2006年04月18日

ピアノマン

 その男は、小さな公園のベンチに寝転がっていた。所持品はない。薄いブルーのワイシャツとチノパンに、くたびれたジャケット。無精ひげはそろそろ目立ち始める、という頃合いだ。
 朝の散歩に来た老人は、まだ若い彼の顔を見て、酔っ払いだと思って無視した。愛犬の散歩に来た少女は、彼の着古した服を見て、浮浪者だと思って無視した。朝のおしゃべりに集まってきた主婦たちが、気味悪がって警察に届けた頃には、すでに太陽は高く上がっていた。
 主婦に促されて、近くの交番から来た警官が男の肩を揺り動かした。最初はそっと、次は強く。男はかすかに呻き声を上げ、目を開けた。
「大丈夫か?こんなとこで寝てちゃダメだろう」
 警官も、最初に見た時からこれは酔っ払いだと思っていた。繁華街にほど近いこの地区に回されてから、彼はよくこの手の酔っ払いが朝まで寝ているのを起こしていた。
「ほら、起きた起きた。もう10時半だぞ」
 しかし、男は目を開けこそしたが、すぐにまた目を閉じてしまった。警官は一瞬いらっとしたが、すぐに違和感に気づいた。男の様子は、見慣れたうるさげな反応とは少し違っていたのだ。よく見れば、呼吸の仕方が普通より荒い。一瞬合った視線も、あまり焦点が合っていなさそうに見えた。
 少し迷って、彼は携帯を出した。

「身元不明……ですか」
 丹沢医師は、目の前の若い警官の言葉を思わず繰り返した。忙しい日常を過ごしている身には、耳に馴染まない言葉だ。自分の職場である金元第一病院のロビーで聞くと、逆に現実感がない。
 警官は頷いた。
「ポケットの中身も空で、財布すら入っておりませんでしたし、洋服もずいぶん古い上に、タグが全て切り取られていました。一応写真を公開して情報を集めるつもりですが、今のところ彼の身元を示す情報は何もありません」
 生真面目に答えた。丹沢医師はあまり面白くない結論が見えてきた。
「つまり、彼を当院で預かれ、ということですか?」
「いえ」
 意外な返答が来た。それが顔に出てしまったのか、警官は続けて説明した。
「先ほどの診断の結果から、彼は肉体的には健康だということになりますよね。ですから、当面は警察病院に転院していただくことになります」
「なるほど」
 ほっとした。丹沢医師が件の患者の預かりを嫌がったのは、身元がわからないからではない。2日前に運び込まれてきたこの患者は、疲労こそしていたが、丸1日で健康体に戻った。しかし、その間の診断の反応から、精神的に何らかの病を患っている可能性は高い。そして、彼の勤める病院には精神科はない。
「では、今日の午後には退院できるよう手続きをしましょう」
「はい、よろしくお願いします。それから、転院に必要な手続きについてもお願いできますか?」
「ええ、それはもちろん」
 警官は欲しい結論を得ると、どことなくロボットのような礼をして、その場を辞した。残った丹沢医師も、仕事に戻る。彼が診ている患者は、1人ではないのである。

