2010年11月01日

古書「影の国」

「いらっしゃい」
 薄暗い店内。石造りの短い階段を降りきらないうちに、奥の方から声がかかった。落ちついてはいるが、まだ若い男性の声だ。
 誰だろう、と奥を見てみると、カウンターの向こうに誰かが立っていた。
「あ、どうも……」
 遠慮がちに答えて、残り3段を下りきった。ぎっと床が鳴る。階段以外は板張りだった。どうにも薄暗いが、昼間の明るい光が店の中まで照らしていた。整然としている、とは言い難い。

 僕がこの街にやってきてからそろそろ2ヶ月が経とうとしていた。幻燈機[げんとうき]を通じて実在しないイメージを具現化する『幻燈[げんとう]』の力がまだ珍しいこの地方では、物珍しさも手伝ってか、駆け出しの僕でも仕事をもらうことができた。
 ただ、ここで請ける幻燈の仕事の中にはすぐにできないものも多くて、最近は空いた時間に街中をうろうろしては資料を探すことが多くなった。
 幻燈に必要なのは、正確なイメージを描き出す構成力と、余計なイメージを混ぜない集中力。
 集中力の方はともかく、この地方にゆかりのない僕には、リクエストされた時にそれが何なのかもわからないことがあった。知っているものでも、正確にイメージするのは難しいことが多い。
 それで、今日も資料になる本を探しにうろうろと街中を歩いていて、『古書 影の国』という小さな看板が目に留まったのだ。

 石段にも廊下にも、隅の方に本が積んである。適当に紐でくくっただけの本がいかにも持ってきただけ、という風に置いてあるところも、あまり店らしくない。
 カウンターの手前にはかごが天井からぶら下がっているが、のぞき込んでみると中に入っているのは果物と野菜の模型。
 カウンターの正面は本棚になっていて、ずいぶん分厚い本がところどころ隙間を作りながら並んでいる。でもその手前、僕が今立っているすぐ右手には、薬棚のような、小さな引き出しを積み上げたような棚が置いてある。
「ああ、そこは上から2段が空いてて、3段目から5段目に絵の具、6段目は鉛筆、7段目が絵筆で、8段目と9段目は栞が入ってます」
 僕が不思議そうな顔で見ていたのが通じてしまったんだろう、さっきの男性の声が教えてくれた。
 声の方を見ると、真っ白なワイシャツに黒いスラックス、というピシッとした格好の男性がカウンターから出てくるところだった。眼鏡をかけているので落ちついて見えるが、思ったとおり、まだ若い。
「本屋さん、なんですよね?」
「元々は、そうですね。最近は私の趣味の物を置いたりお客さんのリクエストに応えたりしてて、段々雑貨屋になってますけど」
 奥の方はもう少し本屋っぽいですよ、と言って、ここからは本棚の陰になっていて奥の方を指し示した。
「あの、この辺りの風俗とか習慣とかを図入りで説明してる本とか、ありますか?」
「この辺りの?」
 彼は意外そうな顔をして、奥の方に歩いていく。僕もそれについていった。
 奥にはランプが下がっていて、オレンジ色の柔らかな光に満ちていた。思ったよりも広くて、喫茶店のようなテーブルがいくつも並び、それを囲むように本棚が並んでいた。
 表の光もうっすらとしか届かない幻想的な部屋の中で、彼は部屋の奥の方にある小さな白い本棚の前にかがみ込んでいた。
「うーん、あ、こちらにどうぞ。この辺に置いてあるのが――」
 僕が小走りに彼のそばに行くと、彼は僕の腰までくらいしかない本棚を指し示して言った。
「この地方に関するガイドブックや古い伝承の本なんですが、そもそもそれほど観光に熱心な地方でもないこともあって、それほど点数はないんです」
「いえ、図入りのものがあれば大丈夫です。ありがとうございます」
 僕は彼がさっきしていたようにしゃがみこんで、本を1冊1冊取り出して中を眺めた。彼はしばらくそばにいたが、気がついたらカウンターの方に戻ったのだろう、いなくなっていた。

 棚の中の本を半分ほど見終わって、僕は思わず立ち上がってのびをした。大した時間でもないのに、体が縮こまってしまった。ふと視線を落とすと、白い棚の上には陶器の人形が、公園で遊んでいるようにいくつも並んでいた。
「いかがですか?」
 声に振り返ると、彼は銀色のトレイにコーヒーカップを載せて、にっこりと笑った。
「いくつかよさそうなのがありました。まだ半分くらいですけど」
「そうですか。それはよかった。これ、サービスです」
「え?あ、ありがとうございます」
「どういたしまして。新しいお客様はあまり多くないんです。この店」
 彼は音も立てずにコーヒーをそばのテーブルに並べた。どこかのお屋敷か高級レストラン辺りで働いていたんじゃないか、と思うくらい、美しい所作だった。思わずじっと観察してしまったが、彼は気に留めた様子もなかった。
 コーヒーをありがたくいただくことにして、テーブルに座った。そばに買おうと思った本を4冊どんと置く。
 コーヒーを一口飲んでみた。しっかりとしたコーヒーの味が舌に広がり、豊かな香りが鼻をくすぐる。美味しい。
「図解入りの本がご入り用なんですね」
「はい。僕、幻燈師をしてるんです。それで、何かを頼まれた時にすぐにイメージできるように資料が必要なんですけど、他の本屋さんだとあまり売ってなくて……」
 彼は僕の向かいの席に静かに腰を下ろした。
「ほう。幻燈師さんなんですね。この辺りではほとんど見かけないですから、お忙しいでしょう」
「いえ、それほどでもないですけど……」
「かく言う私もまだ幻燈は人づてに聞いただけで、実際に見たことはないんです。あなたがいらっしゃったのなら、そのうち拝見する機会があるかもしれませんね」
 僕はそれを聞いて、さっきの本棚を振り返った。公園のような人形たちはこの辺りで作られた、特徴的なものだ。うろ覚えな部分を確認して、彼の方に向き直った。
 腰から提げた小さな幻燈機をそっと握って、彼の前のテーブルにさっきの人形たちをイメージする。特に印象に強い5つ分。そのイメージが、僕のキューで一斉に実体化した。
「ぅわっ……あれ、これって……」
 彼は急に目の前に人形が現れたのに驚いて声を上げたが、すぐにこの人形に気付いたようだ。本棚の上と同じ配置で並んでいた人形は、ハッと気付いたようにきょろきょろと辺りを見回した後で、ぴょん、と起き上がる。よちよち歩きで整列して、彼にちょこんとお辞儀をしてみせた。
「すごい……これが幻燈……」
 5つの人形はおもちゃを取り出したりボールを蹴ったりしてひとしきり遊んだ後、バイバイ、とそれぞれに手を振って、端から順に消えていく。最後の人形が煙も残さずに消えてから、幻燈機から手を離す。
「お粗末様でした」
「すみません、なんだか催促してしまったみたいで……でも、ありがとうございます」
「コーヒーのお礼です。このコーヒー、すごく美味しいです」
 そう言って、もう一口。

 結局その後は彼と世間話をしただけで店を後にした。また来ればいいと思ったし、また来たいと思った。続きはその時でいい。
 今夜の仕事まではもう少し時間がある。僕は一度家に戻って、買ったばかりの本をじっくりと読むことにした。

