2002年06月29日

春雨

 高校からの帰り道。天気予報に従って大きめの傘を持ってきたから上半身は濡れずに済んだが、それでも久しぶりの強い雨に、鞄や膝から下までは傘のご威光もまるで効き目がない。はぁとため息を吐いて、高校生の恨みがましい視線など気にも留めない雨の中をぴたぴたと歩いていた。
 高校に入って自転車や電車で通学する友達が増えたが、まだ徒歩15分で家に帰り着ける。中学の頃から通っている代わり映えのしない道を、ほとんど前も見ずに歩いていたが、何のきっかけもなく不意に前を向く気になった。それに従って目を上げると、そこに1人の少女が佇んでいた。
 少女と言っても自分と同じかちょっと下ぐらい、セーラー服を着ているから外れているとしてもそれほど歳が離れているわけではないだろう。黒地のセーラー服はこの辺りでもよく見かける。実際、自分の通う高校も女子は黒地のセーラー服だ。だが、彼女のそれは毎日見慣れたものとは微妙に違うような気がする。大きな襟には白い3本のラインが入っている。遠目なので襟元の校章までは見えないが、自分の通っている松田第二高校の校章とは間違いなく違っている。襟元にぼんやりと見えるそれは銀色に見えたからだ。その下の胸元に思わず目が行ってしまう。そこは自らが女性である事を慎ましやかに主張していた。
緑為す黒髪は長く、それをまっすぐに胸元まで下ろしている。このひどい雨の中傘も差さずに立っているので、セーラー服が黒々と見える以上に黒く、濡れてしっとりと服や頬に張り付いている。正面から見たそれは、ほとんど見た事のない美しさと艶っぽさを彼女に与えていた。元々の容貌は、色っぽい大人びた雰囲気よりも少し子供っぽい印象が強い。笑ったらさぞかし綺麗だろう、と誰もが思う。確かに可愛い子だった。その顔が、今は呆然としているように見えた。ゆっくりと辺りを見回している。
 迷ったのだろうか、と不意に思いついた。この辺りは似たような家が並び細かい小路が無数にある。慣れない者が1つ曲がるところを間違えるとあっという間に迷子になってしまうのだ。彼女の左肩にかかった鞄もこの辺りでよく見る物ではない。何か書いてあるのかも知れないが角度が悪いのでここからは見えない。これだけ水に濡れているのに変色していないから、ビニールを皮っぽくした物なのだろう。中まではまだ水が通ってないかもしれない。
 彼女が時計を見た。珍しく左手の手首にした細い銀色の腕時計を見る仕草も、雨に濡れているせいか、彼女の細い手首と雨にも映える白い肌のせいか、心臓がどくんと跳ねるほど美しかった。普段は芸術と言われる物には疎い方だが、このまま絵にできるものなら、と思わずにはいられなかった。
 しばらく馬鹿のように突っ立っていたが、このままでいるわけにはいかなかった。我を取り戻すと、彼女に近寄った。心臓はこれまで同様、暴走した土木重機の様にめちゃくちゃな鼓動をしている。足が震えていないのは幸いだったが、表情はきっと強張っているだろう。そう思って、傘を持っていない方の手で顔を一撫でしてみた。もう1回。手を外して、深呼吸を一回。もう一度息を吸って声をかけようとしたその時、彼女が不意にこちらを向いた。人がいる事に気付いてなかったのか、少々驚いた顔をしていたが、すぐにぱっと笑顔になった。同時に、自分の頬がばっと染まるのを感じた。予想通り、いや、予想以上の可憐な笑顔だった。

 すみません、ちょっとおたずねしたいんですけど。

 雨水が伝う笑顔は子供のような爛漫さで一杯だったが、その声は鈴の鳴るような子供の声ではなかった。澄んではいるが、低めの落ち着いた声である。

 あ、はい。

 こんな時、滅多に省みない自分の言葉の拙さが呪わしく思える。ここで一寸気の利いた言葉を返す事ができれば、讃辞とまではいかないまでも、良好な評価を頂けるだろうに。たとえ今会って別れればもう道の交わる事のない仲であったとしても、一時その視線を浴びる事のどれほど気持ちのいい事か。

 この近くにある、南さんというお宅ご存じありませんか?

