休み時間に一旦教室に戻ると、深山も呼んでいないがついてきた。
「どうする気なんだよ?」
 わくわくしながら訊いてくる。俺は首を振った。
「お前はネタ知ってたら顔に出るから秘密だ。お楽しみに」
 深山は俺の答えに不満そうな顔をしたが、俺がごそごそとやっているのを見てあきらめたのか、教室を出て行った。俺は休み時間ギリギリまで教室に残って、滑り込みで美術室に戻ると筆を取った。これで下準備は完了。
 絵は苦手だ。ギターを弾く方がよっぽど簡単だと思う。小野田の方を見ると、驚くほどうまいというわけではないが、俺の前にある絵なんかよりはずっとまともな風景が描かれていた。絵筆を握る彼女の横顔は真剣だ。いつもの天真爛漫な笑顔もいいが、こういう表情もいい。
 そんな風に余所見をしたり考え事をしていたりしたら、俺の絵はほとんど進まなかった。見れば深山はそれなりに進んでいる。なんとなく文句を言いたくなったが、さすがにただの八つ当たりなのでやめて、さっさと美術室を出た。
 小野田はどのみちゆっくり出るのだが、絵の具箱の片付けでロッカーを開け閉めしているときにクロッキー帳が見えるのでうまくない。
 教室に着いたのは一番ではなかったが、特に注目もされていないうちにさっと片付けたので気付かれなかっただろう。何気ない顔で席に戻って、深山と小野田を待つ。深山も程なく戻ってきて、弁当片手に俺の後ろの席に陣取った。
「小野田は?」
「まだ向こうにいたけど、そろそろ戻ってくるんじゃねーか?」
 ニヤニヤしながら言う。これで俺が失敗したらはり倒そう。
 そうこうしているうちに小野田が戻ってきた。香田と話をしながらロッカーに道具をしまって、自分の席に戻ろうとする、そこに声をかけた。
「小野田ー」
 手招きをすると、小野田は優しく微笑んで寄ってきた。
「どうしたの今日は」
「ごめんな何度も。いや実はコイツが小野田さんに怒られてみたい!とか言い出してさ」
 そう言って深山を指さすと、小野田は不思議そうな顔で深山を見た。深山の方は、小野田に正面から言うとは思いもしなかったのだろう、飛び上がらんばかりに驚いた。
「怒られたい?」
「あ、いやその……お、おい!テメェ、俺そんなこと言ってねぇじゃねーかよ!」
「そこで、悪いとは思ったんだけどちょっとしたいたずらをしてみた」
 焦る深山をきっぱりと無視して続けると、小野田は眉をひそめた。
「何したの?椅子にボンドでも塗ったの?」
「いや、だったら座ってから呼ぶって」
 俺は思わず苦笑した。昨日の晩、テレビでやってた映画を観たのだろう。俺も観た。
 俺は机の中から小野田のかばんから抜き取った弁当箱を出した。目の前に掲げて、いかにもからっぽのように振ってみせる。
「うまかったよ」
 小野田は目をまん丸に見開いて、「あっ」と小さく声を上げた。
「うそ……食べちゃったの?」
「はいこれ」
 俺は直接答えずに、弁当箱をそのまま小野田に差し出した。呆然とした顔で受け取った小野田は、ちゃんと持ったはずの弁当箱を取り落とした。
「わっ」
「ほい」
 それを受け止めて、改めて差し出すと、目をぱちくりさせて弁当箱を見た。予想外に重かったからだ。もう一度、今度はしっかりと持って、顔を上げた。
「……もう!食べてないんじゃない!」
 小野田はそう言って口を尖らせてみせた。俺は声を出さずに笑って、
「いや、だってさすがに3、4限の間だけで食べきるのは無理だよ。一日何も食べられないのは悪いしさ」
「びっくりしたぁ」
「怒るんならこいつに」
 深山を指して少し身を引くと、深山は嬉しいようなばつが悪いような顔で謝った。
「もうこんなことしないでね、2人とも」
「「はーい」」
 小学生のように声を揃えて返事すると、毒気を抜かれた顔で自分の席に戻っていった。待ちかねた香田に「どうかしたの?」と聞かれて、小野田はちらっとこちらを見た。すぐに香田に向き直って、なんでもないよ、とだけ言った。
「優しいなぁ、小野田さん……」
「俺への感謝は?」
 小野田の子供っぽい怒り方とさっきの言葉に感激している深山は、それを反芻しながら弁当の包みを開く。俺はその頭を軽くはたいて、自分の弁当に手を伸ばした。嬉しそうにゆっくりと食っている深山を尻目に、俺は大急ぎで自分の弁当をかき込んで席を立った。

 その日の放課後、このときばかりはいそいそと帰り支度をしている小野田の机に、小さなビニール袋を置いた。
「……いたずらの続き?」
 じろっと見上げてくる。さっきと違って、本当に警戒している顔だ。そんな顔もかわいいと感じる俺は、深山のことを笑えない。が、これ以上機嫌を損ねられるとそれこそ笑えない。
「いや、そのお詫び。昼休みにちょっと出て買ってきたんだ」
 そう言うと、意外そうな顔で、机に置かれたビニール袋をのぞき込んだ。中身がわかるや、小野田の頬がふにっと緩んだ。彼女のお気に入りのケーキだ。
 しかし、顔を上げた小野田は、今の笑い顔がすとんと抜け落ちたような無表情だった。
「大野君、あたしが食いしんぼだと思ってるでしょ」
「……なんで?」
「お弁当だって男の子みたいにたくさん食べるし、それでもケーキの2つや3つ食べられると思ってるんでしょ?」
「いや、だから昼休みに渡すのはやめたんだよ。普通に弁当食べた後で出されても食えないだろうと思ってさ。だからさっきまで食堂の冷蔵庫に入れてたのを持ってきたんだし。それに別に小野田が特別食べるとは思ってないぞ」
 俺は思わぬ反応に焦って言い訳したが、小野田の視線はちっとも温かくならない。
「うそ」
「ほんとだって」
「でもあたしのお弁当見たでしょ?」
「見たよ」
「とても食べきれないって」
 その瞬間、俺はようやく理解した。あの時わざとらしくふくれて見せたのは深山のために怒ってあげたのではなかったのだ。
「5分で全部食べて元通りにきちんと包み直すのは無理だ、って言ったんだよ。授業に遅れたらあれだしさ。時間制限がなきゃそんな大した量じゃないし、特に多いとも思わないって」
「……本当?」
「本当だよ」
「……ならいいけど」
 小野田はそう言って、冷たい視線を俺から外した。俺はできるだけ表に出さないように、ほっと息を吐いた。きっと今の透き通る刃のような表情が、彼女の怒りの表現なのだ。楽しいなんてとんでもない。
「これ、せっかくだからもらうね」
「うん。食べてちょうだい」
 小野田はそう言って、かばん片手に立ち上がった。ケーキの袋はもう片方の手で大事そうに持って。
「小野田、今日はほんとごめんな。いろいろ振り回したり、気付かずにひどいこと言ったりして」
「……うん。ちゃんと謝ってくれたし、許したげる」
 顔を上げて、俺の目を見てそう言ってくれた小野田の表情に、ようやく微笑みが戻っていた。それはいつものかわいらしいそれではなくて、思わずどきっとするほどに艶やかな微笑みだった。

posted by alohz at 09:00| Comment(0) | TrackBack(0) | [短編]恋愛模様 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年06月08日

心に咲く一輪の花

 俺が彼女に出会ったのは、1ヶ月ほど前のこと。買い物の帰りにふと立ち寄った喫茶店で、彼女の笑顔に迎えられたのだ。明るい内装の店内で、彼女の桃色の衣装は他の誰よりも彼女自身にふさわしく、魅力的だった。そして彼女の笑みは作り物めいた華やかさのない、素朴で素直な笑みだった。
 コーヒーを注ぎに来てくれた彼女と、わずかに言葉を交わした。自分でもあきれるほど凡庸な俺の言葉に、彼女は温かい声で返事をした。ごゆっくりどうぞ、といって去る彼女の細い背中を見ながら、熱いコーヒーを飲んだ。
 店内はそこそこ混んでいる。それほど広いわけではないが、それぞれと話をするのが当然とされているのか、別の店員はある2人連れと話が弾んでいるようだったし、彼女も呼び止められては、注文を取る様子もなく、ただ何か話している。聞こえてくる言葉からすると、あの客はかなり通っているようだ。
 俺には、毎日のようにここに来られるような余裕はない。時間はともかく、この店の平均的な値段は、俺には少々高い。今、彼女と会話している客のようにはなれない。月に2度来られれば、いい方だろう。まして、奥に座っている別の客のように、手土産なんて用意できない。
 買ってきた本を読みながら、薄めのコーヒーをすすった。空になったカップは、10分もしないうちに誰かの手で満たされる。彼女以外のウェイトレスも、それぞれに魅力ある姿で、俺に笑いかけてくれる。それは決して一目でわかるほどの作り物ではないが、しかし、何か少し、違うのだった。
 彼女の声が耳に入ってくると、活字を追っていた思考が自動的に切り替わってしまう。目を上げると、少々胡散臭いなりのおっさんと喋っているところだった。じきに話を止めて、歩き出す。歩調はゆったりしているが、どこか小動物のような感じがするのはどうしてだろう?
 スタイルは、誰もがスレンダーだというだろう。腰も手足も細いし、胸元も――これは本人には言えるはずもないが――控えめだ。だが背は決して低くない。全体的に細いから余計に高く見えるのだ。歩調だけでなく、口調も他の子より控えめだし、動きも特に機敏という感じはない。本を構えたまましばらくぼうっと見ていて、気づいた。微笑み方が、どことなく小動物的なのだ。俺は動物を飼ったことはないから、ハムスターなんだかリスなんだかわからないが。そっとのぞく八重歯のせいかもしれない。
 彼女が他の客と話していて、いらだつことはない。自分でも少し意外だったが、ただ単純に、俺に声をかけてくれる、微笑みかけてくれるのが嬉しいのだ。彼女の優しげな横顔を見ているのもいい。その前に誰がいたとしても、俺にとってはそれは瑣末事だ。何しろ、彼女とは今日知り合ったばかりなのだから。
 時間が来て席を立つとき、そっと彼女の方をうかがってみた。俺を呼びにきたウェイトレスが声を張り上げたおかげで、彼女もこっちを見て挨拶をしてくれた。一瞬目が合った。ふと、俺の表情が緩んだのがわかった。ごく自然に、彼女と一緒に俺も笑っていた。
 帰りのエレベーターの中で、既に俺は決心していた。また、来週か再来週かはわからないが、彼女に会いに来よう、と。その時に誰が彼女と話していても、こっちに笑顔を向けてくれるだけで、俺はきっと幸せになれるだろうから。

posted by alohz at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | [短編]恋愛模様 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年04月17日

身分違い

「あ、お疲れさま」
 仕事を終えたのか、キッチンに姿を見せた稔[みのる]に妙[たえ]が声をかけた。稔は中の様子を見て、妙1人しかいないことに気づいた。
「お疲れさま。三船さんは?」
「先に上がったわ。お疲れなんだって」
 女中頭の三船はここのところ、下のお嬢様の入学準備と新人の世話に追われていたのを稔も毎日目にしている。年齢もあって疲れがたまっていても仕方がない。
「大変だね、三船さんも」
「そうね……。でも他人事みたいに言うけど、稔君も大変なんじゃないの?」
 稔は微笑んで、手を振った。
「俺は大したことないよ。大塚さんの引き継ぎカンペキだったから」
 稔はつい先週、前任の大塚翁から安井家執事の役目を譲り受けたばかりなのだ。実際、3年間みっちり教育されているとはいえ25歳で貴族の執事を務めるのは容易なことではない。主から心配する声を聞かされた妙は、それを気遣っているのだ。
 それをありがたく思いながら、顔では意地悪そうに笑った。
「俺より妙の方が大変だろ?今日も何やらいくつも届いてたな」
「……そうね。開けてないけど」
「もったいない」
 少し表情が硬くなった妙に、稔は軽く言った。彼女の部屋には今朝届けられた手紙が2通、小包が3箱、封も切らずに置いてある。どれもプロポーズだったり恋の表明だったり、とにかく男性からの物ばかりだ。その中には貴族の名前さえあった。
「もったいないことなんかないわ。私はおつきあいする気なんてないもの。手紙はともかく物は使えないでしょ?」
「貴族の男もいるだろうに。真田の御曹司なんて、旦那様もいつだか褒めてらっしゃったぞ。家柄はともかく若いのによくできるって」
「貴族だからってお付き合いする気にはならないわよ」
 妙はそう言ってため息をついた。稔から渡された小包の中に、真田家の長男からの物もあったのだ。郵便物は全て稔の手を経ることになっているので、差出人をのぞかれたことを咎めることもできない。稔は彼女の様子を見てぼそりと言った。
「鬼堂の坊ちゃん、か」
 妙は無言のままだが、蛍光灯で白く照らされた頬がわずかに染まった。稔は、幼い頃から一緒に育った同僚のわずかな変化を見逃さなかった。考え込むように腕を組む。
「あのお人は全然攻めてこないな。最近よく見えるわりに美奈お嬢様にはお会いにならないから気はあるんだろうに」
 美奈、というのは今年16歳になったばかりの安井家の長女である。24歳になる鬼堂家の長男とは釣り合わないこともないのだ。自分のことをこれ以上突っ込まれたくない妙は、慌てて話を逸らした。
「わ、私のことより自分はどうなの?」
「身分違いの恋は俺には無理だなぁ。娘を中流貴族の執事にやろうなんて貴族がいるとは思えないし、ここのお嬢様はまだ小学生だしなぁ」
 安井家の次女、加奈のことをわざわざ言ったのは、美奈は貴族の子息との結婚を考え、既に方々に打診しているからである。
「別に身分違いじゃなくてもいいじゃない。旦那様について余所のお屋敷にも行くでしょう」
「……俺みたいなデキる男はみんな気後れして話しかけようとしないんだよ」
 わざとらしくため息混じりに言うと、妙は口元で笑った。
「はいはい。稔君黙ってたら恐いから誰も声かけようとしないのよ。自分から声をかければいいじゃないの」
「俺、理想が高いからな。その辺のメイドじゃいまいちこう、積極的になろうと思えないんだよな」
「ふふ、それじゃ確かにダメね」
 妙はそう言うと、コーヒー煎れてあげる、と言って席を立った。時代がかったモノトーンの制服をまとった幼なじみの後ろ姿を見ながら、稔は無言で彼女の作るインスタントコーヒーを待った。

posted by alohz at 18:38| Comment(0) | TrackBack(0) | [短編]恋愛模様 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年11月01日

仕える者

 日が暮れる頃合いになって一気に3人が帰ってしまい、急に静かになった部屋で、あたしと典子[のりこ]は2人、ちびちびと日本酒を傾けていた。おっさん臭い、と言われようが、これが一番美味しいんだからしょうがない。さっきまであれだけきゃーきゃー騒いでたのが嘘みたいに、ぽつぽつと言葉を交わしながらぽつぽつとお酒を口にする。
 中学からの仲良し5人組で鍋をしよう、と言い出したのは誰だったか。全員が無事に大学生になってから1年弱が経って、雪が降るんじゃないかってぐらい冷え込んだ正月過ぎ。材料を持ち寄りにしたら野菜とお餅ばっかりになったから、どうせお菓子もないし、と買い出しに行った。そのついでに近所にある酒屋でビールから日本酒までいくつかアルコールも仕入れた。今あたしたちが飲んでるのもその残りだ。
「前に麻耶[まや]に会ってからどれぐらい経ったっけ」
「……もう半年ぐらいじゃん?前にあったの夏だもん」
 典子が聞いてきたので、あたしは少し考えてから答えた。そっか、と簡単に答えた典子は、たぶんあたしと同じことを考えてるだろう。麻耶だけじゃなくて、あたしたち5人が前に集合したのが夏だった。その時は5人で徹夜で飲んで、いろんな話をした。
「半年もありゃ、いろいろあるか」
「そうね……」
 やっぱり、同じことを考えていた。初めは1人だけ餅を持ってこなくてみんなの喝采を浴びた麻耶が、酒が回る頃にはその話題で今回の再会飲みの主役になった。たぶん素面だったら言ってくれなかった、と思うぐらい、重大で突拍子もない話だった。