+based on the world of [幻燈師シリーズ ボクの創る世界]+

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2010年08月24日

水の時間

 舞台を見た。もう数年ぶりの演劇は、ニューヨークで暮らす日本人とタイ人の話。失って初めて相手がいることの大切さに気付く、という話に、日本人のダメ文学青年とタイ人の現実的な女性、隣人のオカマタイ人という取り合わせで味付けがされていた。
 率直に言って、物足りなかった。女優の卵を演じた彼女は素人目には見事に演じていた。起こっている時は心底居心地が悪かったし、泣いている時にはもらいそうになった。もう一人のタイ人、オカマの隣人はあまりにも自然に空気を変えた。最後の挨拶で自分で言ったとおりのことをしていた。だが幕が下りた時、ストーリーの肝心なところが存在しないと思ってしまったのだ。
「例えばどんな?」
「……それをどうするかが脚本の腕の見せ所なんだよ」
 友人の問いに、僕はそう答えた。もちろん逃げたのだ。友人は僕が作家たらんとしていることを知らない。だから、最も追求されにくい回答を半ば無意識に仕立てて隠れ蓑にした。
 愛しい人を喪った時。あまりにもその人に甘えすぎ、受け取るばかりだったと気付いた時。脚本家たる主人公が取った手段は納得のいくものだった。だが、その描き方があまりにも短く、あっさりし過ぎていた。だから、それだけ?と思ってしまったのだ。
 野村美月の『“文学少女”と神に臨む作家』で、主人公の井上心葉は、ずっと気付いていなかった、自分を見守ってくれたたった一人をつなぎ止めるため、恋人を捨てて小説を書き上げ、それでもなお彼女を引き留めることができなかった。そうして大切な人の背中を見送った彼は、彼女に近づくためにずっと逃げ続けていた作家への道を歩き出した。脚本家も同じことをしたのだ。それなのに、たった一本の脚本で燃え尽きてしまった。脚本家は弱すぎ、それ故に観客に伝えるべき言葉を持っていないように見えた。
 今、友人が隣にいたら、僕はこう答える。
「例えば、脚本を書きまくって、紙に埋もれて死にかかってるところを隣の人に発見されて即入院。で、脚本はまとめて制作会社に送るんだ。で、ボロクソに言われて突っ返されて、仕方なく知り合いの役者に頼んで自分で撮っちゃう。で、何年かして、馬鹿にしてたテレビの脚本で食いつなぎながら、月に一回上演して、隣人が『もう止めたら?あの子が生き返るわけじゃないのよ?』って言うのに、こう答えるんだ。『俺はあの子の笑顔を毎日見たかったんだ』って。それに呆れて隣人が退場して、代わりに一人の女の子がやってきて、『ありがとうございます』って言って、エンド」
 長いよ、という友人の顔が目に浮かぶ。長くてもいいのだ。僕にとっては、それが必要なのだ。
 僕は神に臨まない。ただ悦楽に飢え乾くだけの亡者は、心のままに言葉を繰るだけだ。

posted by alohz at 22:27| Comment(0) | TrackBack(0) | [短編]日常の風景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

玄関口

 空港のビルを出ると、途端に熱気が全身に覆いかぶさってきて、一瞬息が詰まる。熱帯の空気だ。
空港の一階すぐ外にタクシースタンドがある。昔は外に出て路線バスを捕まえることができたのだが、今は無理だ。ここから市内行きのバスがあるかどうかも知らない。
 そもそも何も知らないのだ。特に理由はないが、調べたり準備したりを一切せずに来た。ついさっき、市内と空港とを繋ぐエアポートリンクの看板があった。辞書が無くても大体何が書いてあるかはわかるが、そこに書かれていない停車駅はわからない。無料だから乗ってもよかったのだが、どこに行くのかも定かでないもののために一時間も待つ気にはならなかった。
 前の空港からそのまま持ってきたような、古びたデスクが三つ。まん中のデスクには、つまらなそうな顔の女がつまらなそうに「Where you go?」と訊いてくる。「โรงแรม แอมบาซาด้า(アンバサダーホテル)」と返して、「สุขุมวิท ซอย11(スクムヴィットのソイ11)」と付け加える。女はわら半紙の紙切れに何やら書き込んで、いつの間にか近づいてきていたおっさんに渡した。水色のシャツ。タクシーの運転手だ。女はこっちが慣れていると踏んだのか、ついて行けという身振りすらなく、空港の方に向き直った。
 おっさんの車は黄色と緑のツートンカラー。それにべたべたとステッカーが貼ってある。旅行かばんを後部座席に放り込んで、自分も乗り込んだ。社内は外側の印象よりずっときれいだが、天上に紙幣をラミネ加工したものが新旧取り混ぜていくつもある。単に国王の肖像が入っているからか、他に意味があるのかはわからない。
แอม-บาซา่ด้าหรือ(アン・バサダーだっけ?)」「ครับ BTS เออ นานา ซเทชั่น(はい。BTS の、えー、ナーナーステーションです)」
 当然訊かれるはずのことなのに言葉が出てこなくて、とっさに外国人っぽく英語で逃げた。駅は สถานี だ。それでもタイ語ならなんとか言葉が口をついて出る。こんなど忘れはいつものことだ。
「มาจากไหน?(どこから来たの?)」「พูดไทยได้หรือ(タイ語しゃべれるのか)」はよく言われるから、半ば定型文になった答えが口をついて出る。「มาบอยไหม?(よく来るの?)」でつまづいた。学生の時はよく来たけど、としどろもどろで返すと、次の話題に移っていった。
 有料道路に入る頃には、車内はカーラジオの音楽が響いていた。日本語でも大してしゃべれない僕には拙いタイ語で必死で話し続ける元気もネタもない。代わりに考える。
 日本はいい、発展してるし、みんな金持ちだ。日本と戦ってもタイは勝てない。そう言っていた。タイは良くない、とも。タイもすごいペースで発展しているし、金持ちが増えた。日本は生活保護の対象世帯が増えているし、全体に精神病的なところが徐々に表に出始めてきている。彼に伝えることはできなかったが、どっちもどっちだ。
 プルンチットの出口で高速を降りると、相変わらずの渋滞に引っかかった。ホテルまで乗って行くのは諦めて、少し歩く。暑い。歩道がたがた。Hello、Taxi! とタクシーやトゥクトゥクの運転手が声をかけてくる。派手な服を着て路上で群れている女たちの前を通り過ぎ、五分と経たずに今日の宿に着いた。
 ああ、またタイに来た。何のためでもない、ただ来るために。

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2010年07月08日

「でもねー、難しいよね……」
 彼女の言葉に、俺は頷くことぐらいしかできない。彼女が抱えている問題は、俺が漫画や雑誌でしか見たことがないことで、答えはもちろん、それに近づくためのヒントを口にすることもできない。俺よりも常に先にいる人なのだ。
 俺はコーヒーをすすり、彼女は紅茶を口にした。
 話は音楽のことになった。最近聴いた、素敵な歌の話。俺も聴いていた曲だったから、ひとしきり話が弾む。そのうち機会があれば歌いたいんだけどね、と彼女は言い、歌えばいいじゃないと俺は言った。お互いに幾度となく言い合った言葉だ。
 俺は彼女の歌が好きだ。
 技術があるとか引き込まれるような力があるというわけではないが、思いをそのまま口にしているような素直さがある。プロとして何百人、何千人に語りかけるより、何人、何十人に歌いかけるのに向いた、パーソナルな歌だ。

