2010年08月24日

水の時間

 舞台を見た。もう数年ぶりの演劇は、ニューヨークで暮らす日本人とタイ人の話。失って初めて相手がいることの大切さに気付く、という話に、日本人のダメ文学青年とタイ人の現実的な女性、隣人のオカマタイ人という取り合わせで味付けがされていた。
 率直に言って、物足りなかった。女優の卵を演じた彼女は素人目には見事に演じていた。起こっている時は心底居心地が悪かったし、泣いている時にはもらいそうになった。もう一人のタイ人、オカマの隣人はあまりにも自然に空気を変えた。最後の挨拶で自分で言ったとおりのことをしていた。だが幕が下りた時、ストーリーの肝心なところが存在しないと思ってしまったのだ。
「例えばどんな?」
「……それをどうするかが脚本の腕の見せ所なんだよ」
 友人の問いに、僕はそう答えた。もちろん逃げたのだ。友人は僕が作家たらんとしていることを知らない。だから、最も追求されにくい回答を半ば無意識に仕立てて隠れ蓑にした。
 愛しい人を喪った時。あまりにもその人に甘えすぎ、受け取るばかりだったと気付いた時。脚本家たる主人公が取った手段は納得のいくものだった。だが、その描き方があまりにも短く、あっさりし過ぎていた。だから、それだけ?と思ってしまったのだ。
 野村美月の『“文学少女”と神に臨む作家』で、主人公の井上心葉は、ずっと気付いていなかった、自分を見守ってくれたたった一人をつなぎ止めるため、恋人を捨てて小説を書き上げ、それでもなお彼女を引き留めることができなかった。そうして大切な人の背中を見送った彼は、彼女に近づくためにずっと逃げ続けていた作家への道を歩き出した。脚本家も同じことをしたのだ。それなのに、たった一本の脚本で燃え尽きてしまった。脚本家は弱すぎ、それ故に観客に伝えるべき言葉を持っていないように見えた。
 今、友人が隣にいたら、僕はこう答える。
「例えば、脚本を書きまくって、紙に埋もれて死にかかってるところを隣の人に発見されて即入院。で、脚本はまとめて制作会社に送るんだ。で、ボロクソに言われて突っ返されて、仕方なく知り合いの役者に頼んで自分で撮っちゃう。で、何年かして、馬鹿にしてたテレビの脚本で食いつなぎながら、月に一回上演して、隣人が『もう止めたら?あの子が生き返るわけじゃないのよ?』って言うのに、こう答えるんだ。『俺はあの子の笑顔を毎日見たかったんだ』って。それに呆れて隣人が退場して、代わりに一人の女の子がやってきて、『ありがとうございます』って言って、エンド」
 長いよ、という友人の顔が目に浮かぶ。長くてもいいのだ。僕にとっては、それが必要なのだ。
 僕は神に臨まない。ただ悦楽に飢え乾くだけの亡者は、心のままに言葉を繰るだけだ。

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2010年07月08日

「でもねー、難しいよね……」
 彼女の言葉に、俺は頷くことぐらいしかできない。彼女が抱えている問題は、俺が漫画や雑誌でしか見たことがないことで、答えはもちろん、それに近づくためのヒントを口にすることもできない。俺よりも常に先にいる人なのだ。
 俺はコーヒーをすすり、彼女は紅茶を口にした。
 話は音楽のことになった。最近聴いた、素敵な歌の話。俺も聴いていた曲だったから、ひとしきり話が弾む。そのうち機会があれば歌いたいんだけどね、と彼女は言い、歌えばいいじゃないと俺は言った。お互いに幾度となく言い合った言葉だ。
 俺は彼女の歌が好きだ。
 技術があるとか引き込まれるような力があるというわけではないが、思いをそのまま口にしているような素直さがある。プロとして何百人、何千人に語りかけるより、何人、何十人に歌いかけるのに向いた、パーソナルな歌だ。

 話は彼女の抱えたものに戻る。彼女は頑張っていて、それなのに、あるいはそれ故に、抱えきれないほどの辛いことを抱えてしまう。頑張ったことがほとんどない、逃げから始める俺が持っていないものを、逃げない彼女は持っている。逃げられる俺が持たないものを、逃げられない彼女は持ってしまう。
 だから彼女は魅力的なのだ。苦しむが故に。
 だから彼女は苦しむのだ。魅力的であるが故に。

 彼女が紅茶を飲み干し、俺のコーヒーが空になっても、彼女は答えを見つけられなかった。会ってすぐの頃からたまに見ていて、最近はもう見慣れてしまった顔をして、席を立つ。
 その顔、自嘲の笑みも、彼女が浮かべるとたまらなく魅力的なのだ。