「麻耶んとこはいいよねー。彼氏すっごい優しいんでしょー?」
 そう話を振ったのは、ついこないだ前の彼と別れたばかりのあたしだった。同い年だったのだけど、どうにも冷たくて、あたしの方が耐えきれなくなったのだ。麻耶は高校3年の時に付き合い始めた4つ年上の彼氏と、もう2年近く続いてる。
 ちょうど隣に座ってたあたしが、どうよ、と肩で肩をつつくと、少し顔を赤くして小さく頷いた。酔ってても酔ってなくても、自分の恋愛話にだけ妙に照れるのはこの子の癖だ。おおーっと全員の視線が集中する。少し小さくなった気がするが、それでも嬉しそうな幸せそうな顔をしてる。
「いいわねぇ。一緒にいれば優しいし、ちょっとした物ならおごってくれるし、誕生日は忘れないし、毎回駅まで送ってくれるし、ねぇ?ちょっと変な人だけどいーじゃん」
「うわ、いいなぁ。あたしの彼氏、どこ行っても送ってくれたことなんかないよ」
「てゆーか雫会ったことあんの?」
 雫、はあたしのことだ。前に一度、麻耶と彼氏が一緒に歩いてるところに偶然会ったことがあって、その時に挨拶だけじゃなくてお茶まで一緒にしたから、なんとなくどういう人かは知ってる。見た目には十人並みのやせた人だったけど、麻耶にすごく気を遣ったり優しく接してるのはすぐにわかった。
「あるある。なんかねー、麻耶のこと本当に大切にしてるって感じだった」
「で、どうよ最近」
「……最近……って言うか2、3ヶ月前ぐらいからなんだけど」
 うんうん、と全員。
「先輩の家に住んでるの」
 いきなりの爆弾発言に、全員が目を丸くした。誰もグラスを口にしてなかったのはラッキーだったかもしれない。
「ちょ、ちょっと待って。麻耶、あんたもう同棲してるってこと……?」
「ど、同棲って言うか……居候って言うか……」
「同棲じゃん。もう毎日アツアツって感じ?」
「ちょ、ちょっと違うの。そういうのじゃないのよ」
 照れてるせいかどうもまごまごと要領を得ない麻耶本人を置いて、あたしたちはてんでに騒ぎ合った。同じ大学1年の友達が1年半付き合ったとはいえ同棲始めれば、そりゃあショックだ。それも、5人の中で一番恋愛経験の少ない子が。
「じゃあ何?毎朝おべんと作ったりしてるわけ?んで夜は晩飯作って風呂湧かして、あなた、ご飯になさる?それともお風呂?みたいなことを」
「典子、古い」
 麻耶は照れていても突っ込みは忘れない。
「お弁当も作ってるけど、家のことは全部私がやってるよ。その代わり、私家賃とか食費とか全然払ってないの」
「へー。じゃ労働奉仕ってことか」
「うん。学費だけは親に出してもらってるけど、生活費は最初にちょっともらったっきり全然くれないから……」
 親の話になると、少し表情が曇った。麻耶の両親はずっと仲が悪かったし、麻耶も四六時中いがみ合っている両親と一緒にいるのは苦痛だったらしい。親と仲が良くないのはあたしたちもよく知ってるから、自然にみんなフォローする。
「ま、でも、先輩働いてるし、麻耶の分まで稼いでくれてるんでしょ?」
「うん」
「ならいんじゃない?第一先輩がいてもいいって言ってくれたんっしょ?」
「いーなぁ、愛されてんじゃーん」
 あたしは半分フォロー、半分本気でため息をついた。ついでにほとんど空いている缶ビールを缶のままあおった。
「まあ飲め、雫」
「おうよ」
 グラスには既に次のビールが注がれている。見れば、麻耶も珍しくサワーを全部飲み干して、ビールを少しばかり口にしている。みんな大体そんな感じだ。
「いてもいいって言ってくれたっていうか……」
 麻耶が微妙な顔でさっきの話を続けた。典子がすぐに後を継ぐ。
「いろって言われた?」
「うーん。俺のもんになるなら一生飼ってやるって」
 即。場が静まりかえった。
 麻耶はそれに気付いてもいないみたいに、ビールをそーっと飲んだ。胃まで運んでから、独り言みたいに続けた。
「私も最初びっくりしたの。だけど、親とケンカして飛び出して来ちゃったみたいな状態だったし、先輩んちに夜中にいきなり行ってね、泣いたの。そしたらその晩は泊めてくれたんだけど、次の日に、家に戻るなら送ってくけど、ここにいたいならいてもいい、って言ってくれてね」
 少し間があったけど、誰も口を挟めなかった。
「家に帰りたくなかったから、私が先輩といたい、ってまた泣いて、そしたら、俺の物になるか、って。で、うん、って言ったら、家まで送ってくれて、うちの両親とケンカしてね。結局あたしは先輩の物になったの」
 あたしが酔ってるせいか、麻耶の方が酔ってるからか、顛末がわかるようでよくわからない。みんなもそうだったんだろう、智美[さとみ]が訊いた。
「で、じゃ、今先輩の彼女って言うか、ペット……ってこと?」
「うん」
 麻耶はなぜか嬉しそうに頷いた。それがかえってあたしたちをどことなく不安にさせる。智美の口にした『ペット』という言葉が、麻耶の状況を変な風に想像させる。
「ちょっと麻耶。それって、具体的にどんな感じなの?変なことされてない?」
「……変なこと?」
 あたしの質問に、麻耶は逆に訊いてきた。それも困る。どう答えたもんかと考えてると、麻耶は自分でも何か想像がついたのか、首を横に振った。
「別にされてないよ。家事は全部やるし時々買い物したり肩揉んだりするけど、無茶なことは先輩言いつけないから」
 想像より平和な発言を聞いてほっとする一同に、付け加えるように言った。
「それにね、先輩昔より優しくなったんだよ」
「……なんで?」
 あたしと典子がハモった。それがおかしかったのか、麻耶は少し笑った。思わず典子と顔を見合わせて、あたしが続けた。
「昔よりって、先輩昔からすんごい優しかったみたいじゃない」
「ふふ。うん、それもそうなんだけどね。元々気遣いとかそういうの苦手な人なんだ、先輩。それを頑張ってあたしに気を遣ってくれてたの。だけどね、今は全然気を遣わなくなったの。一緒にいてもずーっと何にも言わないこともあるし、きついこともぽんぽん言うし、平気であれこれ命令するし」
 そう言ってまたビールをゆっくり飲む。あたしたちもつられてそれぞれ手元のグラスを傾けた。
「でもね、夜先輩が遅くまで仕事してる時とか、あたしが待ってたら先に寝ろって絶対言ってくれるし、服とか必要な物は全部買ってくれるし、夜は住んでるアパートの向かいのコンビニ以外には絶対に買い物させないの。7時とかでもだよ?」
 それはすごい、と思わず唸ってしまう。あたしの周りにそんな器用な気の遣い方をする人はいない。
「それにね、本当はあたし、大学止めようと思ったの。お金とか余分にかかるし、どうせ先輩に一生お仕えするんなら仕事もできないしね。そう言ったんだけど、先輩ダメって言うの。学費もらえてるんだから最低でも学士は取れって」
 それも唸ってしまう。相手が社会人だからしれないけど、あまり「学士は取れ」なんてことを言ったり言われたりする状況が浮かばない。
 ところで、さっきペットって言われた時に気になったことが2つあった。1つは俺の物だから、と先輩に変なこと―Hなこととか無茶なこととか―をされてるんじゃないかってこと。もう1つは今日みたいな時のことをどうしてるのかってことだ。大学にいる限り、飲みは避けられない。
 2つ目の方を訊くと、麻耶はあっさりと答えた。
「大学の飲み会は大抵夜だから抜けちゃうけど、昼間は先輩会社だからあたしも何しててもいいの。もちろん家事はしなきゃいけないし、たまに電話で何買っとけとか言われることはあるから、そういうのは帰ってくる前に買っとくけどね。だから今日も先輩が帰ってくるまでは平気」
 あたしはそれで納得がいった。麻耶を誘った時に、6時までなら、と条件をつけたのだ。あたしの知る限りではバイトもしてないのに6時まで、と言われたから、おかしいなとは思ってたのだ。
「でも最低でも学士取れってさ、要は院行けってこと?」
 そう言ったのは和子[かずこ]だ。国文科にいるせいか、あたしたちが気にしない言葉まで気にする。今のも、和子以外は意味がわかってない。
「どして?」
「だって、『最低でも』ってことは『願わくば』が後に来るわけでしょ?」
「うーん……行きたければ行ってもいいってことだと思うけど。別に行けって言われたことないし」
 まあ、それはそうだろう。学費が出るかどうかもわかんないのにわざわざ院に行かせる意味はない。
「でも、勉強はできるだけしろって言ってたなぁ。そうそう、パソコンとかも教えてくれるんだ。先輩の仕事手伝えるぐらいになったらいいんだけどね……」
 にこにこしながら言う。その笑顔を見てたら、余計なことを言おうという気が失せてしまう。それでもこれだけは確認しておかないと。
「まあ何にせよ、とりあえず麻耶、今の生活に特に不満はないわけね?」
「もちろん。むしろすっごく幸せだよ」
 あたしの問いかけに、麻耶は満面の笑顔で答えた。

「最初はさ、先輩に騙されてんじゃないかと思ったんだけど」
 典子はちびりと日本酒を含んで言った。あたしも頷いた。全く同感だった。
「人を飼うとか平気で言えるっておかしいよね。それも、元カノ、って言うか今付き合ってる娘にさ」
「うん」
 それでも、それをストレートに口にはできなかった。麻耶は付き合い始めた頃から先輩が誰より好きだと言い続けてきた。それにさっきの様子を見てても、新婚3ヶ月のようにしか見えない。その後もわかるようなわからないような惚気を聞かされて、「あんたそれ騙されてない?」とはとても言えなかった。
「あんなけ幸せそうだとかえって何か怖いわ。なんか2、3年したら先輩のためとか言って体売ってそう」
「……なんとなくわかるけど。でも先輩ってそういう人じゃないとは思うわ。実際性格とか知らないけどさ、会社もそこそこいいとこ入ってるし、麻耶の話を聞く限り社会人としてはまともっぽいよ」
 あたしの言葉に、典子はうーん、と唸った。結局直接会ったことがないから、典子には『先輩』がどんな人なのかイメージできないんだろう。
「信用できそう?」
「だと思うけど」
 あたしはそう言って、ふと思い出したことがあった。
「どこ行くの?」
「ん、ちょっと」
 そう言ってあたしはこたつを抜け出すと、机の上においてあったかばんから財布を出して探った。目当ての物はすぐに見つかったので、それを持ってまたこたつに潜り込む。
「……(株)ニューコム・システムズ、システム事業部、北田雄治……誰の名刺、これ?」
「件の『先輩』の。前に会った時にくれたの忘れてたわ」
 あたしがそう言うと、典子は目を覚ましたみたいにその名刺をまじまじと見た。ひっくり返すと、裏側は英語の名刺になっている。しばらく観察して、視線をあたしに向けた。右の口元がきゅっと上がっている。何か思いついた顔だ。
「何企んでんの?」
「……会いに行ってみよっか。あたしたちの大事な親友飼ってるって奴に」
 そう言ってひらひらと名刺を振る。そこには会社の住所と電話番号、メールアドレス、それに携帯の番号とアドレスも書いてあった。ただし、自宅の住所は書いてない。会社用だからね、うちの住所なんて書いてホントに誰か来ちゃったらヤでしょ、と笑ってたのを思い出す。
 あたしも典子と同じように、にやっと笑った。

posted by alohz at 01:00| Comment(0) | TrackBack(0) | [短編]恋愛模様 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年09月11日

酔っぱらい

 遙[はるか]は食卓の隅っこでこちこち、と音を立てる置き時計をちらりと見上げた。日付が変わってから5分と15秒。食卓で雑誌を読んでいた彼女は、はぁと軽くため息をついた。同居人は、まだ帰ってこない。
「……遅ぇ」
 読んでいた音楽雑誌を乱暴に投げ出した。元々課題も終え、その他の勉強にも飽きて、同居人の和紀[かずき]の部屋から勝手に持ち出したものである。四六時中音楽のことが頭から離れない彼にとっては面白いだろうが、門外漢の遙にとってはいまいち掴み所がない。以前和紀がファッション雑誌を変な顔で読んでいたことがあったが、たぶんさっきまで自分も似たような顔をしてたのだろう、と思う。
 大学の図書館から借りてきた本の上に和紀の雑誌を積んで、椅子の背もたれにだらりと背を預けた。首だけを傾けて、チェストの上の電話をぼーっと見つめた。友達と飲みに行くけど今日中に帰る、というメッセージを残したのが7時過ぎ。遙が帰宅して留守番電話に入ったそのメッセージを聞いたのが8時過ぎ。1人分の食事を作って食べ、軽く筋肉をほぐしてから風呂に入り、大学の宿題を片付けたり本を読んだりしていたらもうこんな時間だ。
「先寝ちまうぞ……?」
 それでも寝ようとしないのは、前に自分が飲み会に連れ出されて遅くなった時、今ぐらいの時間まで和紀がずっと起きて待っていたからである。実際には和紀はいつも日付が変わる頃まで起きているので、特別頑張っていたわけではないのだが、遙はそれ以来、和紀の帰りが遅くなる時は起きて待っているようになった。おかげで、たまに時間の潰し方がわからなくなるぐらいに待たされる。
 することがなくなったので、雑誌と本を片付けた。3分と経たずに完璧に片づいてしまい、またすることがなくなった。仕方なく和紀の部屋にあるラジオのスイッチを入れた。深夜にも関わらず、元気におしゃべりをするDJの声をぼーっと聞いていたら、段々眠くなってきた。これはいかん、と冷蔵庫を開ける。
「あ、やべ。そろそろ牛乳がなくなるんだった。明日は……和紀に任せるか」
 よく冷えた麦茶をぐっと飲むと、少し眠気が覚めた。改めて和紀の部屋に戻ると、雑誌ではなくマンガを手に取った。たぶん少しは楽しめる。4コマで独り笑いする気にはならなかったので、少しストーリーのあるものにした。
 自分の部屋がちゃんとあるのに遙が和紀の部屋を出たり入ったりするのは、和紀本人もよく知っている。知っているが、放っている。遙の部屋には大学で使った本や武道に関するものはたくさんあるが、娯楽が少ないのだ。逆に和紀の部屋には少々値の張るオーディオ機器とパソコンを始め、マンガや雑誌、文庫本などが本棚にたっぷり入っている。飾り気がないのは両方に共通しているが、中身はまるで違うのである。そんなわけで、遙は和紀の部屋で時間を潰すことが多いし、逆に和紀は何か調べたいことがあると、辞書や学術書が置いてある遙の部屋に来る。