 話は彼女の抱えたものに戻る。彼女は頑張っていて、それなのに、あるいはそれ故に、抱えきれないほどの辛いことを抱えてしまう。頑張ったことがほとんどない、逃げから始める俺が持っていないものを、逃げない彼女は持っている。逃げられる俺が持たないものを、逃げられない彼女は持ってしまう。
 だから彼女は魅力的なのだ。苦しむが故に。
 だから彼女は苦しむのだ。魅力的であるが故に。

 彼女が紅茶を飲み干し、俺のコーヒーが空になっても、彼女は答えを見つけられなかった。会ってすぐの頃からたまに見ていて、最近はもう見慣れてしまった顔をして、席を立つ。
 その顔、自嘲の笑みも、彼女が浮かべるとたまらなく魅力的なのだ。

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2010年01月25日

紺色の襟

 私立誠教[せいきょう]学園。広大な敷地内に、増築に増築を重ねて迷宮のような建物群を形成した、60年の歴史を数える学校。その創立時の校舎は「旧校舎」と呼ばれ、現在は使われることも滅多になくなり、人気はほとんどない。
 その旧校舎の一階の隅にある、教室の札のない一室で気だるげな少女の声がした。
「あ〜……ヒマ」
 その声の主は、思わず零れた呟きをそのまま形にしたように、古びたソファーにだらしなく寝そべっていた。艶やかな黒髪は床にまで流れ落ち、手すりに足をかけて膝を立てているせいで、紺一色のセーラー服のスカートから白い脚が太ももまで見えてしまっているが、当の本人は気にした様子もない。
 実際、気にする必要などないのだった。今はまだ5時間目の授業中。室内には彼女独り。加えて彼女、庚[かのえ]夕子が普通の人に姿を見られることは、よほど特殊な状況でもない限り、ない。何となれば、彼女は幽霊なのだ。
 夕子はわずかに身じろぎして、机ごしにもう1つのソファーを見た。放課後になれば1人の少年が座るそこは、まだ空のままだ。行こうと思えば、キャンパス内ならどこにでも行ける。彼に会いに行くことだってできる。だが、今は出歩く気分ではなかった。
 それでもヒマなものはヒマなのだ。そして彼女の退屈を紛らしてくれるものも、手の届くところにはないのだった。

 3回のチャイムをソファーの上でやり過ごして、さらにもう少し。足音が1つ、ゆっくりと近づいてきた。脚を下ろしてスカートを直し、ゆったりと座り直した。悠然と入口を振り返ると、見事なタイミングで引き戸ががらりと動いた。
「こんにちは、夕子さん」
「来たわね、貞一君」
 現れた男子生徒は夕子に当然のように挨拶をすると、夕子の向かい側のソファーに腰を下ろした。同時にあくびが漏れるのを手で隠す。
「どうしたの?なんだか眠そうね」
 訊きながら思いつくに任せて、貞一のあくびが収まるのを待たずに付け加えた。
「怖い夢でも見て眠れなかった?」
「ち、違いますよ!」
 夕子の悪戯っぽい笑みに、貞一は心外そうに否定した。普段はわりに整った顔立ちなのだが、こういう表情になると急に子供っぽく見える。自分の期待に十分応えてくれたことに満足すると、夕子はすっと立ち上がり、貞一の隣に腰を下ろした。隣と言っても少し間を空けて、ソファーの端っこに。
「どうしたんですか?」
「眠いんでしょ?少し寝たら?」
 そう言って自分の膝をぽんぽんと叩いてみせると、貞一は慌てて首を振った。すぐに頬が真っ赤に染まる。
「そんな、い、いいですよ!」
「遠慮することないわ。前にもやったじゃない」
 前、というのは2人が出会った日の翌日、初めて2人でお昼を食べた時のことだ。
 そう言われてぴたりと動きを止めた貞一を手を伸ばして引き寄せると、貞一はまだ頬を赤らめたまま、それでも素直に横になった。この世のものならぬ夕子の太ももは、貞一の頭を優しく支えた。
「すみません……それじゃ、少しだけ」
「いいわよ、ゆっくり休んだら」
 優しく声をかけ、細い指で髪を梳いてやる。程なく寝息を立て始めた貞一の顔をじっと見つめる。初めて見る貞一の寝顔に、思わず頬が緩む。
 放課後の喧噪からも遠いこの部屋には、木々の鳴る音が入ってくるばかりだ。
 しばらく見つめていて、夕子は眠気の理由を聞きそびれたことに気付いた。

 貞一が目を覚ましたのは、もう日が傾いて部屋の中にまっすぐ入ってくる時間だった。
「……ん……くぁ……ふ」
「あ、起きた?」
 夕子の声に、まだ眠そうな声で「はい」と答えて、ゆっくりと身を起こす。そこでようやく少し目が覚めてきたようだった。室内を染め上げる夕焼けの色に気付いて、ぱっと時計を見た。
「あれ、うわ!もうこんな時間!」
 慌てた様子で夕子に向き直って謝った。
「すみません、長いこと寝ちゃって……」
「何で謝るの?わたしが寝たらって言ったんだし、貞一君が謝る必要はどこにもないわ」
 貞一ならこう言うだろうな、ということは予想していた。あまりにもそのとおりだったのがおかしくて、笑いが漏れる。貞一もその様子を見て、それ以上何か言おうとはしなかった。
「それで貞一君、今日はどうしてそんなに眠そうだったの?」
「あ、さっき言ってませんでしたっけ。本読んでたら止まらなくなっちゃったんです」
「何の本?」
 夕子は特に考えずに訊いたのだが、貞一はわずかに口ごもった。
「え、その……友だちから借りたファンタジー小説です。もう返しちゃったんで手元にないんですけど」
「ふーん……」
「そういえば、この間から夕子さん、昔の制服着てますよね。最初に会った時は今の制服だったのに」
「そうよ?今頃気付いたの?」
 ずずっと近寄ると、貞一は焦りの表情を浮かべた。それは急に話題を変えたせいか、単に夕子が近づいてきたからなのか。
「いえ、その、どうしてかなって……」
「貞一君が前にこっちの方がいいって言ったからじゃない。わたしにはこっちの方が似合ってるって」
「え……?」
 貞一は眉をひそめた。そんなことを言った覚えがない。すぐ近くからじーっと見つめられながら、必死で記憶を探す。まだ2週間足らずしか経っていないのだ、いくら慌てていても掘り起こすものはそれほど多くない。やがて、それらしいことに思い至った。前に膝枕をしてもらった日。初めてこの制服を着てみせてくれた日のこと。

――なんだか、この方がしっくりきますね。

「あ、あれでずっとこの制服を着てたんですか!?」
「そうよ?だって、わたしのことを見てくれるのは貞一君しかいないんだもの」
 貞一はその言葉にハッとする。そして、どう返事をしていいのか迷った様子で、わずかに視線を落とした。
「だから、ね」
 夕子はするりと貞一のそばを通り抜けると、手すりにちょんと尻を載せて、貞一を後ろからそっと抱きしめた。
「貞一君にはずっとそばにいて、ちゃんとわたしのことを見てほしいな」
「……はい」
 頬に息がかかるくらいの距離に振り向くこともできず、背中に押しつけられた体の柔らかさと暖かさに真っ赤になって、それでも貞一は頷いた。