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2009年11月21日

買収

「ふざけんなー!」
 井上家に怒声が響き渡る。高校生の美紀と三歳年上の兄、浩太は、色とりどりの服が散らばった浩太の部屋で向かい合っていた。
「どこもふざけてないぞ。俺は大まじめだ」
「弟にライブで水着着ろとか大まじめに言ってんじゃねぇ!」
「自前のは生々しいかと思ってわざわざ買ってきた兄たちの気遣いに対して何かないのか?」
「死ね!」
 美紀が仁王立ちで顔を真っ赤にして怒っているのに、浩太は座布団に座ったまま、まるで気にした様子もない。浩太の隣で散らばった服を並べている寛美も、美紀の剣幕を見事に無視して口を挟んだ。
「それ、かわいいと思うけどな。ミキ君脚長いし色白だから、紺のスク水は映えるよきっと」
「映えりゃいいってもんじゃないでしょ!プールとかなら……それもかなりアレですけど!なんでライブハウスで水着着て楽器弾かなきゃいけないんですか!明らかにおかしいでしょそれ!?」
「それがステージ衣装ってもんだ。それ言ったらおかしくない衣装なんてないぞ?」
「このカッコならおかしくねーだろ」
 そう言ってばっと両手を広げてみせる。着ているのはタートルネックの黒いセーターに色の濃いジーパン。それをじーっと見ていた浩太は、無言で肩をすくめた。寛美が代わりにコメント。
「普段着としては全然おかしくないけど、ステージ衣装にはちょっと地味過ぎなんじゃないかな」
「だからって水着ですか」
「鉄板よ?」
「スケベ野郎が寄ってくるだけでしょ!」
「男の子はみんな好きだよね。ミキ君は?」
 何気ない口調で訊かれて、ぐっと詰まった。自分のことを親よりよく知っている兄やその彼女に対して、好きなわけないでしょ、とは言えない。いろいろ突っ込まれて余計に不利になりそうだ。
「み、見るのが好きだからって着るのもいいとは言わないですよ!」
「音だけじゃなくて見た目でも楽しませるのがカルマ式。お芝居は控えめだけどね?」
 きっぱりと言ったのは、バンドのキャッチコピー全文。三人と、この場にいないもう一人で組んでいるロックバンドだ。「ね?」まできちんと明文化されているところに、このバンドのベクトルの一端が現れている。
「それ言ったら寛美さん何着るんですか」
「あたしは……どうしよっか。まだ決めてないの」
「決めてないのかよ!なんでオレだけ!?」
「いつもミキ君から決めるからね」
「一番もめるからな。他のは大体すんなり決まるから後からでいいんだよ」
「もめるのはお前がとんでもない服ばっか選ぶからだろ!春のライブでリンの衣装着た時は大してもめなかっただろうが!」
「ありゃ俺と寛美でもめたんだよ。露出が少ないんじゃないかって」
「演出ならともかく人の露出度でもめんな!」
「重要よ?ミキ君モデル体型だもん、どう見せるかはちゃんと考えないと」
 美紀は確かに長身なのだが、そう言う寛美も美紀と五センチ程度低いくらいで、決して大きく差があるわけではない。肌の色も雪のように、とまではいかないにしても、美紀と同じく色白だ。そして美紀に比べれば明らかに凹凸がはっきりしている。
「自分の方がよっぽど重要じゃないですか」
「私のはミキ君に合わせて決めればいいじゃない」
「寛美は選り好みしないからな」
「してください」
「衣装着るの好きなんだもん」
「スク水も?」
「うん」
「オレはあんなの衣装とは思いませんっ!」
「見解の相違だな」
 怒鳴りすぎて肩で息をしている美紀を尻目に、浩太は携帯を出した。
「どうしたの?」
「いやちょっと手に負えねぇから援軍を」
 アドレス帳から誰かの番号を探し出して、耳に当てる。寛美はそれを見て、すっと立った。
「ミキ君、とりあえず座ったら?」
「いえ、なんか嫌な予感がするんで出ていきます」
「出ていかないでっ!」
 二人の言動に一抹どころでなく不安を覚えた美紀は、さっと背中を向けてドアノブに手をかけた。その背中に寛美が抱きついてきた。
「うわっ、と、わあっ!」
 不意を突かれてよろめいた拍子に今度はぐいぐいと引っ張られ、美紀はバランスを崩してベッドに引きずり倒された。間髪入れずに寛美がのしかかってくる。
「えいっ。ふふ、ミキ君〜」
「え、ちょ、ちょっと寛美さんっ?!何やってるんですか!」
「かわいい義弟[おとうと]に抱きつきたくなったの」
「なったの、じゃなくて!どいてくださいって!」
「いや」
「あー、もしもし。今大丈夫か?……うん、いやちょっと頼みたいことがあってな」
 電話が繋がったらしく、浩太が誰かと話し始めた。寛美はそれをまるっきり無視して、完全に美紀を押さえ込んでいる。女性らしい寛美の体を全身に押しつけられて、美紀は強引に動けない。さらに寛美自身、実は結構力があるのだ。
「いやな、今年もまたウチの大学の学祭でライブやるんだけどさ。その衣装のことでちょっとお前から頼んでもらおうと思って。俺らが言ったんじゃ聞かなくてさ」
 誰に電話しているのかは言われなくてもわかる。浩太が番号を知っている美紀の友人はそもそも一人だけだ。相手が話しているんだろう、浩太は黙って頷いている。その沈黙が怖い。
 が、少々様子がおかしい。浩太が困惑の表情を浮かべたのだ。
「え、マジで。そこを何とか。お前も美紀がかわいいカッコしてるの見たいだろ?」
「いーぞ雅!さくっと断れ!」
 電話の向こうにも聞こえるくらいの声で叫ぶ。寛美が慌てて口を塞いだが、もう手遅れ。
 もうしばらく小声で話をして、浩太は電話を切るなりため息をついた。
「ダメだったの?」
「本人がそこまで嫌がってるなら協力できないとさ」
 残念そうな二人とは対照的に、美紀はようやく笑みを浮かべた。愛しい親友はやはり美紀のことをよくわかっている。
「で、結論も出たことだし、寛美さんどいてくれない?」
「いや」
「なんで!?」
 今度はただの冗談だったようで、寛美は笑ってどいてくれた。美紀はぱっと飛び起きるなり、足元の衣装は踏まないようにドアに飛びつく。その背中に浩太が声をかけた。
「ああ、美紀。雅に免じて二択だ。どっちか好きな方選べ」
 ぴたりと足を止めた美紀は、それでも振り向くかどうか数秒悩んでから、渋々振り返った。
「どれとどれだよ」
 浩太はテーブルから文庫本を2冊取ると、さっき寛美がきれいに並べた服のうち2着のそばに置いた。
 片方は黒のチューブトップにホットパンツ、サスペンダーとブーツ付き。もう片方は赤と黒がベースのフリルたっぷりゴシックドレス、肘までの手袋とニーソックス付き。
 前者は露出度も色気も満点、後者はこれでもかというぐらいお嬢様ファッションで、胸はしっかり開いている。
「これとこれな。ハルヒととらドラ、どっちにする?」
「ぐっ……!」
 まずは寛美が着たところを想像してみる。チューブトップにホットパンツは思わず鼻の辺りを抑えてしまいそうなくらいにセクシーだ。ゴシックドレスは胸元のセクシーさ以上に全体のかわいさが引き立つ感じ。スタイルのいい寛美が着るなら前者だろう。続いて自分が着たところを想像してみる。
「……とらドラ」
「よし。じゃこっちをベースに俺らの決めよう」
 5分近く悩んだ挙げ句、絞り出すように答えた美紀に、浩太は実にあっさりと頷いたのだった。


※この話は「私の特権」(「mnfikmyhk CREATURE MIXTURE 4」収録)の番外編です。

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2008年05月12日

号砲を鳴らすのはギター

「なー、兄貴。オレどうすりゃいいんかなぁ」
「何がだよ」
「雅[みやび]のこと」
 浩太はギターを抱えたまま、ベッドに寝っ転がった美紀の方を見た。
「何かしなきゃいけねーのか」
「んー……いや別にしなきゃいけないってわけじゃないんだけどさ。このままこう、どこにも落ち着かない感じでいるのってなんかヤなんだよ」
「ふーむ……」
 浩太は少し考えて、アンプに繋いでいないエレキギターで和音を弾き始めた。
「キライー、キライー、Love You〜」
「誰がー、誰が、Can't be alive without you〜」
 一度バンドで合わせた曲だ。原曲と違ってやたらゆっくりなテンポだが、美紀もすぐに合わせて歌い始める。
「知らないわ、そんな魔法、想いは伝えたら壊れちゃう」
「アナタとは、違うから、人の心まで簡単に、盗まないで」
 ギターの和音で締める。
「……兄貴、これ歌いたくなっただけだろ」
「歌ってみたら全然今の状況と関係なかったな」
「っの野郎……!」
 はっはっは、と快活に笑った。
「人が真面目に話してるってのに……」
「一緒になって歌ったくせに」
「…………」
「しかし、真面目な話、状況を変えたいのか?」
「んー……うん」
「じゃあ押し倒せよ」
「っだから真面目な話をだな――」
「いや、真面目な話。俺も寛美に押し倒されたし」
「……マジで?」
「おう、マジで。わりと前だけどな」
「どんな状況だったんだよ」
 浩太はその時のことを思い出すように、少し間を取った。
「ここで、ベッドに並んで座ってギャラクシーエンジェル見てたら3巻が終わったとこで急に押し倒された」
「何なんだよその状況!突っ込みどころ多すぎてどうしたらいいのかわかんねぇよ!」
「順番に突っ込めよ」
「なんでギャラクシーエンジェル見てて押し倒すとかになるんだよ」
「そりゃ寛美に訊けよ、俺が押し倒したんじゃねーんだから」
「で?」
「どうした急にって訊いたら」
「うん」
「コクられた」
「まだ付き合ってなかった頃かよ!」
「でなきゃお前の参考にならねーだろうが。なんで俺と寛美のラブライフをお前に語ってやんなきゃなんねーんだ」
「いやそりゃそーだろうけど……」
「それで今や大学内ベストカップル賞だ」
「ちょ、ちょっと待て、なんでお前彼女でもない女の子部屋に連れ込んでアニメ見るんだよ!」
「いや、あいつギャラクシーエンジェル見たことないっつーから」
「貸せばいいだろ!」
「あいつんち VHS のデッキねーの」
「…………なるほど」
 美紀は突っ込み疲れてぐったりとベッドに突っ伏した。
「うあー、どうしよー」
「テメェ、お兄様の実体験に基づくナイスアドバイスは華麗にスルーか」
「いくらオレでもそんな異常者と同じ手段は取れねぇ」
「誰が異常者だ誰が」
「いろいろ間違いすぎだろうが!」
「どこがだ。あいつは俺があいつのこと気に入ってるのわかってて一番確実だと思うようにやったんだろ?お前もそうすりゃいいだろうが」
「それはまぁわかるけど、だからそこでどうして押し倒す一択なんだよ」
「俺から見りゃそれが一番確実だ。ちなみに押し倒して耳元でささやくのがベストだな」
「ほんっとに兄貴から見てそれがベストなんだな!?」
「ベストだ。断言する」
 重々しく頷いて、浩太はギターを構えた。
「一万年と二千年前からあ・い・し・て・る〜」
「……ほんっとに考えたんだろうなお前」