 ぴんぽーん、と気の抜けた音がした。遙はぱっと反応すると、マンガを元あった場所に素早く戻して、ラジオはそのままに玄関に向かった。食卓の時計はさっき見た時から20分ほど進んでいる。終電でなんとか帰ってきたに違いない。そう思いながら、遙はドアを開けた。
「お帰り。遅かったな」
「ただいまー」
 ドアの前には、彼女の同居人、小川和紀の姿があった。ただし、頬から耳まで真っ赤である。
「……思いっきり酔ってやがるし」
 思わず悪態を吐いて、それでも、立ってるだけでふらふらと危なっかしい和紀の手を引いてやった。
「うー……頭がぼーっとしてる……」
「見りゃわかる」
 鍵とチェーンをかけると、和紀を食卓まで連れていった。鍵をかけている間に横からしがみつかれてしまったので、肩を貸してるような格好である。
「むー」
「ほら、水飲め、水」
 そう言いながら麦茶をコップ一杯に注いでやる。渡してから落とすかもしれないと一瞬心配になったが、ちゃんとコップを掴んで、一口飲んだ。
「うー……これ、お茶じゃん」
「変わんねーだろ、いいから飲め」
 違うじゃん、と言いながらも残りを一気に飲み干した。コップを遙の方に差し出したので、もう一杯注いでやる。それも一気に飲み干して、今度はテーブルの上に置いた。置いてから、次の動きがない。
「こら和紀、お前そんなとこで寝んな」
「寝てない寝てない……」
 そうは言いながらも、まるで動こうとしない。遙はもう一度ため息を吐くと、後ろから和紀を抱え上げた。脇の下に腕を入れて、思い切り持ち上げたのである。酔っぱらい相手なので猛烈に重いが、日頃から鍛えている上半身はなんとか60kg弱の負荷に耐えている。
「……こら、自力で歩けっ」
「ん……」
 椅子から無理矢理引きずり下ろすと、なんとか自力で立った。ほっとして手を放すと、体の向きを変え、そのまま遙に抱きついてきた。一瞬前に気付いて構えてなければ、そのまま押し倒されていたかもしれない。
「おわっ!」
「はるかー……」
「な、何すんだよいきなり。重いっ!」
 遙はなんとか引っぺがそうとするが、和紀はしっかりと遙の背に腕を回して外れない。しばらく頑張っていたが、先に遙の方が諦めた。諦めて、その格好のままずるずると移動し始めた。とにかく寝かせてからである。
「はるかー」
「なんだ。吐きそうか?吐くなら先に言えよ、袋持ってくるから」
「んーん、そうじゃなくて」
 遙は肩に吐かれる恐怖感よりも、和紀の顔が自分の首筋に埋まっているのが気になって仕方がない。おかげでうっすらと顔が赤くなってるのが自分でもわかるし、声を出すと思わず早口になってしまう。それに気付いていないのか、和紀は普段よりものったりした口調で言った。
「はるか、いい匂い」
「……ばっ……てめ、何言ってんだよ!変態かお前はっ!」
 遙の顔が一気に真っ赤になった。思わず足が止まってしまう。首筋からは不満げな声が聞こえてくるが、その声と一緒に息が出てくるのがくすぐったい。寝間着代わりのTシャツではまるっきり防ぎようがないのだ。
「変態はないでしょー」
「ならそんなこと言うなっ!思ってても声に出すなっ!」
「うーん……確かにそうかも」
 ったく、と呻いてから遙はずるずると移動を再開した。まだ食卓から和紀の部屋の敷居までの半分までしか来ていない。それを認識して、ベッド代わりに和紀が使っているマットレスは部屋の奥の方に立ててあるのに気付いた。一刻も早く放り出したかったので、すぐに目的地を自分の部屋に変更した。
「でも、ほんといい匂い。なんつーか、女の子の匂い」
「……だーかーらー!もう言うなっての」
 遙の声が少しだけ、いらだちを含んだ。が、すぐにそれは収まった。和紀のピンク色になった首が見えたのだ。
「怒るなよう。遙は女の子じゃん」
「わかったから」
「こんなにかわいー子そうはいないよ、ってぐらいの女の子じゃん」
 そう言って、和紀の腕の力が少し強まった。元々ゼロに近い距離が更に縮まる。また遙の足が止まった。
「普段はかっこいいし、俺よりよっぽど強いし頭いいし、ちょっといじったらすっごいかわいいし」
「……そーかそーか」
 遙は無理矢理足を進めた。酔っぱらいの言葉をいちいち真に受けても仕方ない。そう自分に言い聞かせて、脱力して重たい和紀の体を引きずりながらなんとか敷居を越えた。
「もう、大好きだよ、はるか」
「……!!」
 もう後2歩で和紀をベッドに放り出せる、その位置で遙の足がまた止まった。というより、止まらされた。
「家族としてもすっごく好きだしー」
「……そっか」
 思わず吐息が漏れる。と同時に危うく力が抜けそうになった。
「女の子としても好きだしー」
 和紀の言い方はあくまでも何気ない。まるでカレーが好きだとでも言っているように。
「だからさ、一緒にここにいられて、俺すごい幸せだよ。飯作ってくれる時とか、俺の作った飯食べてくれる時とか、当たり前のことみたいに俺の部屋で寝っ転がって一緒に音楽聴いてる時とか」
 歌うように、和紀は言葉を継いでいく。遙にはそれがするすると耳に入ってきて、心に直接吸い込まれていくような気がする。と同時に、一言一言がとんでもなく恥ずかしい。
「なんか、同じ部屋で毎日顔合わせててさ、全然それが気になんないんだよ。でも嬉しいの。キスとかエッチとかしてないけど、なんか結婚したみたいな気がしてさ」
 このままだと抱き合ったままいつまで続くかわからない。遙は固まった体を叱咤して、なんとか足を再び動かした。ずり、ずり、ずり、と少しゆっくり動いて、なんとかベッドまで辿り着いた。
「ほら、着いたぞ。寝ろ」
 必死で心を落ち着かせて口を開くと、なんとかまともな声が出せた。体を軽く押してベッドに座らせ、足を持ち上げてやりながら寝転がす。抱きついたまま放そうとしないかとも思ったが、意外にあっさりと腕を解いて、遙に手伝われておとなしく横になった。そのまま部屋を出ようとする遙のTシャツの裾を、和紀が素早く掴んだ。
「……なんだよ」
 くいくいと引っぱるので、遙はまだ熱い顔を意識しながら枕元に戻った。上から軽くのぞき込むと、和紀はにっと笑った。
「ありがと」
「……どういたしまして」
 それだけ言うと満足したのか、和紀はTシャツを放してそのまま寝入ってしまった。普段の寝付きの悪さからは信じられないほど早く、目を閉じたそばから寝息が聞こえてくる。遙はそれを確認してから、そっと部屋を出、電気を消した。そのままさっき和紀が座っていた椅子にどかっと腰を下ろすと、そのまま食卓に突っ伏してしまった。

 翌朝。和紀の調子は最悪だった。
「う゛う゛〜……あったま痛ぇ……」
 元々寝起きが悪いのに加えて慣れない二日酔いで、朝から死にそうな体[てい]である。そして、遙の調子はいつも通り好調だった。
「ほら、お粥にしてやったからしっかり食え」
「うー……さんきゅ〜」
 元々今日の朝食は和紀が用意するはずだったのだが、遙の方が気を利かせて早起きしたのだ。元々寝起きはいいほうなので、一旦起きてしまえば少々早くても問題はない。何もかけずにお粥だけをすする和紀を少々あきれ顔で見ながら、遙の方は梅干しとシラス干しを乗せて食べている。
「味薄くないか?」
「んー、薄いぐらいでちょうどいい……」
「ほんっと朝から死にそうだな、お前」
 なんとか食事を終えると、午前中の授業がない和紀はもう一寝入りである。方や朝から授業の遙はそのまま大学に直行だ。
「なあ、遙。なんか俺、昨日のことあんまり覚えてないんだけど」
「そっか」
 さっさと食べ終えた遙に、ようやく半分ほど減らした和紀が言った。遙は気のない返事をして見せて、内心で安堵のため息を吐いた。と同時に、残念な気持ちも否定できないほどわき上がってくる。それを両方まとめて片付けると、鞄を手に取った。
「じゃ、行ってくるぞ」
「ん、いってらっしゃい」
 まだ食べ終えてないが、和紀は一旦レンゲを置いて席を立った。なんとなくまだゆらゆらしているのが気になるが、後は寝るだけのはずである。どうとでもなるだろうと思うことにした。玄関で靴をはいて立ち上がると、後ろから和紀の腕が巻き付いてきた。
「……なんだよ、そろそろ出ないと俺やばいんだけど」
「昨日のこと、あんまり覚えてないんだけどさ」
 さっきの言葉には続きがあったらしい。遙は軽く相づちをうった。こういう時はさっさと言わせるに限ることを遙は経験上知っている。止めてもしつこく言いたがるのだ。
 和紀はまるで昨日の再現をするように、遙の首筋に頬を寄せて言った。
「遙のこと好きなのは酔ってようが酔ってまいが本心だからね」
 遙はその朝、いつもの電車に乗れなかった。

posted by alohz at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | [短編]恋愛模様 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年07月01日

もしも

 残暑も和らいできた頃。俺の部屋で向かい合って俺と彼女はしゃべっていた。うちの両親が共働きで日中誰もいないから、彼女はよくうちに来る。いつも俺がベッドに、彼女は椅子に座って、いろんな事をしゃべったり勉強を教え合ったりする。今日もいつものように部屋で話をしていたのだが。
「……なによ、それっ!」
 唐突に怒り出した彼女の剣幕に、俺は反射的に身を固くした。彼女の位置は、俺の頬へビンタを食らわせるのに最適な場所だったからだ。が、彼女の利き手は拳を固く握りしめたまま、振り上げられることなくかすかに震えている。
「何怒ってるんだ、突然」
 俺はとりあえず体の緊張を解いてから言った。彼女の怒りは全くもって理不尽だった。少なくとも俺にとっては。ただ、何気なく話をしていただけだ。彼女と出会った時の話を。
「あなたがそんな事言うからよ!」
「そんな事?」
 俺にはやはりわからなかった。いつもは冷静にまっすぐに人を見る目が、今は燃え立つような視線を俺に向けてくる。
「あの時会ってなかったらどうなってたかな、ってのか?」
 烈しい視線をまっすぐこっちに向けたまま、黙って頷いた。やはりその怒りの理由はわからない。
 そもそも彼女と会ったきっかけは別段特別なものじゃなかった。高校の気に入りの場所に俺が座っていたら、たまたま彼女がやってきた。それで何度か会って話をしていくうちに、お互い好きになったから付き合いだした。
「……それって、要はあの時たまたま会ったからそのまま付き合ってるってことでしょ!」
「そうだろ?あの時お前があそこに来なかったら、こういう関係にはなってなかった」
 そう言った瞬間、右頬を思い切り殴られた。座ってたから吹っ飛ばされはしなかったものの、女にしては力のある彼女に手加減無しで拳を振り抜かれて、さすがに少しふらついた。すぐにじんと痛みがきて、無意識に右手が上がる。彼女はそんな俺をもうしばし睨みつけてから身を翻すと、部屋から駆け出していった。たんたんと階段を駆け下りていく音がして、ばたんと玄関の扉が閉められる。ベッドに座ったままそれらの音を全部聴いてから、俺は思わず呟いた。
「……なんなんだよ、一体」

 走り出した瞬間、追いかけようと一瞬腰を浮かしかけたのだが、すぐに思い直して腰を下ろした。初めて会った時には想像もつかなかったが、彼女は一旦怒るとしばらくは全く聞く耳も持たない質だし、第一追いかけても何も言うことがない。何故怒ってるのかやっぱりわからないからだ。
 俺はひとつため息をつくと、階下に降りた。ピアノが置いてある1階の客間の電気を付けて、もう15年以上鎮座ましましている我が家のアップライトのふたを開けた。音楽室のグランドほど響きは良くないが、それでもそれなりの音を出してくれる。少なくとも、プロではない俺にとっては十分なぐらいに。
 習慣にしているハノンを弾く気にもならず、ふたを開けてピアノの前に腰を下ろしたまま考え込んでしまった。何も考えないままとりあえず右手を鍵盤に乗せた。ぽーん、と H の音が客間に響く。何度も同じ鍵盤を押し続けると、同じHの音がぽーん、ぽーん、と響き続ける。それを聴きながら、曲が1つ、頭の中で形になった。
 弾き語りの曲を伴奏だけで弾き続ける。一時期このバンドが大好きで、楽譜を買ってきて猛練習したことがあった。そのおかげで、それなりに難しい曲だが一通り弾きこなせるようにはなった。
 時々喧嘩をする事はあっても、大体原因はわかりやすいものだった。いらついて八つ当たりした時とか、くだらない事でお互いに自分を曲げなかった時とか、会う約束をドタキャンした時とか。こんな風にひとつひとつが原因と共に思い出せる。こんなに原因の見えない喧嘩は初めてだ。なんとなくもやもやした気分を抱えたまま、Em6/B の和音で演奏を締める。
 また少し間を空けて、今度は C メジャーにテンションの混じったアルペジオ。高音部の音から段々中音域に広がっていく。これも弾き語りの楽譜を、口を閉じたまま弾いた。
 自分自身を偽るありふれた哀しさを快活な8ビートに乗せて歌うこの曲は、俺にはあまり関係がない。無理に着飾ったり言動を偽ったりしなくてもいい友達も、恋人もいる。思えば幸せなことだ。

 いつの間にか彼女が戻ってきていた。それを見て取って、今弾いている曲を短く終わらせてバラッドを弾き始めた。D マイナーのその曲を弾くと、背中に感じた温かで硬い感触を思い出す。彼女は何も言わずに突っ立ったまま、じっと耳を傾けている。
 最後のアルペジオの音が部屋から消えた。彼女はやはり動こうとせず、俺はピアノのふたを閉じた。
「もう終わり?」
 水晶のような声に、俺は頷いた。立って椅子も片付けると自室に戻った。彼女もすぐ後ろについて来ている。俺がいつものようにベッドに座ると、彼女はドアを静かに閉めてから、いつも座る椅子を素通りして俺の隣に座った。
「さっきの曲、初めて会った時に弾いてくれた曲だよね」
「ん。少しは落ち着くかなと思って」
 さっきの怒りをどこへ置いてきたのか、俺の肩に頭をもたせかけて無表情で訊いてきた。俺もなんとなく無表情に答えた。新興住宅地にあるうちは、外からの雑音がほとんどない。時計の秒針の音が聞こえるぐらい静かに、俺たちは座っていた。やがて、ぽつりと彼女が言った。
「あたしのどこが好きなの?」
少し考えてから答える。
「側にいると笑ったり怒ったり忙しいところとか」
「それだけ?」
「顔と言わず体と言わず、きれいなとことか」
「うん」
「いろんな音楽聴いていちいち感動するとことか」
「うん」
「俺がずっと黙ってても嫌な顔しないとことか」
「うん」
「意外と料理がうまいとことか」
「『意外と』は余計」
「眠かったら俺がいても寝ちゃうとことか」
「……うん」
「本が嫌いなとことか」
「うん」
「何か気にくわないことがあるとすぐに無表情になるとことか」
「うん」
「それが半日保たないとことか」
「うん」
「……他にもいろいろ」
 彼女はその答えに満足したのかしてないのか、俺の肩に頭を乗せたまま目を閉じた。そのまま、言った。
「もし私がそうじゃなかったら、どうだった?」
「どうって?」
「好きだったと思う?」
 何を求めているのか、いまいちよくわからないまま、即答した。
「それは既にお前じゃないだろ。俺は今ここにいるお前が好きなの」
 彼女が目を開いた。虚を衝かれたような顔で、俺の顔をじっと見ている。
「どうした?」
「……そう来るとは思わなかったわ」
 彼女の声は、いつものアルトに戻っている。頭は乗せたまま視線を前の方に戻して、言った。
「さっきね。せめて、もし別のところで会ってたとしても結局こうなったんだろうけど、ぐらい言ってほしかったの」
「そんなのは別の世界の話だからな。平行世界の事なんて俺は知らん」
 そう言って、彼女の肩を抱いた。相変わらず細いし、あまり女らしい柔らかみがない。彼女ははあ、とため息をつくと呟いた。
「平行世界って言われてもわかんないわよ」
「パラレルワールド、って言えばわかるか?あらゆる瞬間に存在する分岐点を境に区切られた別の可能性の世界、いわば『もしも』の世界だ。さっきお前がここに帰ってこなかったら、あの時お前がまっすぐ練習に行ってたら、俺がピアノを習い始めなかったら、どうなっていたか。それが平行世界だ。それは見ようと思っても推測するしかないし、したところで大した意味もない。現実にはなり得ない世界だからな」
「最後だけはよくわかったわ。確かに、『もしこうだったら』なんてこと想像したって意味ないわね」
 右肩の重みがなくなった。それと同時に、心の中にあった微妙なしこりも消えた。要は、彼女は自分が愛されてる自信がなかっただけだ。馬鹿馬鹿しい、とは言わない。とても言えない。
「同じ想像するなら、未来の事を思った方がいいんじゃないか?建設的で」
「……じゃあ結婚式は洋装か和装か、どっちがいい?」
 今度は俺が目を見開いて彼女を見る番だ。彼女はようやく、にまりと笑った。
「同じなら未来の事の方がいいんでしょ?それとももうちょっと身近に、子供は何人ほしい?」
「……どこをどう見たらもうちょっと身近なんだよ」
「身近じゃない。ねえ、どう?」
 自分の冗談が気に入ったのか俺の反応が気に入ったのか、いつになく絡んでくる。そのにやにや笑いが嬉しくもありうっとおしくもあったから、答えずに口を塞いでやった。