+fanfiction of [黄昏乙女×アムネジア]by めいびい

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2009年11月21日

買収

「ふざけんなー!」
 井上家に怒声が響き渡る。高校生の美紀と三歳年上の兄、浩太は、色とりどりの服が散らばった浩太の部屋で向かい合っていた。
「どこもふざけてないぞ。俺は大まじめだ」
「弟にライブで水着着ろとか大まじめに言ってんじゃねぇ!」
「自前のは生々しいかと思ってわざわざ買ってきた兄たちの気遣いに対して何かないのか?」
「死ね!」
 美紀が仁王立ちで顔を真っ赤にして怒っているのに、浩太は座布団に座ったまま、まるで気にした様子もない。浩太の隣で散らばった服を並べている寛美も、美紀の剣幕を見事に無視して口を挟んだ。
「それ、かわいいと思うけどな。ミキ君脚長いし色白だから、紺のスク水は映えるよきっと」
「映えりゃいいってもんじゃないでしょ!プールとかなら……それもかなりアレですけど!なんでライブハウスで水着着て楽器弾かなきゃいけないんですか!明らかにおかしいでしょそれ!?」
「それがステージ衣装ってもんだ。それ言ったらおかしくない衣装なんてないぞ?」
「このカッコならおかしくねーだろ」
 そう言ってばっと両手を広げてみせる。着ているのはタートルネックの黒いセーターに色の濃いジーパン。それをじーっと見ていた浩太は、無言で肩をすくめた。寛美が代わりにコメント。
「普段着としては全然おかしくないけど、ステージ衣装にはちょっと地味過ぎなんじゃないかな」
「だからって水着ですか」
「鉄板よ?」
「スケベ野郎が寄ってくるだけでしょ!」
「男の子はみんな好きだよね。ミキ君は?」
 何気ない口調で訊かれて、ぐっと詰まった。自分のことを親よりよく知っている兄やその彼女に対して、好きなわけないでしょ、とは言えない。いろいろ突っ込まれて余計に不利になりそうだ。
「み、見るのが好きだからって着るのもいいとは言わないですよ!」
「音だけじゃなくて見た目でも楽しませるのがカルマ式。お芝居は控えめだけどね?」
 きっぱりと言ったのは、バンドのキャッチコピー全文。三人と、この場にいないもう一人で組んでいるロックバンドだ。「ね?」まできちんと明文化されているところに、このバンドのベクトルの一端が現れている。
「それ言ったら寛美さん何着るんですか」
「あたしは……どうしよっか。まだ決めてないの」
「決めてないのかよ!なんでオレだけ!?」
「いつもミキ君から決めるからね」
「一番もめるからな。他のは大体すんなり決まるから後からでいいんだよ」
「もめるのはお前がとんでもない服ばっか選ぶからだろ!春のライブでリンの衣装着た時は大してもめなかっただろうが!」
「ありゃ俺と寛美でもめたんだよ。露出が少ないんじゃないかって」
「演出ならともかく人の露出度でもめんな!」
「重要よ?ミキ君モデル体型だもん、どう見せるかはちゃんと考えないと」
 美紀は確かに長身なのだが、そう言う寛美も美紀と五センチ程度低いくらいで、決して大きく差があるわけではない。肌の色も雪のように、とまではいかないにしても、美紀と同じく色白だ。そして美紀に比べれば明らかに凹凸がはっきりしている。
「自分の方がよっぽど重要じゃないですか」
「私のはミキ君に合わせて決めればいいじゃない」
「寛美は選り好みしないからな」
「してください」
「衣装着るの好きなんだもん」
「スク水も?」
「うん」
「オレはあんなの衣装とは思いませんっ!」
「見解の相違だな」
 怒鳴りすぎて肩で息をしている美紀を尻目に、浩太は携帯を出した。
「どうしたの?」
「いやちょっと手に負えねぇから援軍を」
 アドレス帳から誰かの番号を探し出して、耳に当てる。寛美はそれを見て、すっと立った。
「ミキ君、とりあえず座ったら?」
「いえ、なんか嫌な予感がするんで出ていきます」
「出ていかないでっ!」
 二人の言動に一抹どころでなく不安を覚えた美紀は、さっと背中を向けてドアノブに手をかけた。その背中に寛美が抱きついてきた。
「うわっ、と、わあっ!」
 不意を突かれてよろめいた拍子に今度はぐいぐいと引っ張られ、美紀はバランスを崩してベッドに引きずり倒された。間髪入れずに寛美がのしかかってくる。
「えいっ。ふふ、ミキ君〜」
「え、ちょ、ちょっと寛美さんっ?!何やってるんですか!」
「かわいい義弟[おとうと]に抱きつきたくなったの」
「なったの、じゃなくて!どいてくださいって!」
「いや」
「あー、もしもし。今大丈夫か?……うん、いやちょっと頼みたいことがあってな」
 電話が繋がったらしく、浩太が誰かと話し始めた。寛美はそれをまるっきり無視して、完全に美紀を押さえ込んでいる。女性らしい寛美の体を全身に押しつけられて、美紀は強引に動けない。さらに寛美自身、実は結構力があるのだ。
「いやな、今年もまたウチの大学の学祭でライブやるんだけどさ。その衣装のことでちょっとお前から頼んでもらおうと思って。俺らが言ったんじゃ聞かなくてさ」
 誰に電話しているのかは言われなくてもわかる。浩太が番号を知っている美紀の友人はそもそも一人だけだ。相手が話しているんだろう、浩太は黙って頷いている。その沈黙が怖い。
 が、少々様子がおかしい。浩太が困惑の表情を浮かべたのだ。
「え、マジで。そこを何とか。お前も美紀がかわいいカッコしてるの見たいだろ?」
「いーぞ雅!さくっと断れ!」
 電話の向こうにも聞こえるくらいの声で叫ぶ。寛美が慌てて口を塞いだが、もう手遅れ。
 もうしばらく小声で話をして、浩太は電話を切るなりため息をついた。
「ダメだったの?」
「本人がそこまで嫌がってるなら協力できないとさ」
 残念そうな二人とは対照的に、美紀はようやく笑みを浮かべた。愛しい親友はやはり美紀のことをよくわかっている。
「で、結論も出たことだし、寛美さんどいてくれない?」
「いや」
「なんで!?」
 今度はただの冗談だったようで、寛美は笑ってどいてくれた。美紀はぱっと飛び起きるなり、足元の衣装は踏まないようにドアに飛びつく。その背中に浩太が声をかけた。
「ああ、美紀。雅に免じて二択だ。どっちか好きな方選べ」
 ぴたりと足を止めた美紀は、それでも振り向くかどうか数秒悩んでから、渋々振り返った。
「どれとどれだよ」
 浩太はテーブルから文庫本を2冊取ると、さっき寛美がきれいに並べた服のうち2着のそばに置いた。
 片方は黒のチューブトップにホットパンツ、サスペンダーとブーツ付き。もう片方は赤と黒がベースのフリルたっぷりゴシックドレス、肘までの手袋とニーソックス付き。
 前者は露出度も色気も満点、後者はこれでもかというぐらいお嬢様ファッションで、胸はしっかり開いている。
「これとこれな。ハルヒととらドラ、どっちにする?」
「ぐっ……!」
 まずは寛美が着たところを想像してみる。チューブトップにホットパンツは思わず鼻の辺りを抑えてしまいそうなくらいにセクシーだ。ゴシックドレスは胸元のセクシーさ以上に全体のかわいさが引き立つ感じ。スタイルのいい寛美が着るなら前者だろう。続いて自分が着たところを想像してみる。
「……とらドラ」
「よし。じゃこっちをベースに俺らの決めよう」
 5分近く悩んだ挙げ句、絞り出すように答えた美紀に、浩太は実にあっさりと頷いたのだった。