+with the song [魔理沙は大変なものを盗んでいきました] by IOSYS
+and [創聖のアクエリオン]+

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2006年05月12日

窓越しの空

 夏の晴れた日はいい。空の青はこの上なく明るく、少年の瞳のように健やかだ。そこに浮かぶ雲は、少女達の笑いさざめく声にも似た、弾けるような元気さ一杯に伸び上がっている。
 そういったのは誰だったか。作家を気取っていた父か、インテリぶっていた兄か、前の恋人だったかもしれない。よくよく、うざったい口が近くに多いものだ。

 少女は窓辺の机に座って、外を見ていた。細い脚を片方だけ立てて、その膝に白い腕をのせて。窓の外に歩く人の姿はない。彼女の視界にはたまに車が飛び込んでくるぐらいだ。彼女のあられもない格好を考えれば、それはいいことだろう。小さな体を黄色の下着とスリップとで覆っただけで、乱れた髪も軽くまとめただけだ。彼女の幼い顔立ちを見れば、しっとりと女の匂いたつ姿はとてもアンバランスで、しかし奇妙に似合っていた。
 机の上の携帯が震えた。手だけを伸ばして探った。差出人はわかっていた。
『今日は会えて嬉しかった。クレハの笑顔が見られなかったのは残念だったけど。また連絡するよ』
 一読して、ベッドに放り捨てた。その行方には見向きもせずに、ぼんやりと外を見る。その視界に車が1台入ってきた。洒落っ気のない国産の小型車。メールを打ち終えてから、走り出したのだろう。彼女――クレハは眠そうなしかめっ面で濃紺の車を見送った。
 夏の青い空に、その車はまるでそぐわなかった。馬の群れの中に混じったロバのように、影を背負ってのろのろと走っていた。クレハもまた、窓越しの空とはまるっきり異質だった。露わになった小さな体も、幼い顔に表れた不機嫌さも、外の景色とは相容れない影を浮かび上がらせていた。
 室内はエアコンで冷やされていた。ぞっとするほどの外の暑さは感じられない。昨晩の汗を流した直後は少し肌寒く感じたが、それももう感じない。寝乱れたままのベッドの上にはタオルケットが1枚だけ丸まっていた。もう1枚、暑くてはねのけたのかベッドの脇に落ちている。
 不意にクレハは窓辺を離れ、ベッドの上の携帯を手に取った。さっき届いたメールを表示して、もう1度読んだ。そのまますぐに削除した。空のメールボックスが表示されると、興味を失ったように目を離し、周りを見渡した。自分の好きな物がしっくり来る位置に置かれた、自分の部屋だ。クレハは大人びたため息をつくと、タオルケットを両方丸めて抱えると、部屋を出て行った。
 主のいない部屋は静かだ。時計の針が1秒に2度鳴り、エアコンが低く低く唸っている。携帯は鳴らず、コンポも黙っている。机の上の写真も、何も語らない。

 ドアが開いて、下着姿のままのクレハが姿を現した。右目にかかりそうな髪をかき上げ、机の上の写真をぱたんと倒しながら、机の端にとんと尻を載せた。ごく自然に足を上げ、窓枠をぴたりと踏んだ。
「もういいよ……」
 ほんの一言、彼女の唇から漏れた。そのまま、何を見るでもなく夏の日を見ていた。

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2005年08月22日

たたみのねごこち

ミーンミンミンミンミーン……ミーンミンミンミンミーン……。
夏のある日。家にはほとんど人気がなかった。
日差しを受けるのは家と木々のみ。しかし蝉の音を聴くのは他にもいた。
縁側のある一室に、少女が1人寝転がっていた。
祖母から留守番を言いつかって、いつものように畳の上にいるのだ。
古い型の扇風機が、首を振りながらかすかに少女の髪を揺らしている。

木をタイルのように組んである天井をぼんやりと眺め、つと視線を下ろすと。
誰も座っていないちゃぶ台がある。座布団は2枚。
少女と、その祖父のために敷いてあるのだ。

「おじいちゃん」

見えるはずの背中。痩せてはいても、年のわりにがっしりした背中。
重くなったな、と言いながら、いつも軽々と少女を乗せてくれた背中。
その背中が不意に動き、おう、こっち来い、と言って少女を呼び寄せる。
わざわざ向かいに座布団が敷いてあるのに、少女はその背中に向かっていった。
なぁに?
わしの友達が絵葉書送ってきたんだ。ほれ、きれいな海だなぁ。
わぁ、ホントにきれい。どこのうみ?
んー、ピピ、つうところらしいな。
ぴぴ?かわいいなまえー。
祖父の肩越しに見たスカイブルーは本当にきれいだった。

祖父の一番好きだった着物を着ていると、にっこりと笑ってほめてくれる言葉が聞こえてくる。
祖母に手伝ってもらって着ていると、祖父に近づいたような、遠ざかったような気がする。
少女は祖父を思いながら目を閉じた。

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2005年07月03日

お約束

 ドラマは嫌い。わざとらしくて嫌い。都合がよすぎて嫌い。リアルに感じてしまうから嫌い。

 ゆうべは晴れてて、星がきれいだった。ベランダに出ていたら、流れ星が見えたかもしれない。ベッドから見たら、艶街のネオンみたいに見えた。雨は降ってくれなかった。

 今朝は雨。待望の雨。家にいられるから、少し笑った。出かける人はお気の毒。誰かの涙を全身に浴びに出かけるのだ。また少し笑った。

 昼過ぎに雨は上がった。雨を吸った土は涼しさを一つまみくれる。涙を流し終えて身軽になったから、髪でも切りに行きますか。

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2005年02月26日

夜明け前の少女

夜明けは近かった。
今はまだ、家の中では自分の手の形がうっすらとわかるぐらいだ。
かち、かち、と壁に掛かった時計が秒を刻む。
一晩中、それを聞いていた。
毛布に座り、膝を抱えたままで。

ラジオから聞こえてきたのは、母国語で語られた、祖国への攻撃宣言。
王に投降を求めるそれは、子供の私が聞いても、宣戦以外の何者でもなかった。
国軍兵の父が、ぎり、と歯を食いしばったまま何も言わなかった。
普段は陽気な人なだけに、その思いがどれほど深いものか、想像もできない。
父は、祖国を愛している。
私も、祖国を愛している。
今、祖国は外国の軍隊に攻められ、踏みにじられようとしている。
毎日のように伝えられるわずかな報道から、知っていた事だ。
しかし、この夜明けが血と爆弾の嵐を呼ぶのであろう事を、私は初めて実感した。
ぞくり、と背筋が冷えた。
思わず呟いた神の名は、部屋の隅っこに転がった。

王が悪い、と外国人は言う。
それが本当なのかそうでないのか、学校もまだ出ていない私にはわからない。
私にとって「悪い人」は、他人を傷つける人であり、物を盗む人であり、他人をだます人だ。
王がそうなのか、そうでないのかは、王に会った事もない私にはわからない。
ただ、こうして丸くなって夜明けを待っている私の上に、その王を倒そうとする兵隊が爆弾を落とすかもしれない。
それは、王が悪いせいなのか、外国人が悪いせいなのか。
わからない。
ただ、これだけは言える。
私は、私の家族は、悪い事はしていない。