+with the sound of [Unfinished] by X Japan+
+and [Best Imitation of Myself] by Ben Folds Five+

 前編:「水族館

posted by alohz at 01:00| Comment(0) | TrackBack(0) | [短編]恋愛模様 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年06月18日

雨の誕生日

 月曜日の朝の到来を告げたのは、いつも通りの時間にじりじりと鳴り響く目覚まし時計だった。真衣の手が、目覚ましがあるであろう辺りをてしてしと叩きながら少しずつ移動する。2、30秒余計にベルを聞いて、ようやく薬指の外側に冷たい金属の感触を見つけ、少し震えながら鳴り続ける目覚ましを掴[つか]んだ。危うく落っことしそうになりながら、時計の裏側にあるスイッチを手探りだけで落とす。音が止んだ。
 役割を終えた目覚ましをまた元の場所に戻すと、布団がもぞもぞと動き、ピンク色のパジャマを着た女の子がむくりと起き上がった。肩の下辺りで切りそろえられた髪が派手にあちこち飛び跳ねていて、多少変な感じがするらしい。寝癖[ねぐせ]の一番派手な辺りを手で掻きながら、眠そうな目をしたままベッドから降りた。
 顔を洗って寝癖をざっと取ると、大分目が覚めてきたようだ。ベッドの脇に置いてあるコンポの電源を入れ、再生ボタンを押してから洋服ダンスに向かう。一呼吸置いてつい一昨日買ったばかりの CD が回り、真衣の背中に向けてテクノビートを送り出した。それを聞きながら、タンスの中からお気に入りの服を出して着替える。その頬はちょっとだけ綻[ほころ]んでいた。

(雨の月曜日かぁ……あー、今日数学2つもあるよー……。)
 しとしとと雨の降る通学路を、真衣は1人傘を差して歩いていた。少し大きめの赤い傘が、心持ち元気なさげに揺れている。真衣の通う高校まで自宅から歩いておよそ20分。普段なら自転車を使うので半分以下の時間で着くが、傘を差しながら自転車をこぐ気にはなれないので、仕方なしに歩いている。それでも一応普段から雨が降った時の時間に合わせて出ているので、いつも通りに出ても遅刻はしない。
 最近になって近代的な一軒家が増えてきた、それでもまだまだ日本的な住宅街を歩いていく。雨でも元気な近所のゴールデン・レトリバーが塀越しに真衣を見つけて追いかけてきた。自分のお気に入りの服が濡れていくのを感じて、またちょっと気分が落ち込んできた真衣だったが、わんっ、と元気よく吠えるレトリバーに気を取り直して手を振った。
 普段なら自転車で通っているせいでほとんど他の生徒とは会わないが、歩いてみると誰かにぶつかるものである。
「真衣ー、おはよー!」
「あ、佳子おはよー」
 普段から徒歩通学のこの友達は、高校に入ってからの親しい友人である。真衣は並んで歩き始めようとしたが、佳子はその前に、と言って鞄の中を探り始めた。傘を持ってあげた真衣にありがと、と言って、佳子が鞄の中から取り出したのは、小さな箱である。
「真衣、誕生日おめでとう!」
「あ、ありがとう。覚えててくれたんだ」
 当然、と胸を張る佳子にもう一度お礼を言って、真衣は手の中の箱に目を落とした。今すぐ開けてみたい気もするが、この雨の中だ。
「学校行ってから見ていい?ここだと濡れちゃう」
「うん、もちろんオッケー。じゃ、行こっか」
 紅白2色の傘が、高台にある高校に向かってゆるゆると動き始めた。

 2限の数学Uが迫ってきても、真衣の笑みは崩れなかった。鞄の中に大切にしまってある小さな箱には、可愛らしい粘土細工の人形が入っていたのだ。
「……なんだお前、気持ち悪いな」
 と、そんないい気分に水を差したのは、同じクラスの戒理[かいり]だ。吹奏楽部のホープを自称する、真衣の幼なじみである。もっとも、真衣はそれが全くのほらではない事を知っている。
「うるさいよ。人がいい気分に浸ってるのに……」
 真衣は数学が苦手で、テスト前には戒理や他の友達に助けてもらう事が多い。幸せ気分が抜けてしまうと、目の前の数学は真衣にはかなり意気消沈するものである。苦手意識はないらしい戒理の呑気[のんき]な顔がちょっと、いやかなり腹立たしい。
「戒理、次の時間の準備できてるの?小テストでしょ」
「……別にそこまで準備しなくてもできるだろ」
 余計に腹が立った。相手にするのを止めにして、とりあえずの現実に対処する事にした。教科書を開いて、公式をぶつぶつと唱え始める。戒理はしばらくその様子を見ていたが、真衣が完全に勉強モードに入ったのを見て、自分の席に戻っていった。

 放課後。6限の数学 B で精根尽き果てた真衣は、机に突っ伏したままぼーっとしていた。月曜日は部活もないし、雨はいつまでも未練がましく降り続いている。急いでもしょうがないのだ。
「真衣ー、私達先に部活行くねー」
 佳子達女子バレー部の3人から声がかかったので、真衣は顔を上げドアの方に手を振った。見回してみると、既にほとんどのクラスメイトは部活に自宅にと消えていて、まだ残っているのは輪になってしゃべっている男子生徒が数人と真衣だけだ。
(……ぼーっとしててもしょうがないし、帰ろっかな……。)
 弛緩[しかん]しきった体をうんせと持ち上げて、真衣は教室を後にした。
 校門を抜けたところで、後ろから誰かが近づいてきた。何気なく振り返ってみれば、戒理が走ってきている。真衣に追いつくと、ペースを緩めて息を整えた。どうやら昇降口辺りからずっと走ってきたらしい。
「……どしたの?」
「いや……はぁ、たまには一緒に帰ろうかと思ってな。今日は部活もないし」
 真衣はそれだけであっさり納得して、歩き出した。いつもではないが、時々こういう事があるのだ。特に月曜日は戒理の吹奏楽部と真衣の所属する美術部の休みが重なっているので、2人が帰ろうとなると大抵月曜日になるのだ。
 くだらない話をしながら、気付いたら「別れ道」まで来ていた。帰り道の道が分かれるところを2人はいつからかこう呼んでいた。
 じゃあね、と言いかけた真衣にかぶせるように、戒理が鞄の中に手を突っ込みながら言った。
「あーそうだ。お前今日誕生日だったろ。ほら、これ」
「……え?」
 戒理から渡されたのは、今朝もらったのと同じぐらいの大きさの、小さな箱。真衣はその箱と戒理の顔を交互に見た。
「……大宮からさ、プレゼントぐらいあげたらって言われちゃって」
「佳子が?」
 また手の中の箱を見た。ひょっとしたら2つセット……?
「じゃ、せっかく買ったんだから、落としたりするなよ」
「あ、うん」
 戒理はすっと背を向けると、じゃあ、と言って歩き始めた。
「あ、戒理!」
 それを見送りそうになって、思わず叫んだ。戒理が何事かと振り向いた。それに、真衣はにっこりと笑って言った。
「ありがとう」
「お、おう。じゃ、また明日な」
「うん、またね」

 家に帰ってきて、傘を置いてから鞄をチェックした。
(うん、中は平気。)
 今日は大切なプレゼントが2つも入っている重要な鞄だ。自分の部屋に戻ると、すぐにタオルで外を拭いて、中身を出した。教科書類はベッドの上に放り出し、2つの箱は机の上に並べて置いた。鞄は部屋の隅に広げて、真衣は机の前に座った。
(……戒理と、佳子が……。)
 そう思うと何故か出し抜かれたような気分になったが、とにかく、と戒理にもらった箱を開けてみた。包装紙を綺麗にはがして、白い紙箱を開けると、また箱があった。それを取り出して、ドキドキしながら開けてみた。
「……わぁ……」
 思わず声が漏れた。中に入っていたのは銀製のネックレスだったのだ。ペンダントは天使の羽根を広げたような形で、大きすぎず小さすぎない大きさだった。鎖を手にとって、首にかけてみた。鏡を持ってきて覗いてみる。
「……うん、いい感じ」
 どんな顔してこれ選んだんだろう。ふとそんな疑問が浮かんでくる。とにかく自分のおしゃれには全く無頓着[むとんちゃく]な男なのだ。さっき別れ際にお礼を言った時、戒理の顔が赤かったのは見逃さなかった。いくつも並んだアクセサリーを前に、少し頬を赤くしながら、腕組みをして唸[うな]っている姿がリアルに浮かんできて、真衣はベッドの上に転がってひとしきり笑った。

 翌日。昨日とはうって変わって気持ちいい青空が広がり、雨上がりのせいで蒸し暑くなった。自転車で真っ直ぐ学校に行った真衣の首には、戒理が贈ったネックレスがかかっていた。
「あ、おはよー真衣。どうしたのそれ?」
 ホームルームの5分前に現れた佳子が、顔を合わせるなり突っ込んだ。それを聞いた真衣の顔に浮かんだのは疑問符である。
「え?佳子が選んでくれたんじゃないの?」
「何で?私があげたの、トランペット吹いてる人形だったでしょ?」
「うん、いや、そうだったけど……」
 夜になって、佳子に入れ知恵されたのだという事を思い出し、選ぶのも手伝ったのだと思っていた真衣は、予想外の反応に少し歯切れが悪い。
 そんな真衣の様子をちょっと不思議そうにしながら、佳子は真衣の胸元に控えめに輝いているペンダントをじっくりと見て言った。
「これ、可愛いねー。真衣に似合ってるじゃない」
「あ、そう?ありがとう」
 やっぱり歯切れの悪い真衣。理由は特にないが、送り主を訊かれたくない。それを知ってか知らずにか、佳子は何の気なしに訊いた。
「で、誰にもらったの?」
「あ、うん、いや、その、えーと……」
「おーす」
 どう答えたものかと混乱している真衣の後ろから、戒理が現れた。
「あ、如月[きさらぎ]君。おはよー」
「おはよ。あ、真衣。早速付けてるな、それ。似合ってんじゃん」
 ぴっ、と真衣の動きが止まる。それに気付かずに、戒理は真衣の肩をぽんぽんと叩いて満足そうに自分の机に歩いていった。
「ふーん、如月君にもらったんだぁ、それ」
「……うん」
 自分でも不思議なぐらい、恥ずかしい。それでも、戒理に似合ってると言われた事が自分でも不思議なぐらい嬉しかった。
「……幸せそうな顔しちゃってまー」
 そんな真衣の横顔を見て、思わず呟く大宮佳子16歳、ただいま彼氏募集中であった。

posted by alohz at 02:30| Comment(0) | TrackBack(0) | [短編]恋愛模様 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年06月01日