※この話は「私の特権」(「mnfikmyhk CREATURE MIXTURE 4」収録)の番外編です。

posted by alohz at 09:00| Comment(5) | TrackBack(0) | [短編]日常の風景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月22日

とあるお見合いの席

 和室に正座する若い男女。
 女性は両親に挟まれ、男性は父親と叔母に挟まれて、向かい合っている。
「あの、ご趣味は……?」
 男性が切り出す。女性ははにかみながら返す。
「ネット動画を少々……」
「ほう。いいご趣味ですね、どの辺りをよくご覧になります?」
「MAD を主に……それから、楽器演奏も時折見ます」
 男性の叔母はそれってどういう……と口を挟みかけた。が、それよりも早く、目を輝かせた男性が答える。
「普通ならなかなか見られないものもありますし、時間を忘れてしまいますね。コメントなどなさるんですか?」
「ええ。その、お恥ずかしながら職人の真似事などしております」
 先刻以上に恥ずかしそうに言う。場にそぐわない単語に両家の親はやや戸惑った視線を交わしている。
「なんと。歌詞ですか?」
「いえ、その……いわゆるコメントの方を……」
「すごいんですね。私はコメントはまったく不調法なもので……」
 男性の賞賛に、女性はそっと笑った。恥じらいの中にもほのかな自負を匂わせる微笑み。
「あら、コメントはなさらないんですか?」
「ええ、見る方に夢中になってしまって。でも、たまに、ですが吹いてみたなどすることもあります」
「まぁ、吹いてみたを?何を演奏されるんですか?」
「クラリネットを少々」
 今度は男性の方が、やや気恥ずかしげな笑みを浮かべる番だ。そしてクラリネット、と口にした瞬間、彼の叔母は自分のターンを敏感に読み取った。
「ええ、明彦君は中学の頃から楽器をずっと演奏されているのよ」
「止してください。そんなに大それたものじゃありませんよ。ただ自分の楽しみでやっているくらいですから」
 叔母の言葉に苦笑気味に答える。それが届いているのかいないのか、女性の方は重ねて尋ねた。
「クラリネットはそれほど多くありませんから、拝見しているかもしれません。どんな曲を上げられたんですか?」
「そうですね、今までに上げたのはサイハテとアストロノーツ、それにちょっと違いますが、芥川龍之介の河童のアレンジとか」
「芥川……あ、にとりですか?」
「そうですそうです」
 曲名だと推察して、ここは引きどころと叔母。親達は怪訝そうな顔で若い二人を見つめていた。女性の母親は、どこでホームセンターの話になったのだろうと眉をひそめた。
「普段はぼかろがメインなんですが、たまに東方にも手を出してまして。特ににとりの唄はアレンジのアレンジなのに結構聴いていただいているみたいですし、職人さんもいらしてましたね。それはにとりが初めてだったんです」
 熱っぽく語る男性に、女性は何かを思い出したような顔をした。
「あの、ひょっとしてその動画、今年の三月頃じゃありませんか?」
「ええ、そうですが、ひょっとして聴いていただいてますか?」
「いえ、それどころか」
 女性の頬がすうっと朱に染まった。
「その職人、きっと私です。月のワルツみたいですごく怪しい雰囲気のはずなのに、優しい音色だったのでびっくりして、何度も聴き返したんです」
「本当ですか?」
「はい。それで思わず、拙い AA を入れてしまいました」
「あれが、貴女だったんですね……ありがとうございます」
「いえ、そんな。貴方の音楽がすばらしかったからです」
 いつしかお互いに頬を染めて、見つめ合う。一言ごとに頭の中に積み上がっていく疑問符を押しのけて、叔母はただ一人、この縁談の成功を確信した。
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2009年01月25日

