2010年08月24日

水の時間

 舞台を見た。もう数年ぶりの演劇は、ニューヨークで暮らす日本人とタイ人の話。失って初めて相手がいることの大切さに気付く、という話に、日本人のダメ文学青年とタイ人の現実的な女性、隣人のオカマタイ人という取り合わせで味付けがされていた。
 率直に言って、物足りなかった。女優の卵を演じた彼女は素人目には見事に演じていた。起こっている時は心底居心地が悪かったし、泣いている時にはもらいそうになった。もう一人のタイ人、オカマの隣人はあまりにも自然に空気を変えた。最後の挨拶で自分で言ったとおりのことをしていた。だが幕が下りた時、ストーリーの肝心なところが存在しないと思ってしまったのだ。
「例えばどんな?」
「……それをどうするかが脚本の腕の見せ所なんだよ」
 友人の問いに、僕はそう答えた。もちろん逃げたのだ。友人は僕が作家たらんとしていることを知らない。だから、最も追求されにくい回答を半ば無意識に仕立てて隠れ蓑にした。
 愛しい人を喪った時。あまりにもその人に甘えすぎ、受け取るばかりだったと気付いた時。脚本家たる主人公が取った手段は納得のいくものだった。だが、その描き方があまりにも短く、あっさりし過ぎていた。だから、それだけ?と思ってしまったのだ。
 野村美月の『“文学少女”と神に臨む作家』で、主人公の井上心葉は、ずっと気付いていなかった、自分を見守ってくれたたった一人をつなぎ止めるため、恋人を捨てて小説を書き上げ、それでもなお彼女を引き留めることができなかった。そうして大切な人の背中を見送った彼は、彼女に近づくためにずっと逃げ続けていた作家への道を歩き出した。脚本家も同じことをしたのだ。それなのに、たった一本の脚本で燃え尽きてしまった。脚本家は弱すぎ、それ故に観客に伝えるべき言葉を持っていないように見えた。
 今、友人が隣にいたら、僕はこう答える。
「例えば、脚本を書きまくって、紙に埋もれて死にかかってるところを隣の人に発見されて即入院。で、脚本はまとめて制作会社に送るんだ。で、ボロクソに言われて突っ返されて、仕方なく知り合いの役者に頼んで自分で撮っちゃう。で、何年かして、馬鹿にしてたテレビの脚本で食いつなぎながら、月に一回上演して、隣人が『もう止めたら?あの子が生き返るわけじゃないのよ?』って言うのに、こう答えるんだ。『俺はあの子の笑顔を毎日見たかったんだ』って。それに呆れて隣人が退場して、代わりに一人の女の子がやってきて、『ありがとうございます』って言って、エンド」
 長いよ、という友人の顔が目に浮かぶ。長くてもいいのだ。僕にとっては、それが必要なのだ。
 僕は神に臨まない。ただ悦楽に飢え乾くだけの亡者は、心のままに言葉を繰るだけだ。

posted by alohz at 22:27| Comment(0) | TrackBack(0) | [短編]日常の風景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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