膝を抱いた私の腕が青白く染まった。
膝頭につけていた額をそっとはがし、目を上げた。
夜が、明ける。
『今日』が始まる。
青空の下に、嵐が来るのだ。
私は固まりしびれきった足で立ち上がり、台所に行った。
口にした水は、それが最後の一口かもしれない事など知らないかのように、いつも通りぬるかった。

連作:「夜明け前の兵士

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夜明け前の兵士

夜明けは近かった。
今はまだ、自分が今いる甲板の端がなんとかわかるぐらいだ。
かち、かち、と腕に巻いてある時計が秒を刻む。
一晩中、それを聞いていた。
愛機にもたれて、座り込んだままで。

ラジオから聞こえてきたのは、母国語で語られたかの国への攻撃宣言。
王に投降を求めるそれは、同国人の僕が聞いても、宣戦以外の何者でもなかった。
反対派の僚友はため息をつき、そのまま2人とも何も言わなかった。
普段は明るい奴なだけに、その思いがどれほど深いものか、想像も付かない。
彼は、祖国を愛している。
僕も、祖国を愛している。
今、祖国は他国に銃口を向け、その王を脅かしている。
毎日のように伝えられてくる大量の情報から、知っていた事だ。
しかし、この夜明けと共に爆弾を抱えた僕が飛び立つのであろう事を、僕は初めて実感した。
ぞくり、と背筋が冷えた。
思わず呟いた神の名は、波間に漂い見えなくなった。

かの国の王が悪い、と我々の国は言う。
それが本当なのかそうではないのか、バスケ一直線だった僕にはわからない。
同じ船に乗る僚友達も、侵略をすべきかどうかでまっぷたつに割れている。
どちらが正しいのかは、僕だけじゃなくきっと誰も知らず、ただ自分が正しいと信じているだけだ。
ただ、こうやって夜明けを待っている僕の国に、かの国の兵士達が爆弾を投げ込むかもしれない。
それは、王が悪いせいなのか、僕らが悪いせいなのか。
わからない。
ただ、これだけは言える。
民は、一般市民は、悪い事はしていない。

投げ出していた左足のつま先が青白く染まった。
腕にもたれかかっていた頬をはがし、目を上げた。
夜が、明ける。
『今日』が始まる。
青空の下に、嵐が来るのだ。
僕は固まりしびれきった足で立ち上がり、船室に行った。
口にした水は、僕の手が赤く染まるかも知れない事など知らないかのように、いつも通りぬるかった。

連作:「夜明け前の兵士

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2004年06月18日

証明

 ある日、僕は友人たちと街中を歩いていた。僕の前には友人が1人。僕の後ろにも1人。メインストリートは車の往来が激しすぎて、僕らの間に会話はなかった。
 目の前に柱があり、僕は右を、前の1人は左を通っていった。その姿が、柱に隠れて一瞬見えなくなる。その瞬間、僕は自分が『移動』したように思えた。
 すぐに彼の姿は見えるようになった。また僕に背中を見せながら、歩いていく。車の音以外に聞こえるのは、自分の足音だけだった。あと5歩も歩けば、彼の背中がつい、と遠のいていくような気がした。

「ねぇ」
「ん?なんだよ?」

 車の騒音にかき消されないような大声に、同じ大声が返ってきた。
 僕はまだ『ここ』にいた。

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夢を見た

 私は荒野にいた。これまで見た事もない、本当の荒野だった。そこら中に転がった石とちょんちょんと生えた枯れかけの草、それだけ。不思議と前だけを見続けていた。地平線が視界の上下を分けるようにくっきりと見える。どこからか風の音がした。と思うや、目の前の荒野全体から一斉に鳥が飛び立った。荒野に見えた大地が波打ち、私の目の前で空に向かって散らばっていく。鳥たちは飛び去ろうとはせず、辺りを低空で羽ばたき続けた。ごうごういう風の音に耳を、膨大な数の黒い鳥の影に目を埋め尽くされ、私は狂いそうなほどの感覚の蹂躙をただ黙って受けた。

 気が付くと、そこは元の荒野だった。風も鳥ももういない。いや、鳥はまた地面に戻っただけかもしれない。とにかく、視界一杯無音の荒野だった。地平線には、お互いわずかに離れて並んでいる人影。40、50人はいるか、何をする出もなく、コートを風にはためかせたりちょっと体を揺らしたりしながら、ずっと立っている。私はそれをじっと見続けていた。どこからともなくぴーっという音が聞こえてくる。頭を直接こするようなその音が段々大きくなるに連れて、視界全体がゆっくりと光を帯び、白くなっていった。

「って夢を見たんだ」
「変な夢だな」
 私の話を聞いた母の一言目がそれだった。私もすごくそう思う。ついでに言うと、どうしてそんな夢を見てしまったのかがよくわからない。その夢の光景は不思議と目にしっかり焼き付いているが、それを思い返しても一度も見た覚えがない。
「いつだか父さんの本でも見たのがあるんじゃないか?あいつの本、特に美術館とか博物館のカタログは訳わからん絵やら写真が山ほどあるからな」
「あー、そうかも」
 私は納得して、父の部屋に目をやった。母もたまたま同じタイミングでそこに目を向ける。その部屋の主はウィークデーのハードワークのしわ寄せでまだ寝ている。週頭に倒れた時にはどうしようかと思ったが、意外にあっさりと復活した。それでもまだ仕事が終わったわけではないので、昼間は前と大して変わらないペースでやっているようだ。その代わり、夜は母に無理矢理寝かしつけられているらしい。自業自得、というか何というか。
 11時を回ってようやく起きてきた父に、もう一度同じ話をしてみた。父は、ほう、と一言答えたきり、何やら思考の海に沈んでしまった。目覚めのぼんやりはいつもの事なのであまり気にならないし、こないだ倒れた原因にもなった学校のPC環境はまだまだ整いきらないらしいので、そっちの考え事でもしているのだろうと思って放っておいた。テレビのニュースは相変わらず減らない殺人事件を報じていて、母はお昼の準備をするか、と席を立った。私もそれを手伝うために台所に向かった。

「思い出した」
「え?」
 夕べの残り物の豚カツにサラダというちょっと適当な昼食も半ばを過ぎた頃、父が唐突に言った。あまりにも唐突すぎて、どう反応していいのかわからない。
「何だったんだ?やっぱりお前の本か?」
「うん、よくわかったね。前にニューヨークに行った時にホイットニー美術館でさっき言ってたようなイメージを見た事があったんだ。その時にカタログも買ったから、それだと思う」
「え?え?」
 父の台詞から遅れる事45秒。ようやく話の内容に思い当たった。父は1時間近く私の夢の事を考えていたのだ。時間が経ちすぎていて私の方が失念していた。いつもの事だが、母はよくすぐに反応できるものだ。
「でも、そんなの最近読んだかなぁ?」
「なんか似たようなのを見なかったか?」
 じっくり考えてみると、心当たりがあった。美術の資料集の中にそんな写真があったような気がする。そういうと、父も母も納得したように頷いた。
 食後に、父が持っているという美術館のカタログを見せてもらった。父の開いてくれたページを見ると、確かにまるで私の夢の断片を切り取ったかのように、寸分違わぬイメージが並んでいる。資料集の写真とは少し違ったから、昔何かの機会にこっちの方を読んだ事があったのかもしれない。
「ところで、これいつ買ったの?」
「学生の頃だな。旅行で向こうに行った時に買ったんだ」
 父は現在既に40を回っている。学生時代という事は10代後半から20代前半だ。‥‥普段はよく会う近所の人の名前も思い出せないのに、よくも20年前の事を覚えていたものだ。私はそれほど厚くないその本が少々古ぼけて埃っぽくもなっているのに気付いて、小さくため息を吐いた。
 午後から寛子と会う用事があって外出した私はその日ずっと、街中のアスファルトが何の前触れもなく羽ばたき始めるような気がして仕方がなかった。