双子星の紡ぐ音

 薄暗いライブハウスの階段を、咲子は春香の背中を頼りに下りていった。斜め下、狭い階段を下り切ったところの足下には窓があって、ガラス越しにステージが見える。今はスクリーンが下りていて、パソコンのスクリーンセーバーのように次々と変わる幾何学模様が映っていた。
 思わずじっと目で追っていると、横から春香に呼ばれた。
「咲子、ワンドリンク500円」
「あ、うん」
 窓の方に気を取られて、そばに受付があるのに気付かなかった。春香に急かされて、座っていた女の人に千円札を渡すと、おつりとドリンクチケット、チラシの束が入ったビニール袋を手渡された。
 もう一度階段を降りると、また窓。今度はステージが正面に見えた。もうかなりの人が、窓の中にも外にも立っている。
「春香、飲み物もらってこようか」
「あ、お願い」
 春香の分のドリンクチケットも受け取って、階段の裏側にあるカウンターに近寄った。メニューを見ていると、前の人にコップを渡した黒人のおばさんがこちらを無表情に見つめてくる。
「あ、えーと……こ、コーラ2つお願いします」
 視線に押されるようにして、慌て気味にそう言った。咲子は普段なら炭酸飲料はあまり飲まないのだが、アルコールが入っていないのはコーラぐらいしかないのだ。
 ぬっと突き出された分厚い手の平にチケットを乗せると、おばさんはすぐに大きめのコップを2つ取って、コーラを一杯に入れてくれた。
「Thank you」
「あ、ありがとうございます」
 いつも行くファーストフード店なら M サイズのコップを持って春香のところに戻る。また何人か客が増えたようだった。
「あ、ありがと。中入っときましょ。前埋まっちゃうかもしれないし」
 そう言ってすっと人の間を抜けていく春香にくっついて、防音扉の中に入る。中にはテーブルがぽつぽつとあるが、どれも先客で埋まっていた。2人は最前列、演奏者の足下に陣取った。コーラは手に持ったままだ。ステージの少し手前に柵があるから、その辺りに置けるかな、と咲子は見て取った。
 今はスクリーンに隠れているステージを見透かすように見て、咲子は春香に訊いた。
「2人でどんな演奏するのかな」
「あの2人のことだから、バラードばっかりなんてことは絶対ないし、テクノ寄りになるんじゃない?」
「テクノ?生楽器なのに」
「音もそうだけど、構成が、よ。京子さんはエフェクター使うぐらいだろうけど、小川さん、ドラム叩くかもしれないし、リズムマシン使うかもしれないわね。あの人なら何でも持ってそうだもんね」
 春香はそう言って、自分で言った構成ならどうなるか、と音を想像し始めた。咲子には『テクノ寄り』な音楽がどういうものか、にわかに想像がつかない。そもそもテクノを意識的に聴いたことがないのだ。
 気がつけば自分たちの隣にも人が立っていた。後ろを振り返ると、さっきはテーブルの周り以外は比較的空いていたのに、外にいた人がほとんど入ってきているのか、入り口のドアや窓が見えないくらい混んでいた。
 BGM がすーっとフェードアウトすると、スクリーンが音もなく上がり、ざわめきが拍手に変わる。ステージには2人が丸椅子に座っていた。三春はギター、小川はベースを抱え、アンプが背後に置いてある。弾き語りができるように、それぞれにマイクが置かれている。それだけだ。
 三春がゆっくりと歌い出す。楽器に腕を乗せたまま、歌声だけが響く。小川のコーラスが重なり、耳馴染みのない、どこか哀愁を帯びたメロディーを飾る。そのままアカペラで一曲歌いきった。咲子にとっては伴奏のいらない、完璧なハーモニーだった。
 わき上がるような拍手が収まると、2曲目がカッティングギターとスラップベースのイントロで始まった。さっきの曲もそうだが、この曲も聴いたことがなかった。
 だが、三春が歌い出した瞬間、咲子は弾かれたように春香の方を振り返った。春香は三春の方を驚きの表情で見つめ、やがて咲子の視線に気付いてこちらを向いた。アレンジこそまったく違うが、春香が書いた曲なのだ。2人同時にステージに視線を戻す。
 春香よりも低くて太い三春の声は隙間の多い伴奏でさらにその力を際立たせ、躍動感の強い伴奏と相まってまるで聴いたことのない曲のように響く。それなのに、メロディーは間違いなく春香が自分の声で作ったものだ。
 曲が終わり、拍手が落ち着いてくると、三春がマイクに口を寄せた。
「ありがとう。1曲目は Roaming Sheep、2曲目は黄金色の鍵、とお送りしました」
「1曲目は某有名ゲームのイメージソングで、2曲目は僕らとバンド組んでる子のオリジナルです。これは京子さんの希望で今日やったんですけど、元の曲とは全然違うアレンジにしました」
 三春に続いて小川が曲の説明をした。それを聞いて、咲子は思わず春香に耳打ちした。
「三春先生が選んでくれたんだね」
 嬉しそうな咲子とは対照的に、春香は難しい顔で頷いた。
「これくらいやれよって言われた気分だわ」
「そうかなぁ……単純に気に入ってくれたんだと思うけど」
 足下でこそこそと話しているのが聞こえているのかいないのか、ステージ上の2人はお互いおしゃべりでもしているような調子で次の曲紹介に入った。
「さて、じゃー次は2曲続けてやります」
「あれ、次3曲じゃなかった?」
「そうだっけ」
「そうだよ。決めたの昨日なんだからちゃんと覚えててよ……」
 三春はいつもどおりだが、小川はいつもよりずいぶんラフな口調だ。
 呆れ顔で言って笑いを誘う小川に、三春は「いいんだよ、2曲で!」とぴしゃりと言って、小川が何か言うより先に弾き始めた。
 小川は大げさに慌ててベースを構えると、まるでずっと待ちかまえていたようなタイミングで弾き始めた。そのままミドルテンポのポップな曲を2曲弾くと、三春は拍手に「ありがとう」と答えてギターから手を離した。本当に2曲で止めてしまったのだ。
 咲子はどこからどこまでが打ち合わせをしてあったのかわからなくなってきた。三春の言い方が本気なような気もするが、小川の対応を見ていると台本どおり、という気がしてくる。
 と、春香がそっとささやいた。
「京子さん、本気で忘れてたわね。あんな強引なこと、デュオじゃなかったらできないわ」
「あれ、元々2曲だったんじゃないの?」
「小川さんならともかく、京子さんよ?仕込んで意味があるネタじゃないし」
 目の前に本人がいるのにすごい言い様だが、咲子もついつい同意してしまった。
「さて……あ、そーか3曲か」
「え?何が?」
 ステージ上では、三春が次の曲を言おうとして、突然思いだしたように言った。
「いや、これで曲紹介してメンバー紹介してラスト2曲って考えてたのに、1曲余るな」
「今思い出したの!?」
 がっくりと突っ伏した小川に会場中がどっと湧いた。咲子はおかしい反面、なんだか恥ずかしくなってきた。
「ま、いーや。じゃあラスト3曲やります」
「の、前にメンバー紹介を」
 平然と言った三春にかぶせるように小川が割り込んだが、これは予定どおりなのか、三春は当然のように次の言葉を待った。
「ギター、三春京子」
 三春が手を上げると、わっと拍手が湧いた。それが収まるのを待って、今度は三春がマイクを近づけた。
「ベース、小川和紀」
 再び拍手が湧いた。咲子が精一杯拍手している横で、春香は自分も手を叩きながら真剣な顔で耳を澄ませていた。
「大体同じくらいね」
「何が?」
「拍手の量」
「……そりゃそうよ」
「人気に差があると如実らしいわよ」
 あくまで真剣な春香の意図がよくわからず、咲子は曖昧に頷いた。
 じゃあ改めて、と言って三春が弾き始めたのは、ゆっくりとしたアルペジオ。ギターの底を支えるように、ベースも同時に入った。
 A メロは小川1人で歌った。ここまでずっとコーラスだけだったが、三春のような特徴のある声とは違う、アクの少ない声がバラードに乗ると、すーっと頭に入ってくる感じがする。
 サビに入ると三春がメロディーを引き継ぎ、小川はハーモニーに回った。咲子は急に2人が入れ替わったのにあれ、と思ったが、すぐに納得した。小川の音域ではちょっと高すぎるのだ。しかし、力強い三春のメロディーに低い音で合わせたハモりはぴたりと合っていて、高音域から逃げているようにはとても思えなかった。
 ブリッジは2人交代で、最後のサビは再び三春がメロディーを取って、終わった。拍手が収まるのを待って、今度は小川が先に弾き始めた。さっきまでは客の方を見たり、お互いの方を見たりしていた2人が、気付けばどちらも顔を伏せていた。
「……これ、何拍子?」
 咲子は思わず春香に訊いてしまった。音の長さもフレーズも不規則で、どこまでが一小節なのかわからない。
「たぶん……8分の7」
 答えてはくれたが、春香も自信はなさそうだ。それも三春のギターが入ってきたときに崩れた。思いも寄らないタイミングで入ってきたからだろう、春香があれ、という反応をしたのが咲子にもわかった。歌は入ってこない。
 咲子にはもう今出ている音がどういう構成によるものなのか、さっぱりわからない。ただ、頭の中にまとわりついてくるような音の流れに囚われながら、短い前髪に隠れて表情の見えない小川の手をじっと見つめるだけだ。それでも、わずかにアクセントはあれど滔々と流れるベースと、逆にメロディーらしきフレーズを飛び飛びに入れるギターとの絡み合いは、まったくつかみ所がないのに不思議と不快ではなかった。
 不意に音が消えた。全員が虚を突かれたのだろう。曲が終わったのだ、と最初に気付いた誰かが手を叩くまでに、数秒かかった。拍手が始まったとき、三春と小川が同時にふっと顔を上げ、目を合わせてにやっと笑い合ったのが見えた。
 最後の曲は、一転してストレートなロックだった。ディストーションとファズで歪んだ弦の音に三春の力強い声が重なり合う。それに時折コーラスが入る。アクセントやブレイクを駆使してドラムがないことを感じさせない2人の演奏は、前の曲で感じたぼんやりとした感覚からはほど遠い緻密な構成を見せつけるようだった。
「ありがとうございました!」
「ありがとう!」
 最後の音の残響が消える暇も与えずに、2人は素早くアンプからシールドを引き抜き、拍手に見送られて下手の袖に並んで消えていった。遅れて、スクリーンが下りてくる。照明も戻って、アンコールをかけていた一群が諦めるのに合わせて、咲子は手を止めて、思わずほうっとため息をついた。
「すごかった……」
「2人であれだけやれるんだもんね……」
 春香も呟く。春には咲子と春香も同じフォーマットで演奏した。だからこそ、自分たちとの差がはっきりとわかる。
 2人はしばらく動かずに、氷が溶けてやたらと薄くなったコーラをちびちびと飲んだ。
「咲子、一旦出ましょ。次のバンドを聴きに来た人にここ譲んないと」
「あ、うん」
 春香に言われて、咲子はまた春香にくっついて外に出た。ぼーっとしている間に結構人は動いていたらしく、さっきはいなかったグループが入り口のそばでしゃべっていたし、咲子たちのいた最前列はすぐに別の人が陣取った。
「先生たち、出てくるかな」
「ちょっと待てば出てくるんじゃない?」
 ざわざわと狭いところに人がひしめく中、2人はたばこの煙を避けてすみっこに立っていた。結構知り合い同士も多いらしく、あちこちで挨拶したり親しげにしゃべっている。もちろん、2人の知り合いは1人もいない。
「あ、出てきた」
 手持ちぶさたできょろきょろしていた咲子は、奥の階段から2人が上ってくるのを見つけた。春香もわかったらしかったが、その場を動かない。
「他にもいろいろ知り合いとかいるだろうし、ちょっと待ちましょ」
 春香はそう言って、2人の方を見ていた。春香の言ったとおり、階段を上りきるとすぐそばにいた2、3人のグループが2人に気付いて話しかけ、2人も親しげに言葉を返した。そうして次々に言葉を交わす2人は、咲子の知っている教師としての2人とはまるで違う人のようだった。
「ああ、2人とも来てくれたんだな。ありがとう」
「よう。ああ春香、『黄金色の鍵』借りたぞ」
 やがてやってきた三春の第一声に春香はすぐに反応した。
「次無断でやったら使用料取りますよ」
「来るって聞いてたからビビらそうと思ってな」
「しかし、てきめんだったね」
「すげー顔してたもんな」
 三春も小川も、全然悪いと思っていない様子で笑う。春香は恥ずかしそうに食ってかかった。
「当たり前でしょ!イントロ全然違うし誰も自分の曲やるなんて思わないわよ!」
「でもあたしあの曲、特に好きだからさ」
 春香がぐっと詰まった。そんな春香を、三春はわしわしとなでた。いつもならすぐに振り払いそうな春香が、されるがままになっている。きっと三春も振り払われるとは思っていないのだろう。
「なんか2人、姉妹みたい」
「ホントだねぇ」
 咲子が言うと、小川もしみじみと頷いた。
「お、京子ちゃん娘さん?」
「……ぶっ殺すよ?あたしがいくつだと思ってんだ」
 後ろから声をかけた中年のおじさんに、三春は一転してぎらりと鋭い視線を向けた。おじさんはまるっきり意に介さない。
「ああ、教え子か。京子ちゃんの子にしちゃちょっと大きいと思った」
「ちょっとで済むか。せめて妹とか言えねーのかよ」
「いやそれは無理」
 咲子の感想をおじさんは即座に切って捨ててしまった。小川も苦笑していた。
 咲子はそういえばまだ今日の感想も言っていないと気付いて小川の袖を引いた。
「今日の演奏、すごかったです」
「ん、ありがとう。今日はまぁまぁうまくいったかな」
「まぁまぁ……」
 あれ以上があるんだろうか。咲子は2人が最高だった、と言う演奏が想像できなかった。
「あ、最後から2曲目って、あれ何拍子だったんですか?全然わからなくて……」
「あれは8分の7とハチロクを適当に混ぜてた。1曲ぐらいああいうの入れないと物足りなくてさ。ポップス路線でもよかったんだけど」
 7拍子は普通に考えても変拍子だが、それにさらに8分の6拍子を混ぜたと言う。まだ3拍子も満足に弾けない咲子には想像もつかない世界だ。
「適当にって……楽譜見ないでよく弾けますね」
「そりゃ自分で作った曲だからな、覚えてるよ」
「三春先生は?」
「京子さんは本能で覚える人だから。楽譜書けない曲でも弾けるんだからおかしいよなこの人」
「ん?なんか言ったか?」
「何にも」
「三春先生はすごいって話です」
「なんだそりゃ。今更何言ってんだか」
 しれっと言う。それが根拠のない自信には見えないから、この人は本当にすごいのだと思う。そして、そういうことを口では言わない小川も、楽器を手にした姿は自信に満ちている。
 咲子は春香と一緒に、階段を上っていった。時間も遅くなってきたので、次のバンドは聞かないで出ることにしたのだ。
「もっとうまくなんなきゃな」
 春香は、賑やかな夜の街に溶けてしまいそうな声で言った。
「そうだね。あんな人たちと一緒にやれるんだもんね」
「それに、曲も書かないと」
 咲子の相づちは耳に入っていないような、そんな呟きだった。それも仕方ないかと、咲子は今度は返事をしなかった。咲子にはまだ曲を書いたりアレンジしたり、というような作業には手が届かない。ベースをうまく弾けるようになるしかない。
 それに、春香はきっと今、感動しているのだ。三春が好きだといってくれた曲は、春香と咲子がたった1回だけ、デュオで演奏した曲だ。三春はその曲を聴いて、自分たちを認めてくれた。
 三春の知るあの曲は、作ったときの想いだけでなく、2人で必死で練習した時間と想いもこもった曲なのだ。

