2007年03月14日

切れることのない首輪

 零は声にならない叫び声を上げて飛び起きた。部屋の中は十六夜の月の銀光に照らし出されて、昼間以上に無機質に見えた。零は荒い息を吐きながら自分の手を見た。日焼けを知らない手の平を穴が開くほど、見る。細かく震えている。ゆっくりと裏返して、今度は手の甲を見た。ごつごつとした凹凸はほとんどない、白く滑らかな手だ。長く息を吐く。
 隣を見た。つい1週間ほど前に自分の主となった男が、細いいびきをかいて寝ていた。美しい、とは思わない。怖い、とも思わない。濃い青に染めた髪に、どちらかというと色白のやせた顔。寝顔を見ているとどこにでもいる青年だ。その顔が、意志を宿すと別人のように変わる。にやりと笑うと、すべてはこの男の言葉どおりになるような気がする。睨みつけられると、それだけで心まで握られるようなプレッシャーを感じる。それに自分は魅せられた。見ていると恐怖と魅力を同時に感じる神のような存在感に、すべてを捨てた。
 その日の夜、そう言うと彼は大声で笑った。
「俺は悪魔だ。神みたいな力はねえよ」
 どう違うのか、わからなかった。ただ、その時は納得した。だからこそ、自分が恋心を抱いてきた隣のクラスの少年を刺させたのだろう、と。

 零は啓司を起こさないように、そっとベッドから下りた。広い部屋を裸足で歩き、水差しから水をコップに半分注いで、飲んだ。大きめの鏡に、ぼんやりと自分が映っている。月明かりだけでははっきりとは見えないが、ひどい顔をしているだろうと思う。
「地獄に堕ちたいと思うなら、ついて来い」
 啓司が自分に手をさしのべたとき、そう言った理由はこの1週間で身に染みてわかった。啓司以外の人間が零に触れることはなかったが、啓司に蹂躙された人々の血と悲鳴を全身に浴びさせられ、彼の言葉のままにあらゆる「悪行」を行わされた。
 私立の学校に通う箱入り娘にとって、自分で主とすると決めたとはいえ、男の前に肌を晒すことも全身の血が逆流するほど恥ずかしかった。拷問のような責め苦を目の当たりにし、喉を引き裂くような悲鳴を耳にすることは悪夢でしかない。まして、自分自身が男の心臓を頭上で握りつぶし、床に転がった女の首に付いた血を舐め取ることは狂気の沙汰ですらなかった。どうして自分が正気を保っていられるのか、少なくとも正気を保っているような気がしているのか、わからなかった。
 コップを置き、何気なく部屋のドアを見た。啓司の寝息が聞こえる。高級ホテルの上等な部屋だ。外に出れば真夜中でも人がいる。バスタオルを巻いて少し恥ずかしさに耐えれば、逃げることはたやすい。逃げたら啓司は追ってくるだろうか。
(来ないよね……)
 その答えは、知り合ってたった1週間でも自信を持って言えた。啓司は自分を気まぐれで拾ってきた野良猫程度にしか考えていない。そばにいれば餌はやるし、いじめて遊ぶ。が、いなくなってもわざわざ探そうとはしない。そして警察に訴え出たところで、鼻で笑って蹴散らすだろう。
 そして、一言「来い」と言われれば、自分はついていくだろう。騒がせた罰で何かさせられるかもしれないが、そうとわかっていても。
 零はベッドに戻った。

 翌日、零はお使いを言いつかって、近所のデパートに行った。コーヒー豆をいくらかと、ベイクドチーズケーキ。部屋に戻ると、ドアを開けた瞬間に中から耳慣れない楽器の音がした。テレビでも見ているのかと思い、音が漏れないように素早くドアを閉めた。奥に入ると、啓司がトランペットを吹いていた。
 零の方をちらと見ただけで、何も言わずに楽譜を睨みつけて吹いていた。耳慣れない音だったのは、先端に四角い栓のようなものが挿してあるせいだろう。柔らかく、でも金属的な、どこかすすり泣くような音で、聴いたことのないバラードを吹いている。ケーキと豆をテーブルに置くかさり、という音が申し訳ないほど、哀しそうなメロディーだった。
 やがてトランペットから口を離すと、啓司は楽譜をぱらりとめくった。
「零、下のカフェテリアでその豆挽いてもらってコーヒー淹れてもらって持ってこい。あとケーキナイフももらってこい」
「……はい」
 思わず残念そうな声音になってしまった。啓司はちらりと零の方を見たが、零はコーヒー豆を袋から出していて気付かなかった。
 少し嫌そうな顔をされつつ、部屋番号を言うとカフェテリアのコックは黙って豆を受け取り、コーヒーを淹れてくれた。かりかりと豆を挽いている様子を零が横でじっと見ているので、彼はいつもの調子で言った。
「私どもでお持ちいたしますので、お部屋でお待ちください」
「いえ、私が持って行くように言われていますから」
 そう言うと、嫌そうというより不審そうな色がわずかに浮かんだが、口ではかしこまりました、とだけ答えた。きっといろいろと噂になるのだろう、と思ったが、それは零の気にすることではない。
 それでも淹れてくれたコーヒーと借りたケーキナイフを、これまた借り物の盆に載せて部屋に戻った。キーカードを忘れたのでノックをすると、案外すぐにドアが開いた。
「オートロックだぞ。鍵忘れんなアホ」
「すみません……」
 即座に飛んできた叱責も本気で言っている感じではなかったが、零は恐縮した。中に入ってコーヒーをテーブルに置くと、ケーキを出して手早く切った。
「どうぞ」
「ああ」
 啓司は楽器をケースにしまって椅子に座ると、コーヒーを飲んだ。零はベッドにぽすんと腰を下ろして、そんな啓司を見ている。
「……お前、自分のは?」
「え?準備してませんけど……」
 意外そうに言う零に、啓司はコーヒー豆の袋に目をやり、部屋に備え付けのポットに目をやった。
「お前、適当になんか飲み物用 意しろ。このケーキはなかなか旨い」
「いいんですか?」
「いくらなんでもホールケーキ1個食えるか」
 それもその通りだが、零は思わず目を丸くして、すぐに我に返った。
「いただきます」
 そう言って、慌てて自分の飲み物の準備にかかる。紅茶のティーバッグが備え付けてあったので、それを使うことにした。バタバタと準備をしている間に啓司は自分の分のケーキは食べてしまった。
「零、俺の分もう一切れくれ 」
 紅茶の準備ができるのを待って自分のケーキを切っていた零に声をかける。零は、はい、とだけ返事をして、自分の皿にもう1つケーキを載せた。それを持って行くと、啓司は呆れ顔で、片方をフォークで刺して取った。
「お前、余所でそれやるなよ?みっともない」
「?」
「面倒でも相手の皿を取りに来い。使ってないからって手前の皿に載せて運ぶなんざ論外だ」
 零はまた恐縮したが、縮こまってケーキを食べながら、ふと可笑しくなった。
「ん?」
「いえ……」
 啓司はそれにめざとく気付いたが、何をされるかわからないので口にはしなかった。