注記:この物語はニューヨークにあるホイットニー美術館の作品を見て、あまりに印象的だったのでその時のスケッチをそのまま使ったものです。が、黙ってお借りした上に作者・タイトルを覚えておりません。原稿が手元にないので何とも言えませんが、当時メモしたかどうかも定かではありません。カタログは実在しますが未購入なので、中にこの作品がどのような形で載っているかはわかりません。既に載ってないかも……。

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2003年11月12日

生存本能

 昼休み。いつものように3号棟の屋上に上がると、珍しく先客がいた。そして更に珍しいことに彼女――その先客は女だった――は屋上に申し訳程度についているフェンスの外側にいた。穴の小さい金網をしっかりと掴んだ手がかすかに震えているのを見ると、遊びとか肝試しで柵を越えたわけではないらしい。
「おーい、そこの彼女」
 やる気無く呼びかけると、彼女は本気でびっくりしたようだった。ばっとこちらを振り向くなり、一言「来ないで!」と叫んだ。一瞬振り返った弾みに落ちないかと肝を冷やしたが、大丈夫だったようだ。ほっとして足を止める。見たことのない顔だが、今時珍しい緑なす長い黒髪の大人びた美人だ。が、その表情の端々に暗い影が見えるような気がする。顔色に疎い俺に言われるぐらいだから、きっと周囲からは闇を背負ってるとか何か取り憑いてるとか思われているんだろう。顔立ちが整ってるだけにあはれを誘う。哀れではない。
「……そこ、あんまり派手に動くと危ないよ?いくら女の子だって言ったってそのフェンスが重みに耐えきれるとは限らんし」
「放っといてよ!こっから飛び降りるんだから」
 言わなくてもわかることを言う俺も俺だが、見ればわかることをわざわざ叫ぶとこからすると、彼女相当キてる。これは下手すれば本当に落ちる。ここで言葉を交わしたが最後だ。俺が毎日昼にここで飯を食うのは同じサークルの連中なら誰でも知ってるし、彼女が今落ちれば俺が家族や警察から加害者扱いされるのは間違いない。
「落ちんのは勝手だけどさ。俺これからここで飯食いたいからその間は勘弁してくんない?突き落としたとかなんとか警察に吊るし上げ食うのごめんなんだよ」
 俺はそう言うと、いつも通り扉の正面のフェンスに背中をもたせかけて座ると、カバンから弁当を出した。来るなと言っていたのに多少近づきはしたが、俺の定位置がたまたま彼女のいるフェンスではないせいか更に叫ばれはしなかった。今日の弁当は手前みそだがなかなか美味そうだ。昨日飲み会で餃子をしこたま作ったのでそれの残りを焼いて、ご飯もチャーハンにしてみた。サラダはさすがに中華風にはならずポテトサラダだが、これもこれまでで最もいい出来だった。更に昨日の飲み会で友だちが持ってきてくれたカワハギも隙間埋めに突っ込んでおいた。これはまぁ少し趣向が違うが単体で食うとうまい。
 俺が全く気にせずに食べ始めたので呆れたのか、彼女は静かなままだ。一瞬無言で落ちたかと思って顔を上げると、こちらに背を向けて天井に腰掛けていた。足をぶらぶらさせてるのだろう。また少し安心して、餃子に手を付けた。やはり美味い。

