2006年06月08日

とどかない、そら

 珍しく、啓司さんが私を下がらせた。いつもなら、相手が何と言おうが構わずに一緒に中に入ってしまうのに、だ。
「その辺で時間潰してろ。4時にさっき通った喫茶店に来い」
 まだ1時を回った頃だ。さっき2人でコーヒーとサンドイッチという簡単な食事をしたばかりだから、すぐにそこに戻ろうという気にはならなかった。手元にはそれなりにお金はある。でもそれをぱーっと使う気にも、ならなかった。そもそもあまり買う物もない。
 エレベーターで、最上階まで上がった。高級、とはお世辞にも言えないマンションだ。最上階と言っても8階までしかない。私が昔住んでいた家は14階にあったし、エレベーターももっと速くて静かだった。ドアもこんなに錆が浮きそうなドアではなかった。
(……ずいぶん、昔の話)
 口は動かさずに、独り言。非常階段は下だけではなく、上にも伸びていた。鍵が開いているとは限らなかったが、とりあえず行ってみる。
 頑丈そうな錆色の扉があった。ノブをぐっと下げて押した。重い。足に力を入れて左手を添えると、ごごんとわずかに音がして、扉が開いた。ふっと外から風が入ってくる。それを感じながら、外に出た。
 低いフェンスが周囲に据え付けてあるだけ。でも、空は意外なほど広かった。何気なく左手を見ると、はしごが壁に付いていた。その上には、前は白かっただろう給水タンクが置いてある。そのてっぺんまでは、顔をいっぱいまで上げないと見えなかった。

 はしごがぎしぎし、と音を立てる。でも、音の割に手応えはしっかりとしていた。つるりとした給水タンクのてっぺんまでは、はしごを離れて3、4歩歩く。周りに私より高いものはなかった。まだ日射しがあって、思わず手を額に当てる。
 視界いっぱいに、四角い町が広がっていた。そして、雲一つない青空。
(広いんだな、この町)
 これまで、啓司さんに連れられていろんな町に行った。船で学校に行くような田舎にも行ったし、電車内に知り合いなんて1人もいないような都会にも行った。そんな中では、今いるここは、別に大きくも小さくもないと思っていた。それでも、私の小さな体と比べたら、思った以上に大きい。
(啓司さんも広いって思うかな)
 考えて、すぐに打ち消した。あの人は、きっとそんなことは思わない。あの人はどこまででも行ける、大きな力強い翼がある。私が必死で走ってもなかなか横断できないこの町を、一飛びで越えてしまう。啓司さんは誰も持っていない「絶対」を持っているから。
 きっと、この四角い町は啓司さんが見下ろしている人々なのだろう。そして、啓司さんはこの空。私は何故か、誰よりも空に近いところにいる。でも、他の誰よりも近いだけだ。どんなに従順に見上げても、甘えて飛びついたとしても、私に翼が生えない限り。
 空には届かないのだ。

 4時15分前。私が喫茶店のドアを開けると、くっと襟首を引っ張られた。振り返ると、啓司さんがいた。行くぞ、という一言で、私はただついていく。盲目的にではない。啓司さんの視線の先をじっと見て、言葉の示すことをじっと感じて、考えながら進む。
 啓司さんの体からは、わずかに血の臭いがした。他の人の匂いは、しない。無造作に歩く物腰からは、私がいなかった3時間の間に何をしていたのか、窺うことはできない。私はそっと足を速めて、下から横顔をのぞき込んだ。すぐに気づいて、わずかに微笑んでくれる。頭を撫でてくれる。その手の大きさを感じながら、横顔をじっと見た。
 飛べない私が空を感じるためには、偽物でもいいから翼が要る。張りぼての翼を磨いて、鍛えて、少しでも空気を掴ませていれば。
 届かない空にも、近づくことはできる。

posted by alohz at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | [短編]悪魔と虚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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