水族館

 うららかな春の、薄い雲のかかった青空。学ランを着るには少し暑いなってきたこの時期に、涼しい春風が首や顔を撫でていくのが気持ちいい。重く息苦しいその学ランは隣に放り出してある。
「幸せか……」
 思わずそんなことを呟いてしまう。今の俺にとっては、浸っているこんな状況が幸せなのかもしれない。余計なことは考えずに、頭を空っぽにしていろんな刺激をただ受ける。光や、影や、音や、風。友達連中がはまっているゲームやスポーツやそんなものは、やると確かに面白いし俺も熱くなってしまうが、それに幸せを見いだしたりはしない。娯楽だ。そう思う。
 この校舎裏のわずかに草の生えたところは俺のお気に入りの場所である。水はけもよく午後には背中の建物でうまい具合に影ができるので、昼休みや午後のつまらん授業をサボる時、今みたいに放課後暇な時なんかには大抵ここにいる。背にする建物は校庭に面した倉庫群で、体育で使う用具やら何やらが詰まっている他、軽音の連中が部活をやるのにも使っている。音楽を聴くのは嫌いじゃないが、正直連中の下手なくせにやたらと音量ばっかりある演奏を聴かされるのは、ここの唯一と言っていい欠点だ。たまにコピー元なんだろう、プロの CD を持ってきて聴いている奴らがいるが、その方が楽しめていい。
 もう一つ、欠点があるとすれば……これか。
「あの……すみませんけど……」
「はいはい、わかってるよ。がんばってな」
「あ、は、はい……」
 昼休みにはそんなことはないが、放課後になるとたまにやってくるのである。今俺が適当に励ましてやったのも、見も知らぬ2年生の女だ。男を呼びだして、待っているのである。日陰になっている倉庫裏を立って、反対側の木立の中に入る。こっちはこっちで好きなのだが、時期によっては虫や枯葉が邪魔をして落ち着けないのだ。
 どうやら帰ることを期待していたらしい女はちょっと困った顔をしていたが、そこまで気にしてやる義理もない。男の方が気付かなければ問題はないだろう。
 今日の告白劇はほんの数分で女の方が振られる結果に終わった。後に残って突っ立っている女の後ろで、運動部の叫び声や軽音の下手くそなギターが鳴っているのが何とももの悲しい。が、これもよく見る光景だ。屋上に入れないこの学校では、愛の告白に使える場所はここしかない。
 やがて振られた方の女も肩を落としたまま帰っていき、俺はようやく自分の指定席に戻った。未だ空は高く、風はさっきより少し強くなった。読みかけの本でも読もうとかばんを漁り、ついでにペットボトルの烏龍茶を出して一口飲んだ。それをしまって本を開いた時、足音がした。
(またか……2回は珍しいな。)
 せっかくの楽しい時間を再び邪魔されて、俺は少々むっとしながら顔を上げた。見たことのない女が無表情でこちらを見ている。見覚えがないのが不思議なぐらいの美人だ。背も女にしてはかなり高い。下手すると俺と変わらないかも知れない。じろじろと観察していると、気にしているのかいないのか、歩み寄りながら話しかけてきた。
「こんなところで、何読んでるの?」
 言いながらすとんと俺の隣に腰掛けた。普通は隣いいか、ぐらい訊きそうなもんだが、全く遠慮無しだ。俺は黙って本を閉じて表紙を見せた。図書館で借りた、ピアノへの賛辞を込めた本だ。
「T.E.カーハート。聞いたことないわ」
「だろうな。作家じゃなくてフリージャーナリストらしいから」
 思ったより低めの声は、本自体に興味があるというより、ただ会話をしたかっただけみたいに見える。一応本は眺めているが、なんとなく義務的だ。
 膝を抱えて座っていても、やっぱり俺とほとんど背は変わらない。大きなリボンで長い髪を緩くまとめていて、短いスカートのすぐ下に太ももの半ばぐらいまである靴下をはいている。ニーソックス、というのか、こういうのを見たのは初めてだ。
「……どこ見てるの?」
「いや、珍しい物はいてるなと思って」
「そお?結構暖かくていいよ」
 声をかけられて視線を上げた。さすがに少々無遠慮すぎたか、と思ったが、彼女は別に怒るでもなくあっさりと答えた。もう本を読む気はなくなって、かばんにしまった。話をしてもいいし、これ以上会話がなければ帰ってもいい。
「あなた、ピアノ弾くの?」
「多少な」
「ふーん。やっぱクラシックばっかり?」
「ばっかり、でもない。ゲーミューも弾くし、坂本龍一とか菅野洋子とかも」
 もちろん最初に習っていた頃はクラシックばっかりだったが、だんだんつまらなくなってきてその辺のピアノソロ譜を買ってきて弾くうちにそういうのもやるようになったのだ。
「あ、じゃあウラ BTTB とか」
「Energy Flow。一応弾ける」
 やはりか、という気もするが、有名だし売れた曲だ。覚えていても不思議はないし、別に嫌なわけじゃない。
「私あの曲好きなの。今度、聴かせて」
「はいはい」
「あ、やる気なさそうな返事」
 当然だ。聴かれるのが恥ずかしいわけじゃないが、わざわざ弾いて聴かせてやるほどのものでもない。第一初対面の相手にそこまで愛想売ってもしょうがない。
 彼女は不意に左手の腕時計を見た。俺もそれをのぞき込んだ。4時前だ。
「もうそろそろだわ。ごめんね、私行くわ」
 別に謝る必要は全然ないのだが、彼女はちょっとだけ済まなさそうな顔を見せて立ち上がった。その時初めて、右手にピックを持っているのに気がついた。
「軽音か?」
「そう。これから練習なのよ。じゃあね」
 きびきびと言うと、ふわりと身を翻して倉庫の表側に消えた。その直前に、ちらっとこっちを振り返る。そして……。
「短いスカート履くとなぁ……」
 彼女が倉庫の向こうに消えた後には、柔らかな銀色の声の余韻と、白い影が残った。俺はその後少しばかりぼうっと座っていて、日が暮れる頃になって家路についた。目に焼き付いた影より、耳に残った声は鮮やかだった。

「こないだと違う本ね」
「そりゃあな。3日前だぞ?」
 聞き覚えのあるアルトに、俺は顔を上げた。3日前に見た美人だ。今日はかばんを持っている。
「また暇つぶしか」
「そんなとこ。あなたは?」
「似たようなもんだ」
 お互いにこりともせずに言って、彼女は隣に腰を下ろした。そういえば、3日前も別れ際にちょっと見せたぐらいでほとんど笑ってない。俺も同じだ。その割につんけんした感じを受けないのは、声の調子が柔らかいからだろうか。今隣に座ってても、クラスの女が隣に座ってるのと変わらない。「女性」に対する緊張をほのかに感じるだけだ。
「3日であの分厚い本読んじゃったの?」
「もう半分ぐらい読んでたしな。これも文庫本だし、今日中に読み終わるだろ」
 本をのぞこうと体を寄せてきたので、表紙を見せた。空気にわずかな甘みが混じって、ドキドキする。
「『レダ』……の2巻。ファンタジー?」
「一応 SF。近未来の世界、かな」
 ふーん、と言って体を戻した。すぅっと戻ってくる通常の空気に、安心と残念を一緒くたに感じる。
「いろいろ読むんだね。私本は全然」
「音楽ばっかりか」
 何気なしに言った言葉に、彼女はふっと笑みを浮かべた。
「そうだね。音楽ならいろいろ聴くけど」
「軽音だとロック中心なんじゃないのか?」
 そうでもないよ、といってすっと視線を前に向けた。
「ポップスも聴くし、オールディーズも少し聴くし、坂本龍一も聴くし。あとはガムランとか」
「……ガムランか」
 インドネシアの民族音楽、という知識はあるが、地理の授業でついでに習ったようなことだ。一度も聴いたことはない。
「いつもじゃないけどね。ごくたまに。やっぱりロックが一番多いよ」
 少し間があって、今度は俺から話を振った。本の続きはとっくに諦めた。
「こないだあれから倉庫で練習してたんだろ」
「……倉庫って言わないでくれる?一応あそこが校内で唯一の練習場所なんだから」
 あまり表情は変わらないが、少々気に入らなかったらしい。俺は適当に謝って続けた。
「帰りに音聞こえたけど、よくあんな音量でやってて耳イカレないな。外で聞くよりはるかにでかいんだろ?」
 彼女はすぐに頷いた。
「あれは慣れ。最初の頃は結構きつかったけど、最近は全然気にならないわ。やっぱり外に出た直後は音が聞こえづらかったりするけどね」
 それはつまり耳が悪くなってるんじゃないか?とも思うが、一応言わないでおいた。が、何となく言いたいことは伝わってしまったようで、ふと苦笑するような表情を浮かべた。
「本当はもっと静かにやってもいいんだけどね。みんなまだ下手だから」
「言うねぇ」
 ついにやっと笑うと、彼女も似たような笑みを浮かべた。
「あなたは?ピアノどれぐらい弾けるの?」
「……どれぐらい、って言われてもな」
 俺はちょっと考えた。自分でうまい、というのも何だし下手だ、というだけじゃ何の説明にもならない。
「『大地讃賞』の伴奏ぐらいならすぐに弾ける」
「それじゃ結構うまいんじゃない?」
 そう言って、自分の言葉に何かを思いついたように、一瞬すうっと表情が抜けた。こちらに視線を向けた時には、いつもの表情に戻っていた。
「ねぇ。ピアノ弾いてよ。聴かせてくれるでしょ?」
「今からか?」
「そ。まだ音楽室空いてたわ、確か」
 確かに、生徒に開放されている第二音楽室が閉まるまでにはあと2時間ぐらいある。俺は少しの間遠慮ではなく渋ったが、意外に強引な彼女に、結局引きずられるように音楽室に向かうことになった。

 第二音楽室は謀ったように無人だった。俺にとってもその方が都合がいい。さすがに鍵を閉めたりまではしないが、しっかりとドアを閉めてピアノの方に向かった。ここのピアノは年に1度調律してもらっているらしく、講堂のピアノよりずっと音がいい。あれは……もうホンキートンク・ピアノだ。
 鍵盤のふただけを開けてフェルトのカバーを上に放ると、彼女が横からピアノの上蓋を開けようとした。
「ちょ、ちょっと待て!」
「?」
 とりあえず下ろさせて、まず手前側を開けた。グランドは譜面台が収納されている部分だけが開くようになっていて、先にそこを開けてから全体を開けるようになっている。
「……わざわざ開ける必要ないだろ」
「せっかくだからいい音で聴かせてよ」
 近くの椅子を持ってきて、ちょうどピアノの横に腰を下ろした。ピアノを弾きながらちょっと右を向けば目が合う位置だ。じっとこっちを見ている視線がちょっと気になるが、無視するようにして指をならした。一通り指が動くことを確認して、曲を弾き始めた。さっきの話に出た「Energy Flow」だ。
 左手のアルペジオと右手の単音のメロディーが絡むというより淡々と並んで流れていく。シンプルな曲だ。その名前の通り、旋律がさらさらと流れるように弾いていく。
 弾き終えると、彼女は笑顔で拍手した。初めて見る、素直な笑顔だ。思った以上に麗しい笑顔に、思わず目を落としてしまう。
「やっぱり、うまいわ」
 そして拍手を終えるとすぐに次の曲を待つ。それをのぞき見て、俺は半ば仕方なしに弾き始めた。今度は「September Second」。左手のリフに右手の単音のメロディー、という点は変わらないが、雰囲気はまるで違う。むしろ本来スマートな曲をエネルギッシュに弾くところがこの曲の味だ。本来はベースやドラムが入る曲を、ピアノ一本で弾いていく。すました顔から、だんだんと熱情的な顔に変化していき、弾き終わった頃には俺自身少し汗が出ていた。
「すごい……って、あなた。汗かいてるわよ」
「……久しぶりに弾いたからかな。ちょっと燃えた」
 実際はちょっとどころじゃない。久しぶりに本気で弾いてしまった。1曲目の時にはたまに感じていた彼女の存在を、最初の1コーラスを弾き終える頃には完全に忘れていたぐらいだ。と、彼女が俺の側に歩いてきた。その手にはタオル。
「ほら、汗拭いてあげる」
「いいよ」
 そう言って袖でぬぐいかけたが、彼女の少し冷たい手がわざわざ俺の手を押さえて、何か言うより先に俺の額や首筋をさっさっとタオルでぬぐった。最後にタオルを裏返して口の周りを包まれた時には、さすがにちょっと苦しくて顔を背けたが。そしてタオルをかばんの上に放り投げると、俺のピアノの椅子にすとんと腰を下ろした。背もたれがないタイプだから2人並んで座っても大して狭くはないが、後ろは普通の椅子と変わらない。俺が少し腰を前にやると、遠慮なく座り直して、そのまま俺の背中に体を預けてきた。腰から背中と肩、後頭部までもたせかけてきた。
「おい」
「……ねぇ。バラード弾いて。ゆっくりのやつ」
 俺の文句は無視して、水晶のような声で言った。実際見た目ほど重くないし、ワイシャツとセーラー服を通して感じる背中はやせていて少し硬い。重ねて何か言おうかとも思ったが、思い直して鍵盤に指を置いた。透き通るような冷たい声と温かい背中を意識しながら弾き始めたのは、中高音の和音にメロディーが絡む、Dマイナーのバラッド。
「これ、聴いたことない」
「そうだろうな」
 彼女がしゃべると、まるで背中から声が伝わってくる感じがする。俺の言葉も、彼女の背中を通して伝わっていく。弾き終えて手を止めても、彼女の背中は身じろぎもしなかった。俺も体重を少し彼女の方にかけた。そのまま、しばらく沈黙が続く。
 しばらくして、俺は少し姿勢を戻すと、もう1曲弾き始めた。今度は弾き語り用の楽譜をそのまま弾いてみた。主旋律のない伴奏だけが部屋に満ちる。
「……今のは?」
「『Eddie Walker』。さっきのは『水族館』」
「今の、伴奏だけよね?」
 俺は頷いてから、後頭部をこつんと彼女の頭に当てた。そっか、と呟いたのが頭越しに聞こえてきた。
「すごくよかった。さっきのも、今のも」
 そのままもう一度沈黙の時間があって、彼女がすっと立ち上がった。それではっと我に返って時計を見ると、だいたい1時間ぐらい経っている。タオルをかばんに入れる彼女の姿を見て、俺もピアノを片付けた。そのまま、2人並んで外に出た。事務室で鍵を返して昇降口を過ぎても、彼女は俺の隣を歩いている。
「練習はいいのか?」
「もうないの。お茶でもしよう?」
 やっぱりいつもの表情のままで彼女はそう告げると、俺が着いてくるのがわかっているように、ゆっくりと先に立って歩き出した。俺は黙って彼女に追いついた。

 続編:「もしも

posted by alohz at 01:00| Comment(0) | TrackBack(0) | [短編]恋愛模様 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2003年09月19日

2分4秒

 休日は家でぼーっとする。ちょっと前までは何だかんだと忙しかったのが嘘みたいだ。映研も休みの日は何もないし、新歓シーズンも過ぎて飲み会もなくなった。先週は映研の名の下にレンタルビデオ屋に行ったりもしたが、今日はそれをする気も起きない。先週観たのがあまりはまらなかったのもあるが、それ以上に、気力が足りない。有り体に言って、やる気が起きないのだ。
 今日も本当は風呂掃除でもやろうかという時期なのに、食器を洗って軽く部屋のほこりを取ったら飽きてしまった。座布団を枕に寝っ転がって、呟く。
「……やっぱ暇だよ、ニコル……」

 去年のクリスマスに衝撃的な出会いを経験して以来、俺とニコルは頻繁に会うようになった。本人の言葉を信じるなら既に2回世紀末を経験している彼女は、何故か日本ではレストランをやっていた。上質な料理と内装のセンスの良さで、なかなか評判は悪くないようだったが、つい先月、唐突に店を閉めた。ヨーロッパに戻る、というのだ。
「ま、戻るって言ってもちょっと用事があって行くだけだからさ。半年もすれば戻ってくるよ」
 ニコルは笑ってそう言った。さすがの魔女も日本から西欧まで飛ぶのは辛いらしく、ちゃんと飛行機の切符を買っていた。パスポートも持っていたが、本人曰く、完璧に作られた偽造品らしい。……そりゃま、戦後すぐに日本に密入国した奴が本物を持てるはずもないし、考えられる事ではあったけど……。
 そんなわけで飛行場まで見送りに行った俺は、別れ際に突然、初めてのキスをされて、呆然と後ろ姿を見送った。周りの視線が痛かった。が、それ以上に、今のこの何ともいえない寂しさが痛い。痛い、というほどはっきりと感じる訳じゃない。ただ、何をやっていても何となく手持ちぶさただ。
「あー、暇」
 実は2本ほど溜まっているレポートは、俺の暇を潰す言い訳にはならなかった。

 ニコルがいまいと、レポートが終わるまいと、腹が減るのは生き物の性だ。結局午後一杯ぐったりと寝ころんだまま過ごしてしまい、自分の腹の虫に催促されてようやく起きた。フライパンを振りながら、英語で暇つぶしを kill time とはよくいったものだ、なんて下らない事を考えた。まさに、有意義な時間を殺したようなもんだ。
 面倒な時の食事はどうしても肉野菜炒めになってしまうので、炊飯器がいつも通り働いてくれさえすれば、俺の定番メニューが完成する。元々面倒な時がわりと多いから、この献立は定番を通り過ぎるぐらいよく作る。俺の得意料理、というとどうしてもこれかチャーハンになるから、何か集まりがある時も作る。おかげで一人暮らしを初めて1年強、飽きさえ感じないほど食べているメニューだ。
 1度だけ、ニコルとシャルロットに食べさせた事があった。レストランの、それも上等な部類に入る厨房を切り盛りしている2人に俺の料理を食わせるのは正直かなり嫌だったのだが、2人は喜んで食べてくれた。特にニコルは、俺の見る限り本気で美味そうに食っていた。
 それを思い出しながら、ぼんやりしててもちゃんといい加減に火の通ったキャベツの芯をかじった。
「……電話とかできりゃー、まだしもな……」
 うちにはテレビがない。昼間っから付けっぱなしのラジオが、いつものように政治家の汚職を伝えていた。