 弁当箱の中身があらかた無くなる頃に、俺の携帯が鳴った。画面には佐木吉宏とある。俺と同じ学科の友だちだ。かしゃん、と音がするので顔を上げると、彼女が金網に手をかけてこちらを見ていた。
「はい、もしもし」
『おう、今大丈夫か?』
「ああ、いいよ」
 彼女の顔が緊張していくのがわかる。俺が彼女のことを電話で伝えないかと気にしてるのだろうか。
『お前4限の源氏講読出るよな?出席取っといてくれねぇ?』
「……いいけどお前どこ行くんだよ。今日飲み会だっつってただろ」
『夜はちゃんと空けてあるよ。オケの練習だ』
「あー、わかった。じゃな」
『頼むぜー』
 電話を置くと、彼女が向こうから声をかけてきた。
「……あたしのこと言わないんだ?」
「言ってどうするよ。別に奴はカウンセラーじゃないからな」
 彼女は憮然として黙り込んだ。このまま放っておいてもよかったが、何となく俺は彼女と会話する気になった。
「飯食った?」
「食べてないわ」
「もらいモンの残りモンだけどカワハギ食うか?めちゃくちゃ美味いぞ。まだ箸つけてねぇし」
「結構」
 結構、ときた。なかなかいい言語教育を受けてる。
「腹が減ると人間短気になるもんだ。ヒステリーの気もあるし、できるだけ満腹にしといた方がいいぞ」
「誰がヒステリーよ」
「その声とかな」
「地声よ」
 そういう尖った声のことを言いたいんだが、その辺は敢えてずらしているんだろう。
「……じゃあ食っちまうか」
 最後の一切れだ。遠慮無く口に突っ込んで、お茶を探す。カバンの底に寝転がってて、ノートが邪魔で出てこない。ごそごそしてる間中口の中は甘辛い味でいっぱいだ。目の前に自殺志願者がいる前で何だが、かなり幸せな一時。お茶も出てきた。冷たい日本茶をくっと口に満たす。これぞ和の旨さ。
「これも何かの縁だし、一応飛び降りの理由でも聞いておこうか」
「……居場所がないからよ、この世のどこにも」
「居場所?」
 オウム返しに聞いてしまったが、どちらかというと彼女がすんなりとそれっぽいことを言ったのに驚いた。さっきから結構挑発的にしゃべってるので「言わない」とか「余計なお世話」とか言われると思っていた。
「ええ。家族も酷いもんだし、大学にも別に友だちがいるわけじゃないし」
「バイトとか」
「嫌な思いしかしたことない」
「そりゃー大変だな」
 大抵こういう八方ふさがりの場合、中高の気の合う友だちとかバイト先の先輩とか、実は愚痴るあてぐらいあるもんだが……。
「誰もあたしをあたしとして見てくれないのよ。バイト先に行けばそりゃ仕事はあるけどそんなの誰でもできることだし、あたしをクビにして別の人がやったっていい。学校でもあたしをちゃんと見てくれるような人なんていない。両親だってあたしがいい成績を取ればほめてくれるけど、取れなかったら役立たず扱いよ。自分の世間体のことしか考えてない」
 やはり愚痴るあても見つけていないらしい。初対面の俺に、前提条件もなくくどくどとこぼす。
「あたしがこれ以上生きてても、結局両親の人形で終わるだけだわ。目的も意味もない人生をこれから何十年も過ごすなんてやってられないわ」
 しかし残念ながら、彼女は愚痴る相手にも恵まれてない。つまり、俺は彼女に全く共感できない。
「生きてる目的とか意味のある人間なんているのかね」
 思わず言ってしまった。言ってからやばい、と思ったが彼女の耳には当然入ってしまった。
「どういうこと?」
 言葉に険が混じる。どこかで、自殺をしようと考える人間はとにかく言うことを聞いてやって、相手の言うことを否定してはいけない、と聞いたことがある。その人にとってはそれが真実だから否定して更に追い込んではいけないということなのだろう。が、俺は今思いっきり否定してしまった。下手すると背中を押してしまうかもしれない。
「生きる目的って何だよ?例えばさ」
「例えば?」
「どういうものがあるかってこと」
「何かを成し遂げたいとか、作りたいとか、発見したいとか、そういうのじゃないの?」
「そりゃ夢とか当面の目標だろ。生きる目的ってのは、これを成すために生きてるってこと。つまりは終わったら死んでいいようなものだ。残念ながら人間そこまで清廉に生きられるのはごく限られた一部の変人だけなんだな」
 わけがわからない、という顔をしている。少し安心した。これで恐慌を起こしかけているとヤバい。
「例えば。このケータイの基礎技術を開発したいと思ってる技術者がいたとする。で、生活も何もかも投げ打って開発に没頭してたとしたら、それは生きる目的と言えるわけだよな、あんたの論理からすると」
「……ええ」
「で、その技術者は15年ぐらい努力して基礎技術を開発することができました。特許も取れたし会社で表彰もされた。めでたしめでたし。で、この技術者翌日に自殺するかね」
「……しないわ」
「だろうな。俺もしないと思う。する理由がない。しばらく成功に酔いしれて、じきに次の目標を見つけてそれに心血を注ぐか、成功に溺れて何もしなくなるか。どっちにしても死なねぇよな」
 彼女は反論したそうな顔で、でも黙って俺の言葉を聞いている。非常にありがたい。
「あるいは生きる意味ってなんだろうな。俺が生きてることに意味があるかな」
「あるんじゃないの?あなた幸せそうだもの」
「俺が今幸せなのは美味いモン食ったからだ。別に生きてる意味あるって実感してるからじゃないぞ」
 少々恥ずかしいことかもしれないが、事実だ。彼女は意外だったのか少々戸惑ったようだったが、すぐに反撃してきた。
「でもあなたには友だちもいるでしょう?ちゃんと自分の意思で生きてるでしょう?」
「そりゃーな」
「それで十分じゃない」
「それさっき言ってたことと違うぞ」
「違わないわ」
 彼女の中では生きる意味と友人やなんかは一緒のカテゴリらしい。
「生きる意思は確かにあるけどさ。意味はないよ。俺が生きてても死んでても特に意味はない。俺が生きてて意味があると思うのは俺自身と親とかじいさんばあさんとかぐらいだ。別に恋人もいねぇし」
「友だちは?」
「残念ながら友だちとか先輩後輩ってのは換えが利くんだなぁ。ホントの親友ぐらいまでいかないと、例えば俺が急にいなくなったり死んだりしてもさっき電話かけてきた奴にとっては大学の友だちが1人いなくなった、で終わりだ。俺がいなくてもあいつの生活に支障を来さない」
「……‥」
「それが当たり前なんだよ、社会生活送ってりゃさ。ある人にとって換えが利かない人間なんて両手で数えられるぐらいしかいない。それがある立場にとってだったらまぁほとんどいないだろうな」
「立場?」
「会社とか所属してる組織とかから見た場合。会社に取ってなくてはならない存在なんてな、社員数にも寄るけど大企業ならほとんどゼロだ。中小だと社長は変わると会社としてのアイデンティティを失う可能性が高いからまぁなくてはならないと言えるだろうけど。組織の中では誰がやってるかは関係ない。重要なのは何をやってるかだけだ」
 彼女は押し黙ってしまった。俺は彼女の説を否定してはいるが彼女の存在を否定してるわけじゃない、と思ってるが、ひょっとすると彼女にとって見れば自分を全否定されていると思うかもしれない。俺はどうやってフォローするか、大急ぎで考えた。
「それじゃ生きてる必要なんてないじゃない。こんな酷い状態で」
「んー……そりゃー自分が何を見て生きてるかだよ。俺だって状態は悪くないけど別に生きてる必要はないぞ。ただ今日も昼飯うまかったし明日はなんか良いことがあるかもしれない。俺は死ぬのは恐いし痛いのは嫌いだし、楽しいこととか面白いこととかは好きだからな」
 だから生きてる。俺はどっちかというと生き物の本能を信じている。意地汚く生きようとする生存本能を。そして、飽くなき欲望を。
「……あなたは幸せだわ。だから生きていこうと思えるのよ」
「幸せになりたい?」
「当たり前じゃない!」
「じゃあ幸せになろうよ。人生いいこともありゃ悪いこともある。要は覚悟と気の持ちようだと思うよ」
 彼女は一瞬激昂しかけたが、俺の言葉に眉をひそめた。少し口調を柔らかにして、続けた。
「家族が冷たいってんなら家を出たっていい。もちろん生活費から何から自力で稼ぐのは大変だと思うよ。だけど世の中のフリーターの一部はそれをやってるんだし、大変だろうけど不可能じゃない。大学を中退して就職先探してもいいしな。しばらく今のまま我慢して自分の当面の目標を見つけるのもいい」
 俺は言葉を切って、立ち上がった。少しは落ち着いてきたように見えるし、十分関わりすぎた気がする。いや、単純にさっさと逃げたいだけか。カバンを取った。
「どんなことだってスムーズに進むとは限らないけど、人間努力次第でなんとかなるもんだよ。それに君が何をもって幸せと思うかってのはもう自分次第だし。今日も無事に飯を食えるのが幸せだと思えるようになれば、それだけで毎日が少しは楽しくなるんじゃない?」
「……どこ行くの?」
「あとは1人でゆっくり考えなよ。もう飯は食っちゃったし、言いたいことは全部言ったから」
 挨拶代わりに手を振って、階段を下りた。7階、3号棟の最上階まで来て、足を止めた。気になる。この後彼女がどうするのか。もしじっくり考えてやっぱりダメ、とかいうことになったら結局意味なかったわけだし、かといって制止なんてできない。既に賽は投げられたわけだが、さりとて結果もよくわからないまま放っておくのはさすがにきつい。進退窮まってしまった俺は、そのまま7階の階段前でぼーっと突っ立っていた。

 上の方から、ごごん、と音がした。屋上への扉が閉まる音。どきっとした。風で閉まったのか自重で閉まったのか。思わず階段に駆け寄って扉の方を見上げた。扉は、少ししか見えないが、閉まっている。そして階段を下りてくる彼女の横顔が見えた。思わず安堵のため息を漏らした。深く深く。
 彼女は踊り場まで来て初めて俺のことに気付いたのか、あら?と声を上げた。
「帰ったんじゃなかったの?」
「……そう思ったんだけどな。気になって」
「そ」
 彼女はそのまま階段を下りてきて、俺と並んだ。
「……もう少し、頑張ってみる」
「そっか。きついだろうけど、ムリしないようにちゃんと計算してな」
「計算……」
 彼女はそれを聞いて、ふっと表情を緩めた。まだ暗い影が取れてはいないが、それでもなかなかにかわいい顔になる。俺はふと思いついて携帯を出した。
「携帯、持ってる?」
「……一応あるけど、何で?」
「何もできないけど、愚痴ぐらいいつでも聞いてやるよ」
 彼女は驚いた顔で、慌ててかばんの中から携帯を探し出した。俺と同じ会社の、少し古いストレート。機種は俺の方が新しい。
「いいか?090の――」
 素直に番号を入力する姿は、なんともいじらしい。これも何かの縁だ。