 その男は、全く語ろうとしなかった。転がっていたベンチから引きはがされた時も、病院で食事を出された時も、「退院だ」と言われた時も、口をきくことはおろか、眉1つ動かさなかった。言葉だけでなく、表情ですら語ることはなかった。担当の看護婦は数度話しかけて、あっさりと諦めた。担当の医師はそういうわけにもいかないが、事務的な問いかけにすら全く反応を示さないので閉口した。
 そして、新しくあてがわれたのは別の病院の個室だった。個室といってもそれほど広くはない。必要十分、という言葉を思い出してしまうくらいだ。
「名前は?」
「住所は?」
「どうしてあのベンチに寝っ転がってたんだ?」
 新しいベッドに座っていると、時々若い警官が来て、いろいろなことを訊いた。それに対しても、彼は一言も答えず、ただ黙って俯いていた。警官も、自分の座っている病室が精神科病棟だということをわきまえているので、手のつけようがない。
 彼は、しかし人形のような状態ではなかった。食事を出されればきれいに平らげ、看護婦が呼びに来ると風呂に自分で入る。服も自分の物は警察にあるので、病院服を一日着ている。スリッパも使う。ただ、語らなかった。周囲からは、他者というものを否定しているように見えた。名前もわからないと、仕事にも支障が出る。誰が言い出したのか、医師や看護師は彼のことを國木田さん、と呼んでいた。
 精神科病棟に来てから2日が経った。しとしとと雨のたおやかに降る日。何1つ刺激のない病室にはさすがに飽きたのか、國木田はベッドから降り、病院の中を歩いた。
 ロビーには人が出入りしている。外が雨なので、國木田が初めて通った時と比べると、薄暗い印象を受ける。植木と採光窓がいくつもあるので、晴れているとアトリウムのように明るいのだが。
 病室の間を歩いていると、ロビーほどではないが、時々人とすれ違う。患者より見舞客と、見舞客より看護婦とすれ違った。普段とは違う病棟なので、顔見知りはいない。1階を全て見て回って、普段いる病棟に戻った。玄関ロビーで繋がっているこの病棟の奥に、精神科の共同スペースがある。普段は入らない場所に、國木田は足を向けた。
 共同スペースとは言っても、テーブルがいくつかとテレビが1つ、置いてあるだけだ。あまり他の人がいるのを見たことがない。今日も見舞客らしき母娘が、隅っこのテーブルでぼそぼそと何やらしゃべっているだけだ。何を見るでもなく、結局病室に戻った。
 その夜。國木田は暗闇の中で仰向けに寝転がったまま、考えていた。これからどうすべきなのか。今のところは病院に厄介になることにするとして、その後はどうするか。
 彼は自分の基盤を失っていた。サイズもきちんと合っていない服を無理矢理着せられ、真夜中に明かりもないところで車から蹴落とされた。自分の声が出ないことは大したことではない。数日前の苦痛と比べればマイナスとも思えない。しかし、あれほどの苦しみを経て得たものが、身元不明の入院患者という肩書きだけだという現実は、堪えがたい。さらには、自分を縛っていた鎖が一夜にして全て消え失せたことに対して、喜びよりも不安を感じていることも堪えがたい。
 表情を作ることも思い出せないまま、國木田は沈黙のように柔らかくのしかかってくる不安と戦っていた。

 翌朝。担当医の増田が國木田に手渡したのは、A4 サイズのスケッチブックと12色入りのペンだった。
「何か絵を描いてくれるかな。テーマは特にないから、思いついたものを描いてくれ」
 國木田は頷きもせずにスケッチブックとペンを受け取った。少し考えていたが、黒のペンを取ると、サラサラと絵を描き始めた。隣でその様子を見ていた増田の表情が、段々驚きのそれに変わっていく。
 太いペンで國木田が描き出したのは、ピアノだった。それも、ホールなどでよく見かけるグランドピアノが寸詰まりになったような形をしていた。左右に余白があるから、紙の大きさの都合ではなく、彼の心に映っているピアノがその形なのだろう。黒く塗るべきところはきっちり黒く塗り、太いペンで器用に鍵盤を描き出していく。
 國木田は相変わらず黙して、ただ描いた。サスティンペダルを描いて、ピアノの足に付いている車輪を描いて、ようやくペンを置いた。見直しでもするようにじっと見て、増田にスケッチブックを戻した。
「すごいじゃないか。見本も見ずにこんなにきれいに描けるなんて……絵で食っていけるな」
 そう言って笑顔を向けた。國木田は一応顔を増田の方に向けてはいるが、反応はしない。少しアテを外された増田は、もう一度スケッチブックを國木田に渡した。
「じゃあ次は、木を描いてくれ。地面に生えてる方の木だ」
 増田の言葉に、國木田はもう一度スケッチブックを開いた。ピアノの次のページに、これも黒ペンだけを走らせた。真ん中より少し左寄りに、柳の木を描いていく。今度はピアノよりも時間をかけて、それでも増田が見た中ではトップクラスに速く、きれいな線を引いている。全体に木の幹には影がかかっているが、細身の幹のラインは女性の腰のような魅惑的な曲線を描いていた。増田は、思わずため息をついた。
「君は絵が得意なんだなぁ。こんなに迷わずさっさと描いてく人なんてそうそういないんだが……」
 國木田は褒められたという感情を持たなかった。目で見たものを細かく記憶することもそれを絵に描くことも、國木田にとっては生きていくための技能の1つでしかない。
 増田はしばらくピアノの絵を眺めていたが、ふと國木田を見た。その顔を少し見て、一つ頷いた。
「ちょっとついて来てくれないか?君に見せたいものがあるんだ」
 そう言うと、返事を聞かずに立ち上がった。数日の経験で、國木田相手に何かをして欲しい時は有無を言わせずに行動を始めてしまうのが正解だと学んでいるのである。そして彼の見込み通り、國木田は警官の勝手さに溜め息をつきもせず、立ち上がった。

