2003年11月12日

生存本能

 昼休み。いつものように3号棟の屋上に上がると、珍しく先客がいた。そして更に珍しいことに彼女――その先客は女だった――は屋上に申し訳程度についているフェンスの外側にいた。穴の小さい金網をしっかりと掴んだ手がかすかに震えているのを見ると、遊びとか肝試しで柵を越えたわけではないらしい。
「おーい、そこの彼女」
 やる気無く呼びかけると、彼女は本気でびっくりしたようだった。ばっとこちらを振り向くなり、一言「来ないで!」と叫んだ。一瞬振り返った弾みに落ちないかと肝を冷やしたが、大丈夫だったようだ。ほっとして足を止める。見たことのない顔だが、今時珍しい緑なす長い黒髪の大人びた美人だ。が、その表情の端々に暗い影が見えるような気がする。顔色に疎い俺に言われるぐらいだから、きっと周囲からは闇を背負ってるとか何か取り憑いてるとか思われているんだろう。顔立ちが整ってるだけにあはれを誘う。哀れではない。
「……そこ、あんまり派手に動くと危ないよ?いくら女の子だって言ったってそのフェンスが重みに耐えきれるとは限らんし」
「放っといてよ!こっから飛び降りるんだから」
 言わなくてもわかることを言う俺も俺だが、見ればわかることをわざわざ叫ぶとこからすると、彼女相当キてる。これは下手すれば本当に落ちる。ここで言葉を交わしたが最後だ。俺が毎日昼にここで飯を食うのは同じサークルの連中なら誰でも知ってるし、彼女が今落ちれば俺が家族や警察から加害者扱いされるのは間違いない。
「落ちんのは勝手だけどさ。俺これからここで飯食いたいからその間は勘弁してくんない?突き落としたとかなんとか警察に吊るし上げ食うのごめんなんだよ」
 俺はそう言うと、いつも通り扉の正面のフェンスに背中をもたせかけて座ると、カバンから弁当を出した。来るなと言っていたのに多少近づきはしたが、俺の定位置がたまたま彼女のいるフェンスではないせいか更に叫ばれはしなかった。今日の弁当は手前みそだがなかなか美味そうだ。昨日飲み会で餃子をしこたま作ったのでそれの残りを焼いて、ご飯もチャーハンにしてみた。サラダはさすがに中華風にはならずポテトサラダだが、これもこれまでで最もいい出来だった。更に昨日の飲み会で友だちが持ってきてくれたカワハギも隙間埋めに突っ込んでおいた。これはまぁ少し趣向が違うが単体で食うとうまい。
 俺が全く気にせずに食べ始めたので呆れたのか、彼女は静かなままだ。一瞬無言で落ちたかと思って顔を上げると、こちらに背を向けて天井に腰掛けていた。足をぶらぶらさせてるのだろう。また少し安心して、餃子に手を付けた。やはり美味い。