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2003年05月11日

真衣の絵

 放課後。音楽室に行こうとする俺を真衣が呼び止めた。
「ねーねー、戒理ー!ちょっと待てよ」
「んー……ああ、こないだ言ってたヤツな」
 俺は真衣の机に向かうと、真衣はにこにこしながら紙袋の中から小さなキャンバスを取り出した。
 真衣は絵を描く。何故かは知らないが、大きくても B5 ぐらい、下手するとはがきサイズの小さなキャンバスを使って、大体月に1枚ぐらいのペースで描く。どうやらプロを目指しているらしいが、俺にはそれが可能なのかどうかはわからない。
 俺は絵は描けないし、正直言って良し悪しも分からない。だが、真衣は絵が描けると、必ず俺に見せてくる。
 今月の絵は、公園の絵らしい。晴れた青空の下、噴水の周りで子供がはしゃぎ回っている。絵に写っている風景からすると、どうやら近所の公園ではなく、わざわざ隣町にある市の中央公園まで行って来たらしい。水彩のタッチは優しく、なかなかに心が和む。
「いいでしょ?今回は癒し系だって評判いいんだよ」
 真衣は美術部に入っているので、大抵こいつの言うところの『評判』は顧問も含めて美術部内での評判だ。
「癒し系、ねぇ……俺、大概その言葉嫌いなんだよな。言いたい事はわかるけど」
「あー、戒理ああいう音楽嫌いだもんね。クラシックとかもやってるくせに」
「くせにとか言うな」
 俺は、これから音楽室に行こうとしていた事からわかるかもしれないが、吹奏楽をやっている。まぁ、うちの部自体は運動会とか卒業式とかで活躍するぐらいの大した事のないレベルだが。
「で、どう?」
 話を絵に戻そう。真衣がわざわざ絵心なんて親の腹に置いてきたような俺に絵を見せるのは、俺の感想が聞きたいかららしい。俺もその辺はわかっているので、少し考えてから返す。
「んー、なんつーか、素っ頓狂な絵だよな。今回は」
「は!?素っ頓狂!?」
 ……予測はしてたが、叫ぶな馬鹿。多少教室に残ってる連中が不思議そーな顔してこっち見てんだろ。
「何それ、どういう意味?」
「まず……お前のその声が素っ頓狂だ」
「関係ないし!」
 確かに関係ない。が、絶対に素っ頓狂と言ったらこういう反応はするだろうと思っていたので、実は感想を言う前に既に用意していた答えだったりする。
「まぁそれはいいとして。真衣、ちょっとお前窓の外見てみろ」
「……雨降ってるわね」
 そう、今は6月も半ばを過ぎた。梅雨真っ盛りだ。今日も朝からずっと、飽きもしないでさぁさぁと降り続いている。
「で、その雨がどうかしたの?」
「今は6月だ。雨降ってて当然だな」
「そーね」
 俺がこういう持って回った説明の仕方をするのはよくわかっているのだろう、変に急かさずに相槌を打った。
「それとお前、ここ数ヶ月暗い絵ばっかだったろ」
「……そーいえば。でもここ数ヶ月って冬だったし」
「4月に描いてた絵は春雷で、5月は雨に濡れた蝸牛だったろ。春って感じ全然しなかった」
「んー、なんとなく描きたい時に見えたのがそんなだったんだよね」
 こいつはどうやら描きたい物を見かけたらそれをじっくりと観察し、後でほとんど頭の中の図を描き出すようにして絵を作るらしい。資料も使うらしいが、それは例えば蝸牛の模様だとか、紫陽花の葉の形だとか、そういうぼんやりとしか覚えていない細かい部分を補強するためだと言っていた。
「ところがだ。このじとじとした季節にこんなすこんと晴れた絵を描いたら、素っ頓狂としか言えねーだろ」
「そーゆー意味……」
「まあ絵自体はいいんじゃねーか、風景写真みたいで。玄関先に飾っといたらいい感じだな」
 そう言って締めると、真衣は何故かじとりとこちらを見た。
「……なんだよ」
「要するに、戒理この絵嫌い?」
「何でそうなる?」
「だって結局一言も褒めてないし」
「いい感じだって言っただろうが」
「玄関先に飾っといたらって、要するに主張する物がないからでしょ!」
「……まぁそうだな。あくが強かったらそんなとこに置けない」
 なかなか鋭い。が、俺は別にこの絵が嫌いというわけではない。むしろ、こういう水彩の優しいタッチの絵は好きな方だ。くれるというのなら喜んでもらって帰る。ただ、この絵が訴えかける何かがあるかというと、素人目には感じられない。
「でも、あくが強いからいいってわけじゃないだろ。特にお前の場合」
「でもこういうタッチでも引き込まれる絵ってあるじゃない。そこまで行ってないって事でしょ?」
「行ってない」
「……じゃーダメだ」
 がっくりと肩を落とす。
 ……別に悪い事をしたわけではないが、微妙に罪悪感が湧いてくる。特にこの絵は自信があったようだから、俺があんまりいい風に取らなかったと見ると余計にがっくりきたのだろう。とりあえず肩をぽんぽんと叩いてみた。
「まぁそう気を落とすな。いきなりそんなすごい絵が描けたら誰でも名画家になれちまうだろ」
「うー……でもあたしは名画家になりたいのに……」
「先は長い」
 悟ったようなことを言ってはいるが、所詮は同い年の高校2年生だ。だが、真衣の中では何故か多少立ち直れたらしい。
「そだね……。うし、また描くぞっ!」
 そして、何故か俺に人差し指を突きつけて大声で宣言した。
「次の作品ではあんたにべた褒めさせてやるからね!覚悟しなさい」
「だから恥ずかしいから叫ぶなっつってんだろ。毎回毎回」
 毎回こう言っては、翌月にまた嬉しそうに作品を持ってくる。俺もその都度絵の出来によって褒めたりけなしたりだが、褒められた月も『次回はもっと』と言ってくるから始末に負えない。でも、絵を見せる時のなんだか嬉しそうな、それでいて不安そうな表情はまた見たいと思う。だから、俺は人とは違う事を言うようにしている。
「じゃあ俺は行くぞ」
「あ、今日は部活か。頑張ってねー」
「ああ」
 俺は真衣のように頻繁に(月一が頻繁かどうかはともかく)作品を見せる事はできない。例年5月と9月にある学校行事、それから7月の終わりにあるコンクールでしか演奏しないないからだ。それに、当然俺1人の作品ではない。だが、それでも俺はできるだけ真面目に練習して、少しでもいい演奏をしようとする。
 プロにはなれない、でも運動会や文化祭ではそれなりの演奏がしたい。それぐらいしか、俺は真衣に対抗できない。あいつと並べない。
 俺は楽器庫から自分の楽器を取り出して来て手早く組み立て、譜面台と電子メトロノームを持って廊下に出る。
 今日も、基礎練からだ。

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2002年06月29日

春雨

 高校からの帰り道。天気予報に従って大きめの傘を持ってきたから上半身は濡れずに済んだが、それでも久しぶりの強い雨に、鞄や膝から下までは傘のご威光もまるで効き目がない。はぁとため息を吐いて、高校生の恨みがましい視線など気にも留めない雨の中をぴたぴたと歩いていた。
 高校に入って自転車や電車で通学する友達が増えたが、まだ徒歩15分で家に帰り着ける。中学の頃から通っている代わり映えのしない道を、ほとんど前も見ずに歩いていたが、何のきっかけもなく不意に前を向く気になった。それに従って目を上げると、そこに1人の少女が佇んでいた。
 少女と言っても自分と同じかちょっと下ぐらい、セーラー服を着ているから外れているとしてもそれほど歳が離れているわけではないだろう。黒地のセーラー服はこの辺りでもよく見かける。実際、自分の通う高校も女子は黒地のセーラー服だ。だが、彼女のそれは毎日見慣れたものとは微妙に違うような気がする。大きな襟には白い3本のラインが入っている。遠目なので襟元の校章までは見えないが、自分の通っている松田第二高校の校章とは間違いなく違っている。襟元にぼんやりと見えるそれは銀色に見えたからだ。その下の胸元に思わず目が行ってしまう。そこは自らが女性である事を慎ましやかに主張していた。
緑為す黒髪は長く、それをまっすぐに胸元まで下ろしている。このひどい雨の中傘も差さずに立っているので、セーラー服が黒々と見える以上に黒く、濡れてしっとりと服や頬に張り付いている。正面から見たそれは、ほとんど見た事のない美しさと艶っぽさを彼女に与えていた。元々の容貌は、色っぽい大人びた雰囲気よりも少し子供っぽい印象が強い。笑ったらさぞかし綺麗だろう、と誰もが思う。確かに可愛い子だった。その顔が、今は呆然としているように見えた。ゆっくりと辺りを見回している。
 迷ったのだろうか、と不意に思いついた。この辺りは似たような家が並び細かい小路が無数にある。慣れない者が1つ曲がるところを間違えるとあっという間に迷子になってしまうのだ。彼女の左肩にかかった鞄もこの辺りでよく見る物ではない。何か書いてあるのかも知れないが角度が悪いのでここからは見えない。これだけ水に濡れているのに変色していないから、ビニールを皮っぽくした物なのだろう。中まではまだ水が通ってないかもしれない。
 彼女が時計を見た。珍しく左手の手首にした細い銀色の腕時計を見る仕草も、雨に濡れているせいか、彼女の細い手首と雨にも映える白い肌のせいか、心臓がどくんと跳ねるほど美しかった。普段は芸術と言われる物には疎い方だが、このまま絵にできるものなら、と思わずにはいられなかった。
 しばらく馬鹿のように突っ立っていたが、このままでいるわけにはいかなかった。我を取り戻すと、彼女に近寄った。心臓はこれまで同様、暴走した土木重機の様にめちゃくちゃな鼓動をしている。足が震えていないのは幸いだったが、表情はきっと強張っているだろう。そう思って、傘を持っていない方の手で顔を一撫でしてみた。もう1回。手を外して、深呼吸を一回。もう一度息を吸って声をかけようとしたその時、彼女が不意にこちらを向いた。人がいる事に気付いてなかったのか、少々驚いた顔をしていたが、すぐにぱっと笑顔になった。同時に、自分の頬がばっと染まるのを感じた。予想通り、いや、予想以上の可憐な笑顔だった。