 増田が國木田を連れてきたのは、一階にある共同スペースだった。相変わらず人影がまばらなスペースの、奥の方に導いていく。
「これが見せたかったんだ。弾いてもいいよ」
 そう言った増田の後ろには、グランドピアノがあった。カバーは少々埃っぽい色になっていたが、コンサートグランドと呼ばれる、堂々たるグランドピアノだ。國木田の絵を見て、ピアノになら興味を示すかと思ったのだ。しかし、彼のの表情は動かない。
 失敗か、と増田が肩を落としかけた時、國木田がすっと歩き出した。ピアノの椅子に腰掛けると、ごく自然な動作でピアノの上蓋を開け、鍵盤の蓋も開けた。赤いフェルトをピアノの蓋の上に軽く放って、鍵盤に指を落とした。
 増田の表情はどんどん緩んでいった。彼の想像は当たっていたのだ。グランドピアノから流れ出したのは、力強いタッチの「Imagine」だった。ピアノソロ用にアレンジされたものなのだろう、右手でメロディーを、左手で和音を弾いている。それも、そう難しいものではない。しかし、簡単な曲ながら、國木田の指の動きは滑らかで迷いがない。おそらく何度となく練習したのだろうと思わせる演奏だった。
 ジョン・レノンの名曲が終わると、國木田は手を下ろしてふっと一つ息をついた。が、すぐに指を鍵盤に戻し、次の曲を弾き始めた。今度は増田の知らない曲だった。これも淀みなく弾いていく。
 増田はそっと、國木田の表情をうかがった。その横顔には、やはりいつもと同じく何の表情もないように見える。だが、増田はどことなく真剣な雰囲気を感じ取った。
 2曲目が終わると、増田は思わず拍手をした。
「すごいじゃないか。今のはなんて曲なんだ?」
 しかし、國木田は答えなかった。答えないだけではない、質問を投げかけられたことに対して全く反応していなかった。次の曲が始まって、自分が完全に無視されたことを知った増田は、いつものことながら一抹の苛立ちを覚えた。仕方ない、仕方ないんだと自分を抑えながら、増田はそばにあった椅子に座った。彼が國木田に使える時間はまだ20分以上残っていた。

 國木田はほっと脱力して、鍵盤から指を外した。ふと我に返ると、周囲には人だかりができている。それぐらいで表情が崩れる國木田ではないが、さすがに内心では少々驚いた。ピアノを片付けて、席を立つと、聴衆はなんだかんだと言ってきた。皆口々に誉めそやしているのだが、当人はまるで聞く気もないので、何を言っているのかまで理解していなかった。國木田はどちらかというと、増田という若い医者の姿がないことの方が気になっていた。無論、実際には別の仕事に行かねばならなかったため、後ろ髪を引かれる思いでこの部屋を後にしたのである。
 病室に帰りながら、國木田の心は自分の指が思いの外スムーズに動くことに占められていた。絵は仕事に使うために覚えた。しかしピアノは完全に趣味だった。仕事に使うことなどできず、そのためここ数ヶ月はピアノに触れていなかった。まだ弾けたのだ、という驚きと、喜びがあった。
 國木田は、独り言も含めて病院では一切口を利いていなかった。それが必要なことだからでもあるし、元々あまり喋らないように習慣付けていたせいで無口になったのもある。表情を変えないことも含めて、苦痛を感じることはなかった。それ自体は良くも悪くもない。ただ、感情の起伏が表情に合わせて緩やかになっている自分を実感するようになって来た。
 彼はここ数日で急速に「國木田」になりつつあった。
(‥‥いつまで待たせるのだ、あいつは‥‥)
 表情を変えず声帯を震わせることすらなく、國木田の一瞬の感情は空気に溶けていった。

posted by alohz at 00:11| Comment(0) | TrackBack(0) | [短編]音楽的 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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