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2007年03月09日

食卓

「どう、して……こんなこと……!」
 こぼれ落ちる涙とこみ上げてくる嘔吐感で言葉にならない。隣にうずくまっている彼女の夫は、ただただ驚愕の視線を送るだけで、何一つ口にできない。啓司はそんな2人の様子を見ながら、平然と三切れ目の肉を口にした。零も特に表情を変えずにそれに倣う。ただ1人立っている佐加野だけは、2人の反応を正視できずに、テーブルについている啓司と零を必要以上に見つめていた。
「こんな恥ずかしい娘なんざいらないんだろう?何そんな顔してるんだ」
 啓司は冷徹に言い放った。母親は言葉に詰まる。だが、すぐにぼそぼそと恨み言のように言葉をこぼした。
「に、人間を料理して、食べるなんて……狂ってる……なんで、なんでこんなこと……されなきゃいけないの……」
 それは砂のようにさらさらと床に溜まっていく。それに何かのスイッチを入れられたように、父親が突然がばっと立ち上がった。零はとっさに腰を浮かしかけたが、彼は啓司や零に直接手出しをしようとは考えていないようだった。食卓とは逆方向に駆け出し、電話の子機をつかんだのである。
 そのまま家の奥へ逃げていく。彼の手元からぴ、ぴ、ぽ、と3つだけ音がした。
「零」
「はい」
 零は電話の親機の方に駆け寄ると、裏に手を伸ばしてモジュラージャックを引っこ抜いた。表示がぎりぎりで通話になったのが見えたが、一瞬であれば悪戯だと思うだろう。そもそもあれほどの混乱状態で説明したら、どちらにしても悪戯だと思われたかもしれないが。
 席に戻ろうとする零に、突然母親が大声を上げて襲いかかった。肌が病的に白く髪もほとんど色が抜け落ちた零なら勝てると思ったのだろう。が、零は振り返った勢いのまま、右拳で相手の額を全力で打った。決して大柄とは言えないが、それでも零よりは確実に体格のいい大人の女が、悲鳴を上げて転がった。額を抑えたまま、体を丸めて痛みに耐える。一方の零は一歩たりとも動かずに拳を振り抜き、あっさりとはじき返した相手を無言でにらみつけた。蔑みはなく、怒りに近い光があった。

 零が食卓に戻って、残りの料理を食べ終わるまで、家の中も外も平穏だった。父親は奥から出てこようとはせず、母親もうずくまったまま、何もしようとはしない。
 佐加野が食器類を手早く片付け、零も手伝ってすいすいと洗っていく。啓司は食後のコーヒーを飲み干すと、立ち上がって家の奥に進み、一番手前の部屋のドアを開けた。母親には無遠慮な行動を咎める気もない。しかし、ほどなく戻ってきた啓司の手にしたものを見て、思わずのどの奥から悲鳴を上げた。
「ここまでが娘との契約だ。受け取れ」
 そう言って差し出したのは、髪の長い少女の首であった。啓司の手は乾ききらない断面の血液で赤黒く染まっているが、少女の顔には傷も汚れもない。そして何より、目を閉じたその表情は静かで、わずかに微笑みすら浮かべていた。
 母親はじりじり、と後ずさった。その顔は明らかに恐怖に彩られ、視線を外すことすらできないでいた。受け取る、などという行動に出られるとは、ちらりと振り返った佐加野も思わなかった。
「ったく、愛娘の肉は食えねえ首は受けとらねえ。人間の方がよっぽど情がねぇな」
 啓司はこれ見よがしにこぼして、手にした首を食卓に置いた。まっすぐに家の奥、父親のいる方に向けて。
「啓司さん、お台所は片付きましたよ」
「ん、じゃ行くか」
 佐加野は片手に鞄を持ち、啓司と零は手ぶらで、玄関の方に向かう。が、零は我慢できずに振り返って、静かに告げた。
「あなたの娘さんは、あなたとお父さんに撫でてもらいたいと言っていたわ。彼女の一番の望みだって」
「零」
 啓司の呼びかけに、零はすぐに身を翻した。答えがあるとは思っていなかったし、あっても聞こうとは思わなかった。そもそも通じるとすら思っていなかった。ただ、零は初めて、啓司のためではなく自分のためだけに言った。

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