 数日後。大学で事件が発生した。いや、事件と思ったのは俺の周囲の人々なんだけど。
 同じクラスの女の子が、唐突に俺に想いのたけを告白してきたのだ。それも、キャンパスの間の道ばたで突然に、だ。
 当然、断った。
 今の俺には、飛行場で唐突にされたキスがあまりにも鮮烈に記憶に残っていた。さすがにそこまでは言わずに、好きな人がいるから、とだけ言った。
「そっか……。うん、わかった。ごめん、忘れて!」
 そう言って無理に笑うと、あさっての方向に走り去っていく。その後ろ姿を、俺は困ったな、という顔で見送った。
 忘れろと言ってくれるのは正直嬉しい。俺は元々学内にそんなに知り合いが多くないので、その子は貴重な女友達だったのだ。
 しかもそこが本当に道ばただったのと、次がちょうどクラスのメンツの集まる授業だったのとで、目撃者が多発。次の授業が終わる頃には、クラス全員がこのことを知っているような状態だった。彼女はさすがに平静でなかったのか、授業には出て来なかったのでそれを知らない。
 もしこの状況をいきなり知ったら、彼女は俺に普段通り接してくれるだろうか。
 先に言っておいたものか、ほっとくべきか悩んだ。考え込み過ぎて、映研の部室に行く時に間違えて隣の聖書研に入ってしまった。さんざん考え抜いたあげく、結局メールで事実だけを送る事にした。
 恥のかき損のような気もする。

 で、その日の晩飯時。話の弾みで全員でファミレスに溜まる事になり、うだうだと夜遅くまでしゃべっていたら、携帯が鳴った。彼女からの着信だった。
 同じクラスの奴は1人もいないはずなのに、場がざわつく……何で知ってるんだおまえら。
 聞かれるのがなんか嫌で、席を離れた。
「はい」
「……昼間は、ごめんね。急にあんな事言って」
「ん。いや、俺も……応えられなくてごめんな」
「ううん。小林君が悪い訳じゃないよ。……あたしのタイミングが悪かったのかもね」
「……」
「それと、メールありがと。……やっぱ見られてた?」
「らしいな。誰が吹いたんだか、クラスの連中はほとんど知ってたみたいだったよ」
「うーん……まいったね、こりゃ。ふふ」
「まいったな」
「ま、いっか。……ね、小林君?」
「ん?」
「明日、会ったら……またいつもみたいにしゃべってくれる?」
「ああ、もちろんだよ。むしろ俺の方がそう願いたいぐらいだよ」
「よかった……じゃ、また明日ね」
「おう。じゃな」
 席に戻ると、余計なお世話どもがわっと集まってきた。なんやかやとうるさく訊いてきたが、何事もなかったとだけ言って、後は放っといた。実際、何事もなかった事になったわけだし。彼女に気があったのかやたらと悔しがる奴に野次馬の注目を譲って、俺はぼーっと窓の外の暗い空を見た。

 帰宅は深夜になった。バイトでもサークルでも遅くなるから、これはいつもの事だ。鍵を突っ込んで、ふと思い出した。
 初めてニコルに会った、その前の晩。バイトから帰ってきた俺を出迎えてくれたのはスープのいい匂いだった。
 ニコルの伝言を持ってきた白ネズミのシャルロットが作ってくれたスープで、めちゃくちゃにうまかった。
 あの時、俺は鍵をかけ忘れてた。
 今日はちゃんとがちりと音がして鍵が開き、きぃ、とドアがきしんだ。中には人影も、不審な匂いもない。ぼすんと鞄をその辺に放り出して、携帯をクレードルに立てた。と、それを待ちかねていたかのように、携帯がぶるぶると震えた。相手は公衆電話、となっている。こんな時間に、誰だろうと不審に思いながら、一応取った。
「はい」
「あ、アキラ?あたしー」
「……ニコル、ニコルか!?」
「そうだよ。元気ー?ちゃんと食事してる?」
「おう。元気元気!食事……は最近またまかない生活100」
「やっぱり。朝ちゃんと食べないとダメだよ?アキラすぐ一食ぐらい抜いちゃうんだから」
「朝は食べてるって。大丈夫。それより、お前そっちで今何やってるんだ?」
「ふふふ。今ねー、シャルと2人でパリで買い物してたのー」
「うわブルジョワっ。何しに行ってるんだよお前」
「えへ。でも毎晩会議会議なんだよ?ちょっと面倒な事があったからさ」
「面倒?なんかあったのか?」
「あ、一般人には言っちゃいけないんだ。魔女の世界の話だから」
「……聞かないでおく。命に関わりそうだな」
「そだね、冗談抜きで危ないし」
「マジ?」
「うん。魔女に関わると危険なのよ?」
「……いいけどな。ニコルといられるんだったら」
「……嬉しい」
「……おうよ」
「ごめんね、今日はこれで切るわ。また電話するから」
「わかった。待ってるからな」
「うん。じゃ、ちゃんと食事してね」
「はいはい。何があるか知らないけど、無事に帰って来いよ?」
「大丈夫。絶対帰るから。じゃあね」
 ふつりと、パリの(らしい)雑踏の音が途切れた。耳から離した携帯を、じっと見つめた。
 ……俺、馬鹿かも。
 今の会話、正確に2分と4秒。そのたった2分4秒で、こんなに幸せな気分になっちゃうんだもんな。
 ゆっくりとクレードルに携帯を戻して、タンスを開いた。シャワーを浴びて寝よう。そう思ってユニットバスのドアを開けた時にようやく、今パリは昼間だって事を思い出した。

 前編:「Blue Light Dinner

posted by alohz at 01:00| Comment(0) | TrackBack(0) | [短編]恋愛模様 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2003年07月20日

絵葉書

 久しぶりの休日。顔を洗ってリビングに行くと、私宛だ、と母から絵葉書を手渡された。表の絵柄で差出人は察しがついた。だから裏は見ずに食卓の隅に置いて、朝食の食パンをトースターに入れた。母は、見ないの?と、どこか嬉しそうな、それでいてからかうような顔で訊いてくるが、ここで読むつもりはない。聞こえなかったふりをして、トースターの横の窓から空を見上げた。
 今日は少し雲が多いかな。

 部屋に戻ってからようやく裏返した。やはり、だ。1年の期限付きで留学してしまった、前の恋人。半年近く付き合っていたけど、ちゃんと彼の字を読むのは初めてかもしれない。きれいでも汚くもない字が、私におずおずと語りかけてくる。
 内容は、ありがちなことだった。どうやら遠く太平洋の向こうで、なんとか元気にしているらしい。結構なことだ。しばらくは語学学校に通いながらゆっくり過ごすらしい。
 私が忙しいのをねぎらうような言葉があったが、気にしないようにした。悪気が全くないのはわかっている。彼はそういう人なのだ。
 二度読んで、手紙入れに入れた。ラフなタッチで描かれた表の絵はただ飾るにも悪くないが、彼からの手紙を見えるところに飾る気にはならなかった。

 ここのところ出歩く日が続いたせいか、休みの日にまでわざわざ外に出る気にならず、昼過ぎまで部屋で音楽を掛けてぼうっとしていた。思わずうつらうつらし始めた頃、突然携帯が鳴った。思わずびくんと身をすくませて、そっちの方を見た。はっとして慌てて表示を確かめ、すぐに出た。最近になって聞き慣れてしまった人の声が耳に飛び込んでくる。
 ほんの二言三言で話は終わり、私はすぐに身支度を調えた。夏場はてきぱきやれば20分とかからない。携帯と財布がかばんの中に入っているのを確認して、急いで家を出る。

 外は今日もきれいに晴れている。昼食の準備をしていた母が、何か文句を言いながら玄関先まで出てきた。

posted by alohz at 02:00| Comment(0) | TrackBack(0) | [短編]恋愛模様 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2003年05月09日

日曜日

 靴箱を開けると、中に小さな箱が1つ入っていた。
「……?」
「あ、岡本やるじゃん」
 坂井が横からのぞき込んで言った。出してみると、きれいにラッピングされた、僕の手の平に少し余るぐらいの箱。表にも裏にも、何も書いてない。
「やっぱ、そういう事かな」
「そうに決まってるだろ。何せ今日はセント・バレンタインデーなんだからな」
 その箱は潰れないように鞄の中にしまって、上履きに履き替えた。例年なら、大嫌いな冬の寒さも忘れて喜んでいたと思う。でも、今年は両手をあげて喜べなくなってしまった。
「あ、岡本君……おはよう」
「おはよう、小松」
 階段の側でしゃべっていて、僕に気づいて振り向いた彼女、小松つぐながいるからだ。

 そして昼休み。僕は小松と連れだって教室を出て、いつも通り、屋上に並んで腰を下ろした。
「あ、岡本君……」
「ん?何?」
 膝の上に弁当を広げながら小松に視線を向けると、小松は鞄の中から手のひらにちょうど収まるぐらいの箱を取り出した。
「これ、昨日……作ってみたんだ。美味しくないかもしれないけど……」
 そう言って僕にチョコレートを差し出す彼女は、手の甲までうっすらと桜色に染まっている。こういう時は、やっぱりお互い何となく恥ずかしい。僕も、頬が熱くなってくるのを感じながら、それを受け取った。
「ありがとう。……ね、開けてみていい?」
「え?……いいけど、食事の前に食べるの?」
 言われて、一回手を止めた。確かに、チョコレートを食べた後に昨日の残りのハンバーグを食べるのは……。
「時間もあるし、食後でいいんじゃない?」
「うーん……いや、見るだけ見せて」
 食べたいというよりは見たいという思いに駆られて、僕は包装を解きにかかった。つい癖で丁寧に開封してたら、少し時間が経ってしまった。
「ふふふ。岡本君、そういうところ几帳面だよね」
「だって、びりびり破くのヤじゃない?」
 ようやく包装紙を全部きれいにはがし終えて、そっと箱のふたを開けた。大きなハートが置いてあるのかと思いきや、1口で食べられるぐらいの小さなチョコレートが、紙のシートの上に3つちょこんと並んでいた。
「おっきい方がいいかな、とも思ったんだけど……前に、歯につくから板チョコ食べないって言ってたの思い出して……」
 さすが半年からの付き合い。気配りの人小松は僕の好みをいちいちよく覚えている。こういう気遣いがすごく嬉しい。僕は思わず、1つつまんでひょいと口に入れた。
「……美味しい。すっごく美味しいよ、これ」
「そ、そう……?よかった」
 いきなり僕が手を伸ばしたのでちょっとびっくりした顔をしたけど、僕が満足げな顔をしてるのを見て、ほわっと表情が緩んだ。僕はつと、膝に載っている弁当箱を床に置いた。
「!」
 小松は最近、2人でいる事にはあまり恥ずかしがらなくなったけど、人前では手もなかなか繋ごうとしない。まして……ね。
「……」
「甘かった?」
 真っ赤になって凍っている小松の耳元でそっとささやくと、小松は数秒間をおいて、ゆっくりとうなずいた。

 5分ほどでようやく動き出した小松にペースを合わせてゆっくりと弁当を食べた。それでもやっぱり僕の方が早いので、小松が弁当箱をしまう頃には、僕はチョコレートの箱まできれいに片づいていた。
「あ、箱はいいよ。適当に捨てて」
「うーん……それもなんかもったいないな。せっかくもらったんだし……」
 いつもの貧乏性というよりは、小松から初めてもらった贈り物の箱を、あっさりとゴミ箱に入れる気にはならなかった。僕のその様子を見て、小松は諭すように言った。
「これからも毎年渡すんだから……ね」
「……そだね」
 こういう心臓を直撃するような台詞を、彼女は時たまさらっと言ってのけてくれる。そうなると、もう僕は動悸を隠して頷くしかない。
「……ねぇ、岡本君?」
「何?」
 小松はふと、さっきまでの幸せそうな笑みを収めた。
「他に、誰かくれた人……いる?」
「……うん。1個、下駄箱に入ってた」
 一瞬しらを切ろうかと思ったが、それより先に口が本当の事をしゃべっていた。質問の意図がよくわからない。
「そっか……」
 次が読めずに混乱している僕にくれた彼女の言葉は、それだけだった。どういう事か、と訊こうとした僕の機先を制して、小松はすぐに次の話題を振ってきた。

「そらやっぱり気になるからやろ」
 放課後。部室で幼なじみの歩に昼間の話をしてみたところ、あっさりとこんな返事が返ってきた。
「いや、それだけ?」
「それだけ、言われても……私つぐなちゃんと違うから何を思てたんかまでは知らんわ」
 全くもって正論だ。僕は新歓用の無料誌のイラストの構図をさらさらとノートに書き付けながら、重ねて訊いた。
「じゃお前、坂井がチョコもらったかどうか気になるか?」
「そら気になるわ。お昼に会うたから訊いたで」
「ちなみに何だって?」
「下駄箱に2つ、机ん中に4つ入ってたって。午前中だけでそれやからな……」
 さすがだ。坂井は男の僕が見ても「可愛い」と言いたくなるような顔をしている。そのせいか、毎年この時期はお菓子を買う必要がない。これは歩にも言ってないけど、たまに混じっている差出人不明のものは僕ももらったりしている。
「今日なんか用事あるんだっけ」
「てゆーてたで。ま、今頃行きの倍ぐらいの荷物持って大変なんと違う?」
 気になる、と言うわりにはあっさりと言ってからからと笑った。ま、1年以上もおしどり夫婦やっていれば、気にはなってもそこまでやきもきするような事じゃないのかもしれない。
「で、裕がもろたの誰から?」
「知らない。まだ鞄の中に入れっぱなし」
「見せて、見せて」
 無遠慮に僕の鞄に手を伸ばしたのをぺちんと叩いて、鞄をいすの後ろに置き直した。
「なんや、ええやん。別に本命なわけでなし」
「いや、そらそうだけどさ」
 僕より先に歩が見るというのも納得いかないし、手紙が入ってたりしたらそれこそ読まれたくない。不満そうな歩をポスター原稿の仕事に戻して、僕も自分の仕事に入った。

 うっかりイラストに熱中してしまい、下校時間ぎりぎりまで机に向かっていたら、家に帰る頃にはもう9時を回っていた。母親に文句を言われながら手早く食事を終えると、部屋に入ってようやく例の白い小箱を手に取った。
 もう1回確認してみた。やはり文字は何もない。赤字の華やかな包み紙を、いつものようにきれいにはがして箱を開けた。中には手紙と、箱の大きさに見合った小振りの、それでも小松のチョコより一回り大きなハート形のチョコレートが1つ、入っていた。とりあえず手紙を開くと、小さな便せんの下の方に、部活の後輩の名前があった。
『岡本先輩へ
入部以来何かと助けてくれて、ありがとうございます。
お礼の気持ちを込めて作ってみました。
ところで、今週の日曜日はお暇ですか?
もし空いていたら、10時に桜塚駅前の噴水のところに来て下さい。
待っています。
江原真由子』
 思わず3回読んでしまった。まさか江原だとは思わなかった。確かに入部してからしばらくは、描く方はさっぱりだった江原にいろいろと教えたりはしたが、僕は完全にお互い親しい先輩後輩でしかないと思っていた。そしてタイミングのいい事に、今週の日曜日は暇なのだ。
 僕はとりあえずベッドに座ってチョコを食べながら、行ったものか断ったものかと迷った。

