2006年01月04日

気まぐれ

 土曜日の午後。一週間で一番のんびりした気分になる日。晴れていたから、朝ご飯の片付けを終えてから、いつも通り散歩に出た。
 少し古い一軒家が軒を並べる住宅地を抜けて、川に出る。そこから土手をまっすぐ歩いて線路にぶつかったところで曲がって商店街に入るのがいつものパターンだ。今日も、手入れの行き届いた植木鉢を見ながら川辺に出た。
 平日だとあまり人もいないけど、土曜日には私みたいに散歩をしてる人がいたり、ジャージ姿でランニングをしてるおじさんがいたり、子供たちが土手を転げ回ったりして、結構人がいる。それでも、人の多いところと少ないところはあるもので、ふと気付いたら辺りは静かで、その静けさを背景に、何か楽器の音が聞こえてきた。柔らかくて優しい音色。
 どこかで聴いたような気はするけど、あいにく楽器とかには詳しくないから、何の楽器かまではわからない。いつもはオーケストラとかバンドとか、とにかくいろんな音が混じってる音を聴いてるせいもある。
 これが何の楽器で誰が演奏してるのか、気になって、土手の下の方を見ながら歩いていると、土手の下できらりと何かが光った。思わず駆けだしてしまった。
 そこには、トランペットを構えたお兄さんがいた。