 すみません、ちょっとおたずねしたいんですけど。

 雨水が伝う笑顔は子供のような爛漫さで一杯だったが、その声は鈴の鳴るような子供の声ではなかった。澄んではいるが、低めの落ち着いた声である。

 あ、はい。

 こんな時、滅多に省みない自分の言葉の拙さが呪わしく思える。ここで一寸気の利いた言葉を返す事ができれば、讃辞とまではいかないまでも、良好な評価を頂けるだろうに。たとえ今会って別れればもう道の交わる事のない仲であったとしても、一時その視線を浴びる事のどれほど気持ちのいい事か。

 この近くにある、南さんというお宅ご存じありませんか?

 少女は気にした素振りも見せず、強張った表情の学ラン姿に問いかけた。思わず首を縦に振りそうになり、なんとかその前に頭の中の地図を広げた。南、南、と考えていく。普段ならどうという事のない行為が、騒がしい体と反比例して白くなっていく頭ではひどく難しい。それでも何とか発見する事ができたのは、南、という名が2つあり、その片方が親友である事に負うところが大きいだろう。もう片方は、彼の母親の行きつけの八百屋だ。

 ……2軒あるんですが、八百屋の方ですか?

 これまた、口から出てきた自分の言葉の平凡さに落胆する。しかし、言い直そうにも言い直した言葉の方がひどいものになるという確信めいた物があった。少女は小首を傾けてしばらく考えた末、首を横に振った。滅多に見ない、あまりに少女らしい仕草に再び魅せられていたので、一瞬少女が動いた事に気付かなかった。数秒ずつ遅れて、彼女が我が親友宅の客である事を理解すると、ついてくるように言って先導するのが早いという考えはすぐに出てきた。そっちの南家は家に近いので、大した回り道にもならないし、彼女に説明してもこの雨ではまた路地を一本間違えて迷うおそれが強い。そこまで考えて、はっと気付いた。

 あ、その、傘……。

 え?

 少しとまどっていた少女だったが、自分が傘を差し出すと、遠慮して手を横に振った。もう同じだからと。でもこのままずっと雨ざらしで自分が傘に入っている気には最早なれない。遅すぎると言えば遅すぎるが、それでもしないよりはマシだろう。もう一度少し前に差し出すと、少女はそれでも遠慮がちに、礼を言ってそれを受け取った。雨は頭と言わず肩と言わず直に打ち付けてくるが、自分はほっとして、少しだけ流暢に続きを言う事ができた。

 じゃ、ついてきて下さい。こっから十分もかかりませんから。

 再び戸惑った様子の少女にぐっと背を向けて、先に立って歩き始めた。しばらく迷っているのか動く音がしないので足が緩んだが、少しして、ぱしゃぱしゃと後ろから追いかけてきたのがわかって、これまたほっとした。

 すみません、わざわざ。

 いや、うちもこっちなんで、ほんとについでです。

 それから十分間、それ以上の会話は無いまま、彼女は自分についてきた。聞きたい事は山ほどあった。名前や歳も聞きたいし、我が友人の南圭治とどういう関係なのかも知りたい。何のために、どこから来ていつまでいるのか、何故傘も持たずにぼうとしてたのか。全ては頭の中で何度となく聞かれ、その答えは雨音でかき消され、頬を伝って流れ落ちた。南家の門前で、ようやくもう一度じっくりと彼女の顔を見る事ができた。

 すみません、ありがとうございました。

 いえ……。

 どういたしまして、とも言えない自分が情けない。細い指に握られていた傘を無骨な指で受け取って、彼女が門に入るのを意味もなく見届けた。晴れた日にはふわりと踊るであろう後ろ髪が、重く濡れて服に張り付いている。南家の黒い門に白い指がかかり、慣れた手つきで開閉する。そうして、玄関までの小さな階段をぱしゃぱしゃとリズミカルに登っていく。わずかに見えた横顔は、一人で立っていた時の憂いにも似た無表情など嘘であったかのように、ずっと浮かべていた少女の笑みをより深めていた。黒く濡れた髪が同じように少し赤い頬に、細い首に絡みついているが、艶やかな感じは最早どこにも残っていなかった。
 玄関が開くまでずっと見ていてもよかったのだが、何となくきびすを返した。圭治と仲良さげな様子を見るのが嫌だったのかも知れない。それとも、あの雨露に濡れた天使を、人間だと思いたくなかったのかも知れない。傘を畳んでみようか、と思ったが、それも止めておいた。柄にもない。そう思うと、また1つため息を吐いた。

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2002年06月12日

思い出

 彼女が死んだ。
 その話題は、10年振りのクラス会でもほとんどみんなの口に上らなかった。ざわついた中途半端に狭い会場の前の方で、高校3年目のクラスの縁を10年以上大事に持っていた数人の内の1人が挨拶に立った時に、まるで時候の挨拶のように触れたぐらいだった。
 僕がそれを知ったのは、彼女がこの世界にいなくなってから1ヶ月ほどが経った頃だったらしい。彼女の死を伝えられた時、そう聞かされた。僕が彼女の顔を見なくなってから、もう1年ぐらい経っていた頃だった。たまたま同じ1つの部屋に押し込まれた僕らが、その部屋を抜け出してから1年が経っていたのだ。
 その時、僕は驚いた。それだけだった。

 顔は、まだぼんやりとだが覚えている。声ははっきりしない。彼女の声を最後に記憶してから、いろんな声を耳に入れ記憶してきたので、顔とは違って変色しやすい声は、既に元の色が判然としないほど褪せてしまった。でも夏の講堂に響いていた作り声だけはなんとなく、信用できそうな色をしている。
 僕はその時、ぼうっと彼女を、他のみんなを、壁の外から眺めていただけだった。その夏、僕は別の世界を持っていて、彼女や他のみんなが入ってこないその世界で、みんなとは違う苦楽を感じていた。今ざわついているこの会場では、その時の僕とみんなとの間にあった透明な壁を、みんなが持っている。あの時は同じ世界にいたみんなが。
 未だに道が重なっている人もいる。遠く離れてしまった人もいる。偶然道が再び交差した人もいたらしい。誰もが、今よりも子供だった日々の面影と思い出を持って、ここに来た。僕はそんな人たちを見ながら、くどいソースのかかった生ハムを適当に噛んでいた。彼女の面影を引きずって来たわずかな人も、きっと夜が更けてからアルコール臭いため息と一緒にそれを吐き出すのだろう。思い出の中にすら振り落としてくる事のできなかった、それぞれの世界の重荷と共に。

 彼女は死んだ。

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