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2008年12月25日

ミクとクリスマス

『ねーキョー君、そろそろクリスマスだよ?』
「そうだな。それがどうかしたか?」
『……』
 何を思ったのか突然そんなことを言いだしたと思ったら、じーっとこちらを見ている。
「曲作れって?」
『あ、えーと、うん。それはそーなんだけど。キョー君のクリスマス中止?』
「流行りに乗って失礼なこと言うなこのお子様」
 むぎゅーっとほっぺたを引っ張ってやる。が、さすがに慣れてきたのかあんまり表情が変わらない。
『だってキョー君、冬休みに入ってから外出たの2、3回だけじゃん。それもコンビニとかスーパーだったでしょ?』
 ほっぺた引っ張られた面白い顔のまま反論してくる。確かにそれは事実で、先週末から食べ物や日用品の買い物以外はずっと部屋にこもりっきりだ。
「メシ食えないのは困るだろう。洗剤も切れてたし」
『だよね。キョー君とこじゃサンタさんも来ないし』
「そりゃまぁそうだな。別に失業されても困らないな」
 実際、来られても困る歳ではある。一人暮らしだし、うっかり変質者と間違えそうだ。
「お前んとこには来るわけないしなぁ」
『ミクももう子供じゃないからねー』
「いや、いい子のとこにしか来ないんだろ?」
『ミクいい子だよっ!』
「ほーう?そうかなぁ。いい子は人のカードでこっそり買い物したりしないと思うんだけどなぁ……」
 わざとらしく言ってやると、ミクはぴたりと静止した。見事なストップモーションだ。
『ば……バレた?』
「お前俺のアカウント使ってバレねーとでも思ったか。ちゃんと注文キャンセルしといたから」
『えー?』
「えーじゃねえ。遠慮なしに注文しやがって、破産させる気か」
 そうなのだ。ちょっと前にパソコンを使っている時にちょっと出ていて、帰ってきたときにはブラウザが落としてあった。それはいいんだが、履歴が丸ごと消されていたので怪しいと思って調べてみたら、ソフト音源やシーケンサを山のように注文していたのだ。総額が7桁に到達しかかっていて、卒倒しそうになった。
『うー。キョー君のクリスマスなんて永遠に中止しちゃえばいいんだー!』
 子供みたいな捨て台詞を吐いてベッドにころんと転がった。
「あ、俺イブは家にいるけど25日は出かけるから」
 その背中にそう言うと、ミクはぱっと跳ね起きた。
『え!?中止じゃないの!?』
「勝手に中止すんな。向こうがイブはバイト抜けられねぇって言うんだよ」
 大きな目がまん丸になって、これでもかというくらいに驚きを表現していた。あとまた動きが止まっている。
「あとこれからちょっと買い物行ってくるな。1時間くらいで帰ってくるから」
『う、うん。行ってらっしゃい』
 素直に、というより呆然と送り出してくれた。わからんでもないけど、そんなに意外か。