 少女は気にした素振りも見せず、強張った表情の学ラン姿に問いかけた。思わず首を縦に振りそうになり、なんとかその前に頭の中の地図を広げた。南、南、と考えていく。普段ならどうという事のない行為が、騒がしい体と反比例して白くなっていく頭ではひどく難しい。それでも何とか発見する事ができたのは、南、という名が2つあり、その片方が親友である事に負うところが大きいだろう。もう片方は、彼の母親の行きつけの八百屋だ。

 ……2軒あるんですが、八百屋の方ですか?

 これまた、口から出てきた自分の言葉の平凡さに落胆する。しかし、言い直そうにも言い直した言葉の方がひどいものになるという確信めいた物があった。少女は小首を傾けてしばらく考えた末、首を横に振った。滅多に見ない、あまりに少女らしい仕草に再び魅せられていたので、一瞬少女が動いた事に気付かなかった。数秒ずつ遅れて、彼女が我が親友宅の客である事を理解すると、ついてくるように言って先導するのが早いという考えはすぐに出てきた。そっちの南家は家に近いので、大した回り道にもならないし、彼女に説明してもこの雨ではまた路地を一本間違えて迷うおそれが強い。そこまで考えて、はっと気付いた。

 あ、その、傘……。

 え?

 少しとまどっていた少女だったが、自分が傘を差し出すと、遠慮して手を横に振った。もう同じだからと。でもこのままずっと雨ざらしで自分が傘に入っている気には最早なれない。遅すぎると言えば遅すぎるが、それでもしないよりはマシだろう。もう一度少し前に差し出すと、少女はそれでも遠慮がちに、礼を言ってそれを受け取った。雨は頭と言わず肩と言わず直に打ち付けてくるが、自分はほっとして、少しだけ流暢に続きを言う事ができた。

 じゃ、ついてきて下さい。こっから十分もかかりませんから。

 再び戸惑った様子の少女にぐっと背を向けて、先に立って歩き始めた。しばらく迷っているのか動く音がしないので足が緩んだが、少しして、ぱしゃぱしゃと後ろから追いかけてきたのがわかって、これまたほっとした。

 すみません、わざわざ。

 いや、うちもこっちなんで、ほんとについでです。

 それから十分間、それ以上の会話は無いまま、彼女は自分についてきた。聞きたい事は山ほどあった。名前や歳も聞きたいし、我が友人の南圭治とどういう関係なのかも知りたい。何のために、どこから来ていつまでいるのか、何故傘も持たずにぼうとしてたのか。全ては頭の中で何度となく聞かれ、その答えは雨音でかき消され、頬を伝って流れ落ちた。南家の門前で、ようやくもう一度じっくりと彼女の顔を見る事ができた。

 すみません、ありがとうございました。

 いえ……。

 どういたしまして、とも言えない自分が情けない。細い指に握られていた傘を無骨な指で受け取って、彼女が門に入るのを意味もなく見届けた。晴れた日にはふわりと踊るであろう後ろ髪が、重く濡れて服に張り付いている。南家の黒い門に白い指がかかり、慣れた手つきで開閉する。そうして、玄関までの小さな階段をぱしゃぱしゃとリズミカルに登っていく。わずかに見えた横顔は、一人で立っていた時の憂いにも似た無表情など嘘であったかのように、ずっと浮かべていた少女の笑みをより深めていた。黒く濡れた髪が同じように少し赤い頬に、細い首に絡みついているが、艶やかな感じは最早どこにも残っていなかった。
 玄関が開くまでずっと見ていてもよかったのだが、何となくきびすを返した。圭治と仲良さげな様子を見るのが嫌だったのかも知れない。それとも、あの雨露に濡れた天使を、人間だと思いたくなかったのかも知れない。傘を畳んでみようか、と思ったが、それも止めておいた。柄にもない。そう思うと、また1つため息を吐いた。

posted by alohz at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | [短編]日常の風景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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