 弁当箱の中身があらかた無くなる頃に、俺の携帯が鳴った。画面には佐木吉宏とある。俺と同じ学科の友だちだ。かしゃん、と音がするので顔を上げると、彼女が金網に手をかけてこちらを見ていた。
「はい、もしもし」
『おう、今大丈夫か?』
「ああ、いいよ」
 彼女の顔が緊張していくのがわかる。俺が彼女のことを電話で伝えないかと気にしてるのだろうか。
『お前4限の源氏講読出るよな?出席取っといてくれねぇ?』
「……いいけどお前どこ行くんだよ。今日飲み会だっつってただろ」
『夜はちゃんと空けてあるよ。オケの練習だ』
「あー、わかった。じゃな」
『頼むぜー』
 電話を置くと、彼女が向こうから声をかけてきた。
「……あたしのこと言わないんだ?」
「言ってどうするよ。別に奴はカウンセラーじゃないからな」
 彼女は憮然として黙り込んだ。このまま放っておいてもよかったが、何となく俺は彼女と会話する気になった。
「飯食った?」
「食べてないわ」
「もらいモンの残りモンだけどカワハギ食うか?めちゃくちゃ美味いぞ。まだ箸つけてねぇし」
「結構」
 結構、ときた。なかなかいい言語教育を受けてる。
「腹が減ると人間短気になるもんだ。ヒステリーの気もあるし、できるだけ満腹にしといた方がいいぞ」
「誰がヒステリーよ」
「その声とかな」
「地声よ」
 そういう尖った声のことを言いたいんだが、その辺は敢えてずらしているんだろう。
「……じゃあ食っちまうか」
 最後の一切れだ。遠慮無く口に突っ込んで、お茶を探す。カバンの底に寝転がってて、ノートが邪魔で出てこない。ごそごそしてる間中口の中は甘辛い味でいっぱいだ。目の前に自殺志願者がいる前で何だが、かなり幸せな一時。お茶も出てきた。冷たい日本茶をくっと口に満たす。これぞ和の旨さ。
「これも何かの縁だし、一応飛び降りの理由でも聞いておこうか」
「……居場所がないからよ、この世のどこにも」
「居場所?」
 オウム返しに聞いてしまったが、どちらかというと彼女がすんなりとそれっぽいことを言ったのに驚いた。さっきから結構挑発的にしゃべってるので「言わない」とか「余計なお世話」とか言われると思っていた。
「ええ。家族も酷いもんだし、大学にも別に友だちがいるわけじゃないし」
「バイトとか」
「嫌な思いしかしたことない」
「そりゃー大変だな」
 大抵こういう八方ふさがりの場合、中高の気の合う友だちとかバイト先の先輩とか、実は愚痴るあてぐらいあるもんだが……。
「誰もあたしをあたしとして見てくれないのよ。バイト先に行けばそりゃ仕事はあるけどそんなの誰でもできることだし、あたしをクビにして別の人がやったっていい。学校でもあたしをちゃんと見てくれるような人なんていない。両親だってあたしがいい成績を取ればほめてくれるけど、取れなかったら役立たず扱いよ。自分の世間体のことしか考えてない」
 やはり愚痴るあても見つけていないらしい。初対面の俺に、前提条件もなくくどくどとこぼす。
「あたしがこれ以上生きてても、結局両親の人形で終わるだけだわ。目的も意味もない人生をこれから何十年も過ごすなんてやってられないわ」
 しかし残念ながら、彼女は愚痴る相手にも恵まれてない。つまり、俺は彼女に全く共感できない。
「生きてる目的とか意味のある人間なんているのかね」
 思わず言ってしまった。言ってからやばい、と思ったが彼女の耳には当然入ってしまった。
「どういうこと?」
 言葉に険が混じる。どこかで、自殺をしようと考える人間はとにかく言うことを聞いてやって、相手の言うことを否定してはいけない、と聞いたことがある。その人にとってはそれが真実だから否定して更に追い込んではいけないということなのだろう。が、俺は今思いっきり否定してしまった。下手すると背中を押してしまうかもしれない。
「生きる目的って何だよ?例えばさ」
「例えば?」
「どういうものがあるかってこと」
「何かを成し遂げたいとか、作りたいとか、発見したいとか、そういうのじゃないの?」
「そりゃ夢とか当面の目標だろ。生きる目的ってのは、これを成すために生きてるってこと。つまりは終わったら死んでいいようなものだ。残念ながら人間そこまで清廉に生きられるのはごく限られた一部の変人だけなんだな」
 わけがわからない、という顔をしている。少し安心した。これで恐慌を起こしかけているとヤバい。
「例えば。このケータイの基礎技術を開発したいと思ってる技術者がいたとする。で、生活も何もかも投げ打って開発に没頭してたとしたら、それは生きる目的と言えるわけだよな、あんたの論理からすると」
「……ええ」
「で、その技術者は15年ぐらい努力して基礎技術を開発することができました。特許も取れたし会社で表彰もされた。めでたしめでたし。で、この技術者翌日に自殺するかね」
「……しないわ」
「だろうな。俺もしないと思う。する理由がない。しばらく成功に酔いしれて、じきに次の目標を見つけてそれに心血を注ぐか、成功に溺れて何もしなくなるか。どっちにしても死なねぇよな」
 彼女は反論したそうな顔で、でも黙って俺の言葉を聞いている。非常にありがたい。
「あるいは生きる意味ってなんだろうな。俺が生きてることに意味があるかな」
「あるんじゃないの?あなた幸せそうだもの」
「俺が今幸せなのは美味いモン食ったからだ。別に生きてる意味あるって実感してるからじゃないぞ」
 少々恥ずかしいことかもしれないが、事実だ。彼女は意外だったのか少々戸惑ったようだったが、すぐに反撃してきた。
「でもあなたには友だちもいるでしょう?ちゃんと自分の意思で生きてるでしょう?」
「そりゃーな」
「それで十分じゃない」
「それさっき言ってたことと違うぞ」
「違わないわ」
 彼女の中では生きる意味と友人やなんかは一緒のカテゴリらしい。
「生きる意思は確かにあるけどさ。意味はないよ。俺が生きてても死んでても特に意味はない。俺が生きてて意味があると思うのは俺自身と親とかじいさんばあさんとかぐらいだ。別に恋人もいねぇし」
「友だちは?」
「残念ながら友だちとか先輩後輩ってのは換えが利くんだなぁ。ホントの親友ぐらいまでいかないと、例えば俺が急にいなくなったり死んだりしてもさっき電話かけてきた奴にとっては大学の友だちが1人いなくなった、で終わりだ。俺がいなくてもあいつの生活に支障を来さない」
「……‥」
「それが当たり前なんだよ、社会生活送ってりゃさ。ある人にとって換えが利かない人間なんて両手で数えられるぐらいしかいない。それがある立場にとってだったらまぁほとんどいないだろうな」
「立場?」
「会社とか所属してる組織とかから見た場合。会社に取ってなくてはならない存在なんてな、社員数にも寄るけど大企業ならほとんどゼロだ。中小だと社長は変わると会社としてのアイデンティティを失う可能性が高いからまぁなくてはならないと言えるだろうけど。組織の中では誰がやってるかは関係ない。重要なのは何をやってるかだけだ」
 彼女は押し黙ってしまった。俺は彼女の説を否定してはいるが彼女の存在を否定してるわけじゃない、と思ってるが、ひょっとすると彼女にとって見れば自分を全否定されていると思うかもしれない。俺はどうやってフォローするか、大急ぎで考えた。
「それじゃ生きてる必要なんてないじゃない。こんな酷い状態で」
「んー……そりゃー自分が何を見て生きてるかだよ。俺だって状態は悪くないけど別に生きてる必要はないぞ。ただ今日も昼飯うまかったし明日はなんか良いことがあるかもしれない。俺は死ぬのは恐いし痛いのは嫌いだし、楽しいこととか面白いこととかは好きだからな」
 だから生きてる。俺はどっちかというと生き物の本能を信じている。意地汚く生きようとする生存本能を。そして、飽くなき欲望を。
「……あなたは幸せだわ。だから生きていこうと思えるのよ」
「幸せになりたい?」
「当たり前じゃない!」
「じゃあ幸せになろうよ。人生いいこともありゃ悪いこともある。要は覚悟と気の持ちようだと思うよ」
 彼女は一瞬激昂しかけたが、俺の言葉に眉をひそめた。少し口調を柔らかにして、続けた。
「家族が冷たいってんなら家を出たっていい。もちろん生活費から何から自力で稼ぐのは大変だと思うよ。だけど世の中のフリーターの一部はそれをやってるんだし、大変だろうけど不可能じゃない。大学を中退して就職先探してもいいしな。しばらく今のまま我慢して自分の当面の目標を見つけるのもいい」
 俺は言葉を切って、立ち上がった。少しは落ち着いてきたように見えるし、十分関わりすぎた気がする。いや、単純にさっさと逃げたいだけか。カバンを取った。
「どんなことだってスムーズに進むとは限らないけど、人間努力次第でなんとかなるもんだよ。それに君が何をもって幸せと思うかってのはもう自分次第だし。今日も無事に飯を食えるのが幸せだと思えるようになれば、それだけで毎日が少しは楽しくなるんじゃない?」
「……どこ行くの?」
「あとは1人でゆっくり考えなよ。もう飯は食っちゃったし、言いたいことは全部言ったから」
 挨拶代わりに手を振って、階段を下りた。7階、3号棟の最上階まで来て、足を止めた。気になる。この後彼女がどうするのか。もしじっくり考えてやっぱりダメ、とかいうことになったら結局意味なかったわけだし、かといって制止なんてできない。既に賽は投げられたわけだが、さりとて結果もよくわからないまま放っておくのはさすがにきつい。進退窮まってしまった俺は、そのまま7階の階段前でぼーっと突っ立っていた。