 結局、僕は待ち合わせの時間のきっかり10分前に噴水の側に座っていた。小松に何か言ってからの方がいいとは思っていたが、つい言いそびれてしまった。
「あ、せんぱーい」
 未だに割り切れずにうだうだループしていた僕の思考を、元気な声が断ち切った。声のする方を見れば、江原が駅からダッシュしてくるところだった。見ていて気持ちいいほどの快速で僕の前まで来ると、目の前で急停止した。
「おはようございますっ!」
「おはよ。……なんつーか、元気だね君」
 あれだけのスピードでダッシュをかけて、息一つ切らしていない。小松はもちろん、僕にも無理な芸当だ。この寒いのに、上はジャケットを着ているが下はキュロットだ。似合ってはいるけど、寒そう……。
「そりゃ元気が売りですから。さ、行きましょ」
 寒さに気づいてすらいない様子でそう言って、江原は僕の腕を取ると引っ張って歩き始めた。
「わ、ちょ、ちょと待て。その……歩きづらい」
「気にしない気にしない」
「するって」
 正確には、引っ張られてる事以上に、その、二の腕から肘の辺りに感じる柔らかみが気になってしょうがない。ぐっと引っ張ってみたが、抜けない。僕より頭1つ低い小柄な体なのに、意外と力がある。
「まぁまぁ。せっかくですから今日一日はしっかり付き合って下さいよ」
「で、どこに行くつもり?」
 訊いてから、すぐに愚問だったと気づいた。江原のお目当ては、桜塚のショッピングセンターの映画館で上映中の、大人気ファンタジーだ。1ヶ月以上前からチラシ片手に騒いでたのを思い出した。
「もちろん、映画館です」
 ほらやっぱり。ちなみに、映画館の受付で財布を出すまで、腕は解放してもらえなかった。

 その日は本当に、丸一日あちこちに連れ回された。映画を見終わって喫茶店で少し休憩しながら映画の話でひとしきり盛り上がると、すぐに買い物に連れて行かれた。ショッピングセンター中を延々服を見たり、鞄を見たりしてぐるぐる回り、結局夕飯まで一緒に食べた。そして、桜塚から2つ先の、彼女の家の最寄り駅。
「あー、今日は面白かった。先輩、ありがとうございました」
「どういたしまして」
 実際、かなり疲れはしたが僕も楽しかった。と、これまではずっと、僕の顔をまっすぐに見ていた彼女がふと下を向いた。僕も何を言ったらいいのかわからず、少しの間、2人とも黙ったまま立っていた。相変わらず騒がしいはずなのに、少しざわめきが遠のいていった。
「先輩……」
「……ん?」
 呟くように呼びかけて、彼女はようやく顔を上げた。さっきまでの嬉しそうな顔とは全く違う、覚悟を決めたという表情だ。どこかで見た事のある表情。
「私、先輩の事好きです」
「……そっか」
 僕はそれだけ言って、次の言葉を考えた。普段なら畳みかけるように言葉を継いでくる江原が、何も言わずに僕の言葉を待っている。
「僕は……江原の事はいい後輩だと思ってる。知ってるかもしれないけど、付き合ってる人がいるし、その人の事が一番好きだから」
「……はい」
 そのまま、また少し間があった。よく考えたら、こんなにはっきりと小松の事を口にしたのは初めてかもしれない。僕と彼女の間ではともかく、他の人の前では滅多にこういう事は言ってない。歩や坂井はよく側にいるから、わざわざ口にしなくても大体の事は知ってる。
「わかりました。ちゃんと答えてくれて……ありがとうございます」
 そう言って、無理に笑顔を作ると、彼女はぺこりと頭を下げた。そして、お休みなさい、とだけ言って、ぱっと駆け出した。素早く改札を抜けるとあっと思う間もなく、人混みに紛れて見えなくなってしまった。僕はなんとなくやりきれないような、少しほっとしたような気持ちで振り返った。
 背後に、小松がいた。
「ぅわっ!……び、びっくりした……」
「岡本君……今の人は?」
 普段は僕よりよく驚く彼女が、ひどく冷静だった。僕と江原がしゃべってるのに気づいて、見ていたのだ。
「あぁ、あの子は慢研の後輩。今日一日引っ張り回されてたんだ」
「そう……」
 今度は小松と2人で、黙ったまま立っていた。僕には彼女が怒っているのか悲しんでいるのか、よくわからない。ただ、決して喜んではいない。
「小松?」
 呼ぶと、ゆっくり顔を上げた。悲しそうな顔をしていた。声をかけるまで迷っていたが、その顔を見て心が決まった。側にあった柱にもたれかかって、小松をぐっと抱き寄せた。腕の中で、驚いた彼女が小さな悲鳴をあげた。耳元に顔を寄せて、囁くように言った。
「告白、されたんだ。けど、断った。僕は小松の事が好きだから、って。……好きだよ」
 聞いているだけで恥ずかしくなるような台詞をこんなところで言えたのは、小松の悲しそうな顔をもう見たくない、その気持ちだけだった。言って、彼女がどんなに小さな声で呟いても聞き逃さないように、耳をそばだてる。背中に小松の腕がおずおずと回った時、僕の耳は彼女のかすかな嗚咽を捉えた。
「……泣いてるの?」
「ん……ぐす、……怖かった……」
 ようやくそれだけ言って、小松は静かに泣いた。僕はその涙をこぼすまいとするみたいに、腕に力を込めた。
「ごめん……」
 慰める言葉も見つからず、結局僕に言えたのはそれだけだった。でも、小松は泣きながら、しっかりと首を横に振った。そして、少し腕に力を込めて、もうしばらく泣いた。

 満月に近い中途半端な形の月が、夜の道をほのかに照らしていた。その月明かりの中を、僕とつぐなは手を繋いで、ゆっくりと歩いていた。
「ひ、裕……?」
「うん?何?」
「……やっぱり、なんか恥ずかしい」
 そう言って、つぐなは頬を染めた。いつも通りのほのかな笑みを浮かべて。

 前編:「桜色

posted by alohz at 01:00| Comment(0) | TrackBack(0) | [短編]恋愛模様 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2003年04月29日

桜色

 掃除が終わったり終わらなかったりで校内がなんとなくざわついてる。うちのクラスはもう終わってみんな帰り支度を始めているだろう。ごみ箱を抱えている僕を除いて。…ごみ捨てジャンケンに負けるのは今年これで3回目だ。大体月に1回掃除が回ってきて、今は6月末。今年に入ってからはごみ捨てをせずに帰った事がない、って事だ。…なんでだろうなぁ?
 うちの学校のごみは相変わらず焼却炉に溜める。ただし、ダイオキシンの問題があってもう校内では燃やせなくなったから、あとで焼却炉から出してごみ処理場に持っていく。そのため、僕らは結局これまでと変わらず、学校の隅っこにある焼却炉にごみを持っていく。
 全クラスで一斉に掃除をしているから、ごみ箱を持った何人もとすれ違った。僕の後ろにはほとんど人がいないから、うちのクラスは遅れている方なんだろう。ま、いつもの事だ。ごみ箱をひっくり返して、ばさばさとごみを落として、隅っこに引っかかってる小さなごみをかき出して、後ろを1回振り返って次が来てないのを確認してから蓋を閉める。で、教室に帰る。これがいつもの僕のパターンだ。
「?」
 いつものように焼却炉の口に向けてごみ箱を引っくり返した時に、ちらっと綺麗な淡い桜色の花が見えた。すぐにその上から紙屑だのパンの袋だのが降ってきてすぐにそれは消えてしまったけど、何となく気になった。だから一旦ごみ箱の中身を空けるのを中止して、ごみ溜めである焼却炉に手を突っ込んで引っかき回した。砂が少し手についたが、大した手間も取らずにさっきの桜花を探し当てられた。……ごみ箱漁り慣れてるってわけじゃないので、そこんとこは誤解のないように。
 手の中に収まったそれは、無残にも2つに破られた封筒だった。焼却炉の中でぱたぱたと砂をはたいて、表に返す。そこには綺麗な字で、ぎりぎり宛名が書かれていた。僕の名前だった。裏返すと、そこには何も書かれていない。大抵裏に書かれる差出人の名前は、斜めに破かれた片割れの方にあるようだった。僕はすぐに再び焼却炉の中に手を突っ込んだ。何となくべたついた感触があって少し顔をしかめたが、わりとすぐにもう片方の封筒も見つかった。それを手の中で1つに合わせてみた。表には宛名だけがあった。そして裏側には、右下に小さく、差出人。
「小松つぐな」
 知らない名前ではなかった。同じ教室で3ヶ月授業を受けている、クラスメートだ。封筒の口は糊づけされ、その上から目立たないハートのシールで封がされている。完全に破り取られてはいるが、中身はこぼれ落ちていないようだ。
 僕はそこまで確かめたところで、自分が今何をしていたのかをはっと思い出した。手元にはごみ箱。目の前には焼却炉。僕はそれらをブレザーの右のポケットにそっと入れて、ごみ箱を持った。のっぺりした水色のごみ箱は数年間の埃とごみの残りかすでくすんで見える。封筒がはっきり見えたのは、くすんだ青から流れ落ちる灰色のごみの中で、唯一きちんと桜色だったからかもしれない。
 教室に帰ると、案の定生徒の大半は帰るか部活に行くかして既にいなかった。鞄が3つほど固めて置いてあるのはトイレにでも行っているのか、日誌を担任に持って行くのに鞄を持っていくのが面倒で置いて行ったのか。僕はごみ箱をいつもの教室の隅にごんと置いて、自分の席に戻った。別にもうどこに座ってもいいのだが、自分の席の方が安心して読める。それに、帰り支度もしたい。
 ノートと筆箱をいつも通りの配置で鞄の中に収めてファスナーを閉めると、ポケットから手紙を出した。何かする前にもう一度、自分宛である事を確かめた。間違いない。うちの学校には恐らく同姓同名の人物はいないだろう、と思う。少なくとも僕の知る限り、同じ学年にはいない。ただ、既に開封されているとは言え、中を読むのはちょっとためらった。1つには、これはどういう経緯かは知らないが破られごみ箱に突っ込まれた物である事。もう1つには、差出人がこういうイメージから遠い人間である事だ。
 ごみ箱に突っ込んだからには、失敗したとか出すのは止めたとか何らかの理由があって、これをごみとして扱った事になる。人様の捨てたごみを勝手にあさるのはちょっとまずい。手紙みたいなプライベートな物となれば尚更だ。それに、この差出人の小松は、おっとりとしていてごくごくおとなしい、こう言うと悪いが昼間の電灯みたいな子だ。別にいじめられているわけじゃないし、少なくない友達とも仲良くやっている。が、外から見ていると何となく一歩引いているような気がするのだ。それはクラス全体に対する姿勢でも同じで、行事とか話し合いの時に発言する事は滅多にない。ついでに言えば、委員会の立候補もした事がなかったはずだ。確かに直接呼び出して、とか電話で、と言うよりは手紙で想いを伝える方が彼女らしいといえば彼女らしいのだが、男としゃべっているところなどほとんど見た事がないので、そもそも僕の中では恋愛云々の話に小松の名が挙がる事自体がない。容姿はまあ可愛い方、といったところだが、背はそれほど高くなく、病気一歩手前ぐらいまで痩せている。
 しばらく手紙を見つめて逡巡していたが、好奇心に負けて手紙を出した。封を切る必要がないので、真ん中の破れ目からかさかさと少し無遠慮に手紙を取り出すと、封筒の方は机の中に滑り込ませた。回収できないと困る。中身の方は、封筒とセットの便せんが1枚きりだった。3つ折りに折られていたそれを開いて、ゆっくりと丁寧に真ん中の破れ目を合わせた。
『岡本裕様
突然こんな手紙を出してごめんなさい。出したい、という気持ちが抑えきれなくなりました。
先月、私を助けてくれた事を覚えていますか?覚えていないかも知れませんが、私が誰かの蹴ったサッカーボールに当たりそうになった時に、走って来てボールを受け止めてくれた事がありました。その時からずっとあなたを見ていて、気付いたら好きになっていました。
返事は急がなくても構いません。でも、もし他に好きな人がいるなら、そう言って下さい。
……いい返事だと、嬉しいです。
小松つぐな』
 おとなしい小松らしい、簡潔な文面だった。僕はこれを読んでどう思ったらいいのかがわからなくて、もう1度読み返した。先月だったかどうかは定かではないが、確かに小松にサッカーボールが当たりそうになったのを僕が割り込んで身代わりに当たった事はあった。恥ずかしい話、本当は受け止められなかったのだけど……。その時は目の前を歩いている女の子にボールが当たりそうだというので走っただけで、それが小松だから、というわけではなかった。というより、お礼を言われるまでそれが小松だと気付かなかった。それでも彼女にとっては、心を揺さぶられる事だったらしい。
 2度目を読み返して、不意に嬉しさが湧いてきた。自分の事を好きだ、と言ってくれる人がいるんだという嬉しさ。僕はこれまで小松の事をまるで意識していなかったので、好きも嫌いもないというのが正直なところだが、もしもこれを正面から渡されていたら、彼女と付き合おうと思ったと思う。今僕には特定の「好きな人」がいないというもあるが、彼女なら、付き合っていくうちに好きになるかもしれない。たぶん、そうなると思う。
 だけど、これはごみ箱から拾ったもの。
 突然、がらりと教室の扉が開いた。僕は反射的に手紙を畳んで机の中に突っ込んだ。目を上げると、さっきの鞄を取りに来たのだろう、クラスの女子が3人入ってきた。その中に、小松がいた。穏やかな、目立たない微笑みを浮かべて話を聞いている。彼女は、自分が書いて捨てた手紙が出そうとしていた当人に読まれてしまった事など気付いていないだろう。
「あれ、岡本君どしたの?まだ帰んないの?」
「ん、ああ。ちょっと用事があって人待ち中」
 話しかけてきたのは、おそらくクラスで小松と一番親しい黛だ。他の2人もこちらを振り返った。不自然にならないように小松に視線を向けた。普通に見える。たぶん小松も僕を普通だと見ているだろう。そうでないと困るんだけど。
「ふーん、じゃああたし達先に帰るねー」
「じゃーねー」
「おー、また明日な」
「また明日」
 最後に、小松もそっと言った。ふっとこちらに微笑みを向けた時、僕は何故か机の中から封筒をそっと出して、ちらっとだけ見せた。他の2人はもう前を向いているから見えていないはず。そして小松は、はっとした顔をした後、もう教室の外にいる2人に何か言うと、教室に残った。
「……黛達はいいの?」
「忘れ物した、って言ったから」
それじゃ大して時間稼ぎにはならないんじゃ、と思いかけて気付いた。小松は僕も誰を待っていると思っているから、どのみち大した時間が取れないと考えたんだろう。彼女はそういう気配りが自然にできる。小松はすっとこっちに歩いてくると、僕の机にそっと手をかけて立った。
「あの、さっきの……」
 普段よりもわずかにかすれ気味の声、狼狽した表情。初めて見る小松の姿。僕はうなずいて、封筒と便せんを机から出して、一応それぞれに便せんをしまってから小松に渡した。
「やっぱり……読んだ?」
「ん、ごめん。読んじゃった」
 正直に白状すると、小松は怒るかと思いきや、恥ずかしそうな悲しそうな表情を右手と封筒で隠した。うそ、とかすかに聞こえたような気がする。そのまま少しの間、しんとした教室の中で向かい合った。それを破ったのはがらりという扉の開く音だった。
「どしたの、つぐな。遅いよー」
 小松はぱっとそっちを向くと、手紙をさっと背後に隠し、後ろ手に鞄にしまった。
「ご、ごめん。ちょっとしゃべっちゃって」
「ぶー」
「すぐ行くから」
 黛にそう言って、僕の方を振り返った。小声でそっと言う。
「ごめん、この事、忘れて」
 ぱたぱたと慌てて外の2人を追いかける背中を見ながら、妙に耳についたその一言を反芻していた。
「忘れろって……言われてもなぁ」
 思わず独りごちてみる。声に出すまでもなく、それはちょっと無理だ。鮮烈な桜色の封筒。手紙に綴られた文字、狼狽した表情、忘れてと言った時の悲しそうな淡いブルーの声。全てがむしろ、僕の中に小松をはっきりと印象づけてしまった。それがすぐに恋心にはならないにしても。
 翌日、昼休みになっても小松は元の小松で、僕は元の僕を演じていた。思わず向いてしまいそうになる視線を何とか抑え、教室の移動もいつも通りのタイミングを注意深く計った。それでも向いてしまったいくつかの視線の先で、小松はいつも通りのほのかな小松だった。僕は納得する一方でわずかな落胆を感じながら、いつも通りのスピードで弁当を平らげた。食後は毎日適当に過ごしているが、教室にいると、黛としゃべりながら小さな弁当を食べている小松を更に観察してしまうような気がして、席を立った。かたんと後ろで椅子が鳴ったが、わざと振り返らなかった。
 教室を出たはいい物の、特に行くところもない。自然と足は部室の方に向いていたが、後ろから遠慮がちに背中をつつかれてそれも止まった。振り返った先にいたのは少しだけ息を切らせた小松だった。
「……ちょっと……いい?」
 僕が頷くのを待って、小松はおずおずと僕の先に立って歩き出した。よく見れば別にそこまでおどおどしているわけじゃないが、小柄である以上に何となく1つ1つの動きが目立たないと言うか、遠慮がちに見えてしまう。そういうイメージがあるのだ。目の前の小松は階段を下り、靴を履き替えて校舎の間を歩いていく。着いた先は、昼間は人気もなく人目もほとんどない場所。見慣れた焼却炉の前だった。そこまで来て、ようやくそっと振り返った。
「あの、昨日の手紙の話……なんだけど」
「うん」
 僕は意識して口数を減らしていた。本当は色々知りたかったのだが、小松の話が終わってからでも質問はできるし、余計な事は言わない方がいいような気がした。小松は少し考えてから、また口を開いた。頬が段々と赤らんできている。
「いきなり、忘れろって言われてもわけがわかんないよね……。あれ、ね。書いたのは一昨日の夕方だったんだ」
 つまり、書いた翌日学校で捨てたという事か。頷くと、小松は続けた。
「で、ね。昨日学校に持ってきて、本当は机の中に入れるか直接渡すかしようと思ってた。けど……昨日の昼休み、岡本君隣のクラスの春日さんに呼び出されてたでしょ?」
「うん、でもあれは……」
「ごめんなさい、気になって追いかけたの。いつも、岡本君と春日さん、仲良さそうにおしゃべりしてたから……。それで、部室で……その、キスしようとしてるとこ、見ちゃって……本当にごめんなさい。でも、我慢できなくて……」
 小松はそう言ってがばっと頭を下げた。僕は逆に慌ててしまった。つまり、その『キスしようとしてる』シーンを見た小松は僕が亜弓……春日亜弓と付き合ってるんだと思って、その場から逃げ出して手紙を破ってごみ箱に放り込んだって事か。
「ちょ、ちょっと待って。それで……その、手紙をごみ箱に捨てたって……?」
 小松は俯いたまま頷いた。
「今から考えたら岡本君よくごみ捨てに行ってるし、他の誰に見られるかもわかんないからそんな事しない方が良かったんだけど、私、混乱してて……」
「あー、えーと、小松。君勘違いしてる。亜弓……春日とはちっちゃい頃からずっとよく遊んでたから今でも仲いいけど、全然そんな仲じゃないよ」
 なんだか彼女に浮気の言い訳してるみたいだ、という声がどこからともなく聞こえてきたが、僕は必死だった。
「でも、昨日……」
「小松の勘違い2つめ。その時やってたのって、キスとかそんなんじゃないんだ。前後ずっと見てたらわかったと思うんだけど……」
 これほど馬鹿馬鹿しい勘違いもなかなか無い。昨日亜弓に呼び出されたのは、夏の部誌に載せるマンガの一部でポーズモデルが欲しいというものだった。たまたま最適任者が教室に見あたらなくて僕にお鉢が回ってきたのだが、恐らく小松がのぞいていたであろう時、僕は亜弓の手で顔の角度をいろいろいじられていたのだ。それも、ある理由から少し前のめりになっていたから椅子の肘掛けと亜弓の肩に手を乗せていた。
 確かに間近で向かい合っていたしお互いの手の位置も勘違いされそうなところにはあったが、当事者にとってはこんな事で勘違いされると悲しくなる。
「じゃあ……本当に、何でもないの?」
「ないって。第一、あいつ彼氏いるんだよ?それも冬でも暖房がいらないぐらい仲いいんだ」
 それは知らなかったようで、小松は黙ったまま少しだけ目を見開いた。とりあえず説得すべき材料は以上だ。そのまましばらく二人で黙っていたが、つと小松が目を逸らせた。いつの間にやら引いていた頬の赤みがまたすぅっと上ってくる。
「じゃ、じゃあ……その、岡本君」
「ん?」
 小松は意を決した、という表情で顔を上げた。視線がまっすぐに僕の目を射抜いてくる。。
「手紙の事、改めて、言ってもいい……?」
「あ……うん」
 それを聞いて、赤面が伝染った。
「……あなたが好きです。……わ、私と付き合ってください……」
 一瞬、どう答えたものか迷った。こんな時ぐらいかっこいいセリフで決めたい。
「よろこんで」
 迷うだけ無駄だった。でも小松の表情はぱっと晴れた。そしてにっこりと笑う、その表情はやっぱりほのかで、綺麗だった。

