2002年10月11日

空の旅

 飛行機がゆっくりと滑走路に向けて動き始めた。ようやく動いたか、と思い、軽く息をついた。毎回乗ってから動くまでは、何をするでもない退屈な時間を過ごさなければならないからだ。電気機器はすぐに離陸するから使えなくなるし、かといって本を取り出すにしても微妙な時間だ。腰を落ち着けて読もうという気にはならない。滑走路の手前で止まる。ふぅ、ともう一度息をついた。
 両翼のエンジンがうなりを上げ、期待が振動し始めると、ようやく少しだけドキドキする。これから飛び立つのだ、という不安の入り混じった緊張。やがてぐっと体を押し付けられ、これまでの「移動」としか言えないような動きとはまったく違う「滑走」が始まった。ぐんぐん速度が上がっていき、今では各席に1つずつくっついているようになったモニターを見ないでも、その時速の上がり具合が実感できる。
 ぐっと機首が持ち上がり、少し遅れて機体全体が宙に浮く。この瞬間、地面という支えを失った機体が、ふっと下がる。ほんの一瞬の事なのだが、そのほんの一瞬だけ、ひやりとする。

 昔、初めて飛行機に乗った頃と比べると、ずいぶんあっさりと乗るようになったと思う。親の海外転勤なんて事情からクラスの他の人よりは多く飛行機に乗っていたが、滑走の時の緊張感やその後の一瞬のひやりは変わらないものの、昔はベルトを締めてから飛び立つまでの間に退屈なんてしなかった。
 やっぱり慣れたのか、と思うと嬉しいとも悲しいともつかない、何とも言えない気分になる。同じ事を数回やれば、慣れるのは当然だ。慣れないのは、エコノミーの座席で座ったまま寝る事だけ。これだけはどうにもならないのだ。

「おー、飛んだ飛んだ」
 窓に近い隣の席に目をやると、飛行機は初体験だという私の彼氏は緊張も興奮も隠せない様子で、下の見えづらい二重窓に額を押し付けている。普段は歳よりずっと上に見えるぐらい落ち着いた人なのに、まるで子供だ。思わず苦笑がこぼれた。
「あー、なんかわくわくするよ。って、こら。何笑ってんだ」
「だって、なんかすっごいはしゃいでるんだもん」
「そりゃお前、初めて飛行機乗ればはしゃぐよ」
「そっかなぁ?」
 確かにそうかもしれないが、それにしても普段とのギャップがある。ひょっとしてこれが素なのか、と疑いたくなる。そう思うと、なんとなく彼がかわいく見えてしまって、思わず頭を撫でてあげた。
「……お前に子ども扱いされるとは……」

 一旦水平飛行になってしまえば、あとはただ着くのを待つだけだ。今朝頑張って早起きしたから、到着時間は現地時間で午後3時。一旦ホテルに荷物を置いてからでも、結構余裕がある。しばらくガイドブックを挟んで今夜はどうするかと相談していたが、朝頑張った分の揺り戻しで眠くなってきた。見ると彼はまだまだ元気そうだ。やっぱり興奮してるらしい。
「ごめん、眠いからちょっと寝るね」
「うん、お前にしちゃ今朝は頑張ったもんな。お休み」
 少々引っかかる言い方だがいつもの事だ。聞き流して毛布を肩までずり上げた。少しでも寝られるといいんだけれど。

 ふと目を覚ますと、頭が重い。正確に言うと、頭に何かが乗っていて重たい。目の前にある彼の肩をぐいと向こう側に押して、ようやく頭を上げられた。時間時間、と時計を探ると、もう4時近い。結構寝てしまったらしい。時差は2時間なので、あと1時間ちょっとで着陸だ。
 彼の頭が再び私の方に降りてきて、左肩を占領されてしまったので、私は足元に置いたかばんから本を取り出した。最初に映画のプログラムはチェックしたのだが、いまいちだった。結構最近は新しい映画が入っている事が多くて期待していたのだけど、今回は残念ながら空振りだ。ガイドブックも少々飽きていたので、持ってきたクロスワードを解こうとテーブルを出した。出してからふと思い出す。
「あ……」
 機内食を食べた覚えがない。普段と違う時間のせいか、彼と一緒にいるせいかは知らないが、これは初めてだ。最初に配られたピーナッツが手付かずで残っていたので開けた。一口食べて、結構空腹だった事に改めて気付いた。夕飯はちょっと豪華にしよう。

 着陸10分前のアナウンスが入ると、機内がなんとなく落ち着かなくなってくる。寝ていた人は起き出してくるし、入国のための書類を書かなければならない事もあって少しざわつくのだ。
「これ、滞在先ってどうするんだ?」
「ホテルの名前とか書くんだけど、いいよ適当で」
「適当って言われてもどう適当に書くんだよ」
「最初の日に泊まる予定のホテルの名前書いておけばいいの」
 しかし、私が初めて一人で飛行機に乗った時は、どこに何を書くのかと少し慌てたものだが、滞在先以外は全てすらすらと書いていく彼が少々憎らしい。私より彼の方が英語は得意なのだ。
 全ての欄を埋めてしまうと、彼は窓の外がやはり気になるらしい。もう既に雲の下まで降下しているので、目指す異国の町並みが一望できる。
「もう着いたんだな……。あんまり日本の町と変わんないな」
「そりゃ首都だもん。大差ないでしょ」
「そっか」
 今時、どこの国でも首都はかなり西洋化されている。上から見たら、あまり差は見られない。でも、ちゃんと見れば東京にはなかった様々なものが見える。無論、それは着いてからのお楽しみだ。
 ぽーん、と気の抜けた音がした。同時にシートベルトのバックルのサインが点灯する。実は私が一番緊張するのはこの時だ。シートベルトを確認して、座席の背を元に戻す。テーブルをしまって、手荷物をささっとかばんに詰める。口を閉めて前の座席に蹴り出して、あとはおとなしく座っているだけだ。ぐんぐん高度が下がり、町並みが少しずつ大きくなってくる。それが何もない開けた場所に来て一呼吸すると、左右に空港の施設や車が見えてくる。来るか、来るか、来るか、というところで、ずん、と重たい着地音があった。エンジンから猛烈なブレーキ音が聞こえてきて、ようやく一息つける。
「着いたね」
「うん、着いたな」
 見ると、彼の方が何故か余裕がある。いつの間にか普段通りに戻ってしまったみたいだ。外はきっとまた暑いだろう。日本の夏から飛び出してきたのに結局避暑にはなりそうにない。楽しめればいいのだ。
 かちゃんと音がするので見れば、彼がベルトを外して荷物を整理し始めた。
「あ、こっからターミナルまで長いからね」
「……そうなのか?」
「5分かそこら」
「ふーん……じゃガイドブックでも読むか」
 ぱらぱらとめくった先は入国審査のページ。
「そこ見なくても大丈夫。ホテルの場所探しといて」
「大丈夫って」
 彼はこういう時、前もって調べておくのが好きなのだ。知らないと不安になるだろ、と言っていた。だから、こう言う。
「私が知ってるから大丈夫。何回通ったと思ってんの」
 彼はあきらめに近い笑顔で、市内のホテルマップのページを開いた。

posted by alohz at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | [短編]旅の言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。