 私がそばに降りていくと、その人は楽器を吹くのを止めてこちらを見た。
「あ、気にしないで、続けてください」
「……いや、気にしないでって言われても……」
 お兄さんは苦笑したが、私が「そばで聴きたいから」と言うと、少し嬉しそうな顔をして、楽譜に向かった。さっきは見えなかったけど、ずっと楽譜を見て吹いていたみたいだった。
 無造作に楽器を構えて、すっと息を吸った。さっきまで聞こえていた柔らかい音が、トランペットから流れ出す。すごく真剣な目で楽譜を睨みながら、ほとんど音を途切れさせずに吹いた。
 低い音を長く伸ばして、たぶんこれで1曲が終わったのだろう、唇を離して大きく息を吐いた。私が拍手すると、お兄さんはちょっと驚いて、それから笑った。
「トランペットって、そんなに優しい音がするんですね。私、もっとすごく大きな音が出るんだと思ってました」
「ああ、そういうのもできるよ」
 そう言うと、私が止めるより早く楽器をすっと構えて、さっきより大きく息を吸った。近所の学校から流れてきたのを聴いたことがある、マーチだった。間近で聴くと、耳がキーンと鳴りそうなぐらいの音量だ。私が耳を塞ぐと、彼はすぐに吹くのを止めてくれた。
「す……すご……」
 まだ少し頭がくらくらする。そんな私を見て、彼は楽器を口から離して、くすくすと笑った。
「マーチとかやる時はこんなん。普段はさっきみたいに柔らかい音出すようにしてるけどな」
「へー……」
「この辺だったら知ってるんじゃない?」
 そう言って楽器を構えると、目を閉じた。息を吸うと、そっと吹き始めた。さっきみたいな大きな音が来るかと思って少しびくびくしていたけど、今度は最初に聴いたような柔らかい音だった。
 楽譜も見ないで演奏しているその曲は、確かに聞き覚えがあった。何年か前に流行ったバラードだ。元々は女性の曲だけど、トランペットの低めの柔らかい音でもすごく自然に聞こえる。それだけ、この人はうまいんだろう。1コーラス吹いて、メロディーが変わった。普通のメロディーと似てるけど違うメロディーを、さっきよりもずっと感情豊かに吹いた。不自然な感じは全然しなかった。
 お兄さんが口を離すまで、私はほとんど息もせずに聴いていた。じっと耳を澄ませていたから、自分が拍手したときに、土手の上からも拍手が聞こえてきたのでびっくりして思わず振り向いた。ジャージ姿のおじさんが、走ってる途中に聴いたのだろう、ひとしきり拍手をして、また走っていった。お兄さんはおじさんの背中に手を振った。
「すごいですね……」
「そうでもないよ。3年もやってりゃこれぐらいで普通」
「本当ですか?あたしでも?」
「真面目にやればね」
 お兄さんは励ますように笑ってくれた。私は思わず笑い返すと、お兄さんに頭を下げた。
「お願いします、あたしにトランペット教えてください!」
 少し待つ。返事はなかった。困らせたかな、と思って、恐る恐る目を上げると、やっぱり困った顔をしていた。でも、できればこの人に教わりたい。この人みたいに吹けるようになりたかった。
「お願いします!」
 もう一度頭を下げた。お兄さんは私の頭をぽんぽんと叩くと、まぁ頭を上げて、と言ってくれた。
 2人で並んで、土手の坂に腰掛けた。
「別に教えるのが嫌だとかめんどいとかじゃないんだけどさ。楽器やるとなると、とりあえず楽器買わないと」
「……そういえば、いくらぐらいするんですか?」
「まぁざっと10万ちょい」
 私は思わず絶句した。10万円なんて、まだ見たこともない。でも、お母さんを拝み倒して何とかしようと思った。ピアノを習ってる友だちもいるし。
「後ね。3年真面目にやればって言ったけど、俺も最初の半年ぐらいは先生についてたんだよ。で、その時期に基礎の部分をみっちりやって、残りの2年半で曲やったりいろんなトランペッターの演奏を聴いて真似したりしてたんだけど」
 一旦そこで言葉を切った。私は真剣に頷いた。
「最初の半年ってのが結構重要でね。そこでしっかりやって基礎を作っておけば後で伸びやすい。伸びやすいんだけど……まず俺がいつまでここにいるかわかんないからさ」
「え?」
「俺元々ここの人じゃないんだよ。先月来たばっかり」
 それを聞いて最初はびっくりしたけど、よく考えたらそうかもしれなかった。ずっとこうやって練習してた人がここに住んでたら、もっと前にどこかで見たことがあってもおかしくない。
「ずーっとあちこち渡り歩いてるからさ。ここもそんなに長くいるつもりはないしね。だからいつまで君を教えられるかわかんない」
「……誰かに追いかけられてるんですか?」
 私は真剣に訊いたつもりだったけど、お兄さんは聞くなり大笑いした。
「いやいや、別に借金取りに追われてるわけじゃないんだけどさ。俺、飽きっぽいんだよ。だからここにいても、3ヶ月とか4ヶ月とか経ってくると別のところに住みたくなるんだよね」
 私は心配したのに笑い飛ばされたのと呆れたのとで少しむくれた。それに気付いてないように、お兄さんは続けた。
「まぁ他にもいろいろあってね。今は大抵1年と同じところにはいないようにしてるんだ」
「……じゃあ、いる間だけでもいいですから」
「いる間だけでいいなら別にかまわないけど……。あ、それと君いくつ?」
「中1です」
「学校に吹奏楽部かオーケストラ部ない?」
「……たぶんあると思いますけど」
「まぁあるだろうな。そこに入りなよ。管楽器は1人でやるもんじゃないからね。俺がいる間は基礎を教えるし、学校で曲の練習したり友だちといろんな話をするのもいい経験になるよ」
 意外なことを言われた。お兄さんは1人で吹いてたし、それでもすごくかっこよかったから、1人で吹く練習をするものだとばっかり思っていた。そう言うと、お兄さんは首を振った。
「俺も別に1人でずっと吹いてるわけじゃないよ?その辺のジャズバーとかで飛び入りで演奏したりするから。そういう時は他に4人か5人と一緒に演奏するんだよ」
「バーですか……」
 なんかすごくかっこいい。プロの演奏家だ。
「この近所にもちっちゃなとこがあって、ここんとこよく出入りしてるんだ。あ、君は出入り禁止な」
「なんでですか?」
「バーは夜しか開いてないし酒飲むところだから18禁」
 まぁ、そう言われてしまうと仕方がない。こっそり行けばいいだろうし。
「ま、それはいいや。それはともかく、人とやるのはいろいろと自分だけじゃわかんないことがわかるからね。せっかくすぐそばにあるんだし、周りも歳近いんだし。使わない手はないよ」
「はい。……って、じゃ、教えてくれるんですか!?」
「ん。いつ卒業になるかわかんないけど、それでよければいいよ。楽器買ったら持っておいで」
「はいっ!」
 私は思いきり叫んでいた。お兄さんはそんな私を見て、笑っていた。
posted by alohz at 00:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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