 上の方から、ごごん、と音がした。屋上への扉が閉まる音。どきっとした。風で閉まったのか自重で閉まったのか。思わず階段に駆け寄って扉の方を見上げた。扉は、少ししか見えないが、閉まっている。そして階段を下りてくる彼女の横顔が見えた。思わず安堵のため息を漏らした。深く深く。
 彼女は踊り場まで来て初めて俺のことに気付いたのか、あら?と声を上げた。
「帰ったんじゃなかったの?」
「……そう思ったんだけどな。気になって」
「そ」
 彼女はそのまま階段を下りてきて、俺と並んだ。
「……もう少し、頑張ってみる」
「そっか。きついだろうけど、ムリしないようにちゃんと計算してな」
「計算……」
 彼女はそれを聞いて、ふっと表情を緩めた。まだ暗い影が取れてはいないが、それでもなかなかにかわいい顔になる。俺はふと思いついて携帯を出した。
「携帯、持ってる?」
「……一応あるけど、何で?」
「何もできないけど、愚痴ぐらいいつでも聞いてやるよ」
 彼女は驚いた顔で、慌ててかばんの中から携帯を探し出した。俺と同じ会社の、少し古いストレート。機種は俺の方が新しい。
「いいか?090の――」
 素直に番号を入力する姿は、なんともいじらしい。これも何かの縁だ。

posted by alohz at 00:30| Comment(0) | TrackBack(0) | [短編]日常の風景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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