……後日談。
「その、あの時の理由って……何なの?」
「あー、うー……秘密」
「教えて欲しいな……」
 下からそっと見上げられて、僕は3秒後にあっさり陥落した。最近わかったのだが、小松のこういう下からそっとのぞき込む仕草は、意外にもかなり洒落にならない破壊力がある。できれば言いたくなかったんだが……。
「今年の部誌見てくれればわかるんだけど、亜弓が今回描いたマンガって柔道物なんだ。で、更に言うと、ボーイズラブ系なわけ」
「……?」
 まずボーイズラブという言葉を知らないらしい。要するにゲイ、ホモ、同性愛という事だ。
「文化祭で売るものだし18禁は当然禁止だから、一応純愛らしいんだけど……で、あの時参考にしたいって言ってきたシーンって、主人公がヒロイン(?)と組み手やってて弾みで押し倒されたシーンで……」
「……つまり、愛する男の子を見つめる男の子の役を……?」
「そーいう事……」
 それも、設定上は汗くさい柔道着着て何故か誰もいない道場の中で。想像しただけで身の毛がよだつ。
 と、小松が突然笑い出した。
「……?」
「あ、ごめん……くすくす……岡本君が坂井君押し倒してるところ、想像しちゃって……」
「っだー!なんで坂井なんぞ押し倒さなきゃいけないんだぁっ!」
「ごめんね……くっくっくっ……」
 坂井とは、亜弓の彼氏であり、僕の親友であり、我らが慢研のホープである男だ。ちなみに身長165cm、体重49kg の可愛い少年である。
 小松は僕に横からヘッドロックをかけられても、静かに全身を痙攣させていた。それを僕が泣かしたのだと勘違いされ黛に蹴られたのは更にその3分後。

続編:「日曜日

posted by alohz at 01:00| Comment(0) | TrackBack(0) | [短編]恋愛模様 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2002年08月29日

とある愛の始まり

(喫茶店にて)
ホットコーヒー2つ。
はー、またあっさり勝っちゃったねー。
……まあ、あの程度ならな。キツいのはこっからだよ。
まぁ、全国だもんね。でもすごいなー。あたしの友達は合気道全国出場です!って、自慢できるよね。
ますます男寄りつかなくなるんじゃん?
ますますって何。
男っ気全然無いくせに。
んな事ありませんよー。こないだいっコ下の男の子に告られちゃったし。
へぇ。で、どうした?
今付き合ってるよ。2週間ぐらいかな。かわいーんだ、それが。
ふーん……。
そっちはどうなのよ?
何が?
だからぁ。合気道ばっかで、好きな人の1人もいないわけ?
あー。……いないなぁ。試合とか同性ばっかだし。
そりゃーね……でもあんた、女の子にきゃーきゃー言われてるじゃん。客席から毎回すっごいよねー。
……それは確かにすごいけど……あれは、だってそういうもんじゃないだろ。

毎回恐いし。
あー、確かにね。でもあんた、そういうのじゃなくてももてるのに。よく手紙もらってんじゃん。
んー……よく知らない人だったり好みじゃなかったりなんだよなー、ああいう時に限って。
適当なのと付き合っちゃえばいいのに。
付き合うってそういうもんじゃないだろ。いきなりほとんどしゃべった事ない奴と付き合えねーよ。
あ、じゃああの人は?さっきまで一緒だった人。仲良さげだったよね。
ん?あぁ、あいつか。
あの人なんかいいんじゃないの?怖がられてないし、ミーハーってわけでもなさそうだったし、ちゃんと一本芯がある感じだったし優しそうだしさ。まぁ、確かに見た感じは中の上って感じだし何か裏がありそうではあったけど。
本人帰ったと思ってひでぇ言いようだな。
で、どうよ、そこんとこ?
あいつも……別にただの友達だし。
でも、地区大会から毎回来てくれてるんでしょ?
んー、最初の時に話の弾みで誘ったらなんか毎回来てくれてるけどな。
それもちゃんとミーハー軍団がいるよりちょっと入り口よりで待機してるし。
いや、それは俺がそうしろって言ったんだ。紛れられるとわかんなくなるから。
ほらー、ちゃーんと待ち合わせてるんじゃない。偶然みたいな言い方して。
……せっかく来てくれてんのに地区大見て帰るだけじゃ悪いだろ。全国ぐらいまで行けば他にも素人でも楽しめるぐらいの試合もあるだろうけどさ。地区予選程度だと好きでなきゃつまんねーって。
なぁんて言っちゃって。毎回2人でデートして帰ってんでしょ?
デートって……こんな風にちょっとコーヒーとか飲んで帰るだけだよ。
晩ご飯食べたりとかは?
大抵しない。たまに大坂屋で食って帰る事もあるけど。
……なんでそういう時に大坂屋なのよ。確かに美味しいけどさぁ。もうちょっと、なんていうか、洒落たとこに行かないわけ?せめてイタリア料理とか……。
栄養が偏るだろ。油っこいんだもん、ああいうとこ。確かに美味いけどさ。
減量中のボクサーじゃあるまいし。あんたそんなガリガリでまだ痩せようとしてるわけ?
太らないようにしてるんだよ。大坂屋ならちゃんと考えて作ってくれるから……。
はぁ……。で、他には?試合のない日に会ったり電話したりしないの?地区大が終わってからちょっと間があったでしょ。
んー……一応電話番号はお互いの持ってるけど……。
で?
「声聴きたくなったらかける」とか言ってたから俺もそう言ったんだけどな。
かけた?
俺からはまだ1回も。向こうからは……2週間ぐらい前に1回かかってきたな。
……それって関東大会の話?
もあったけど。あと、そういやあいつ一人暮らしそろそろ本格的に準備するとか言ってたな。
お、ちゃーんす。
……何が?
そこで、「俺も一緒に住む!」とか言って同棲!
無茶言うな。
でもあんた既に一人暮らしじゃない。あ、じゃあ逆に「うちに来いよ」って……。
あいつの大学うちからだとちょっと遠いんだ。あいつの実家から通うのとあんまり変わんないぐらいだからな。家出る意味なくなるだろ。
そっかなー……?好きな人と同棲できたらそれだけで充分意味はあると思うけど……。
だから、あいつも別に俺の事好きってわけじゃないし。
そんなんどうしてわかるのよ?
聞いた。
うそ!?なんて!?
いや、地区大の最後の試合の日にさ。ま、例によって待っててもらってたんだけど、そん時に1人女の子に手紙もらってさ。
ラブレター?本気の?
めちゃめちゃ本気だった。その場で断っちゃったんだけど。
……で?
で、その流れでさ。その辺の喫茶店入ってそういう……恋愛とかの話をしてたんだよ。
いいシチュエーションねぇ。
いや、いいかどうかは……。
んん、で?
んで、そん時にさ。俺の話もまぁしたんだけど、あいつの方も高校の頃に1人か2人か付き合った人がいるぐらいで大学入ってからは全然みたいで。で、あいつ自身が言うにはあいつは恋はできないんだってさ。
はい?……どういう意味よ、それ。
そのまんま。ほら、よく少女漫画であるだろ。その人の事しか考えられないとかさ、あいつによく見られるために頑張る、とか。そういうの全然できないんだってさ。めんどくさいって思っちゃうらしい。
だから、あんたも恋愛対象じゃないって?
そうなんじゃないかな。
んー……じゃあさ。今のうちに住所とか両方の大学の真ん中辺りにしといてもらってさ。
……?
最初は同居でいいじゃん。家賃とか食費とか安くなるし。
あぁ、さっきの話の続きか。
そそ。で、しばらく一つ屋根の下で寝泊まりしてるうちに、ある晩、ふと隣の部屋のあの人が気になって……1時間ぐらい迷ってそっと布団を抜け出してそっと部屋のドアを開けると、あの人も布団の中からこっちを見てて、思わず「ごめん、お前の事が気になって……その、顔見たくなって……。」とか言ったら、あの人も布団の中から「そっか……僕もだよ……。」とか言って、そっと布団の端を上げてくれてさ。で隣にそっと潜り込んで肩を抱いて、「なんか……ドキドキする……。」とか言ったらあの人があんたの胸んとこに手当てて、「ん、ドキドキ言ってるのわかる―って、こらぁ!
すみません、コーヒーお代わりお願いします。
「かしこまりました。」

(ずかずかどすんっ)

あんたねー!人がしゃべってる時にテーブル移るこたーないでしょうが!
お前が恥ずかしい事を大声で叫んでるからだ。誰だって移るわ。
全く……んでも、それでオッケーじゃない!
何がどうオッケーなんだよ……大体、向こうが承諾しなきゃそれまでだし、あいつが住みたいとこ吉祥寺だぞ?
通える距離じゃない。問題なし。
遠いっ!今の倍じゃきかないだろ。
それぐらいは家賃の安さと愛でカバーするのよ。
……その並列はどうかと思うぞ。それにカバーできないって。
でも、吉祥寺って要するに大学に近い所なんでしょ?だったらもうちょっと近いようにできるじゃない。
だから……。
言ってみたら?案外あんたが言い出すのを待ってたりするかもよ?
どーだか。それに、親がどう言うかもわからんだろうが。俺んちは……まぁ、親父がああだから……。
……むしろあたしより強引に勧めそうよね。おばさんも反対しなさそうだし……。
……だけど!向こうはわりと堅め……てか、普通なんだよ。聞いた感じ。
そこはあんたが愛と根性で説得するのよ。格闘技やってるんだから根性あるでしょ?
あいつ根性ないぞ。
あの人は愛だけでいいじゃない。
そういう問題か?
それに……なんて言うの?間違いがあってもいいわけだし。そういう意味であんたが説得するのは大きいわよ。
……。
何、良くない?
良くない……わけじゃないけど……。
……ほっほーう。
!!
まーさか、女の自覚ゼロのあんたがそこまで言うとはねー。
だっ……だから、それはその、何かされそうでもあいつだったら絶対勝てるって言う意味でっ!
はーいはい。わかったわかった。
だーかーらー!
聞いてたー?よかったわねぇ、小川君。
!?

(がばっと振り向く)

……いない?
ぷくく……いるわけないって。しっかり帰ってたじゃん、彼。
……じゃ、ここの払いは任せた。

(すっく)

え?え??あ、ちょ、ちょっと待ってよぉ!
さんきゅー、美咲[みさき]
ちょっとぉ、遙[はるか]ー!

posted by alohz at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | [短編]恋愛模様 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。