 撤去されることなく、昼間っからイルミネーションで彩られた街を回っていくつか買い物を済ませる。25日に会うのは別に彼女でもなんでもないし、さらに言えば1人じゃないんだが、ミクの反応が面白かったからそのままにしておこう。
 最後に楽器屋に寄って、隅っこの方の棚とにらめっこする。10分ほど悩んで、棚から CD を1枚取ると、レジに持っていった。別にミクにあげるわけじゃないし、ミクが喜ぶかどうかはわからないが、大量に注文された音源のうち1つくらいはうちにあってもいいだろう。
 そろそろクリスマスだしな。

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2008年12月01日

歳末大放出祭

 単に歳末というだけではない。ここのところの景気の悪さはニュースや新聞の中から俺を始めとする中流以下のサラリーマンたちの財布の中にまで浸食してきていたからだろう。近所にあるショッピングモールは、セールのチラシを見てきたのだろう、主婦や家族連れでごった返していた。
「こりゃあ晩飯の買い物するだけでも一苦労だぜぇ」
「でも、冷蔵庫は今朝のめざしで空っぽになったよ」
 うちの小さな主婦の一言に俺はため息で答えた。日々の買い物はこいつが適当にやってくれているが、やっぱり土日のどちらかにはまとめ買いをしたいらしい。
「とりあえず食料品は後回しだ」
「あ、じゃあ3階」
「ん?ワイシャツはまだ買うようなことないだろ?」
「……あたしの下着」
「ああ、そっか。同じフロアか」
 紳士服かと思った。
 結[ゆい]に財布を渡して自分で適当に買いに行かせ、俺は戦場になっているワゴンセールを遠巻きにしながらエスカレーターのそばでぼーっと待っていた。自分の分の買い物が特にないと暇だ。
 大して迷うこともなかったのか、結はわりとすぐに戻ってきた。
「早かったな」
「そう?」
 それでもちょっと髪が乱れている。下着売り場はそれほどでもないと思ったが、それでもこのセールを待ってた主婦どもがたかっているんだろう。特に背の低い結は全力を出さないと通り抜けたりできなさそうだ。
 髪を手ぐしで梳いてやりながら、エスカレーターに向かう。ワゴンセールにたかる人だかりからは、何やら怒声まで聞こえてきた。げんなりしながらそっちに向かう。
「お兄ちゃん、そっち逆」
「ん?」
 結に服の裾を引っ張られてよく見ると、確かに反対だ。わざわざ好きこのんで騒ぎの中に突っ込む気があるはずもない。
「すまん」
 きびすを返した瞬間、ぱぁんと乾いた音がした。一瞬、フロア中の空気が凍り付いた気がした。瞬時に解凍されて、振り返った。人だかりのどこからか鳴った、ように聞こえたのだ。
 もう一度、同じような音がして、ようやくそばにいた奴らが悲鳴を上げた。1人が上げれば一気に連鎖する。そして、それでスイッチが入ったかのように、人の波が動き始めた。
「結!」
 頭に置いていた左手を細い腰に回すと、結もすぐに俺の首にかじりついてきた。その背を右腕で包んで抱え上げ、走る。どこへ?
「まだ銃持ってる……!」
 ささやくような結の言葉が耳に届いて、俺は足を止めて周囲を見渡した。フロア中が一個所に集まりつつある。下りエスカレーターに。
「結、誰かにぶつかっても許せ。あと奴らがこっち向いたら教えろ」
 期待はせずに、それでも声をかけておく。
「うん」
 どちらの方にか、とにかく結は頷いた。それで十分だ。
 客の隙間を縫って、俺はひたすら連中とは違う方に足を運んだ。また銃声が響く。と同時に、エスカレーターの方で新たな悲鳴が上がる。
 撃ち合いをやってる連中の姿を横目で確認した。黒人の兄ちゃんと日本人の兄ちゃん、どっちも女連れで、どっちも相手のことしか見えていない。弾が当たってるのかどうかはわからない。
 阿鼻叫喚が徐々に遠ざかっていく。エスカレーターの周りにこのフロアの客のほとんどが移動したのだ。一部は階段から逃げただろうが、ワゴンが置いてあるのが階段寄りだったからそっちは少数だろう。
 俺はといえば、可能な限りかがんで、向かい合っている2人のほぼ垂直に当たる方向に逃げていた。
 正直背筋が死にそうだが、結が流れ弾に当たったら最悪だ。今は連中との間に服を吊ってるハンガーがあるだけだ。一番近くの棚まで必死で走る。どうにか革靴の棚の陰に滑り込んで、一旦足を止めて深呼吸する。
 もう一度ワゴンの方を確認してから、大きく息を吸い込んで、店員の控え室に駆け込んだ。
「きゃぁっ!」
「ぅわあっ!」
「すまん、ちょっと避難させてくれ!」
 中にいた店員は一様に悲鳴を上げたが、俺が結を抱えていたのがよかったのだろう、すぐに奴が乱入してきたのではないとわかってくれた。
「奥にいてください」
「ありがとう。結、下りろ」
「うん」
 こういう時、結には悪いが結がこういう子でよかったと思う。まともに育った中学生なら泣きわめいてもおかしくない。
 それでも、俺にしがみついていた結は小さく震えていた。下りた結を抱き寄せてやると、がばっとしがみついてきた。奥に移動するのは難しそうだ。諦めて、ドアのそばの壁に背中をつけた。
 店員の1人が恐る恐る俺に声をかけた。
「外は……」
「客はほとんどエスカレーターに避難してる。2階が大混乱だろうな。撃ち合ってる奴らはどっちも弾が体に当たってたから、たぶんそろそろケリがつくだろ」
「そ、そうですか……」
 彼もその他の店員たちも一様に安堵の表情を見せた。
「警察には?」
「連絡しました。もう間もなく着くと思います」
 幾分落ち着きを取り戻した声でそう言って、結に笑顔を見せさえした。一方の結は、それに応える余裕はまるでない。初老の店員には目もくれずに、ひたすら俺を見上げている。ゆっくり頬を撫でてやると、少しだけ腕の力が緩んだが、視線は緩まなかった。

「お兄ちゃん」
「ん?」
 そう声を出せたのは、警察がぞろぞろと来始めてからだ。
「どうしてこっちに逃げたの?出口ないでしょ?」
「外に出なくてもよかったからな。撃ち合ってんのはどっちも一般人だったし、サシなら他の連中にわざわざ銃口向けたりしないだろ。どっちかっつーと怖いのは逃げてる奴らだ」
「逃げてる人?」
「怖くて逃げた奴ってのは見境ないからな。倒れた人がいたら遠慮無く踏んでいく。あんな人数に踏まれたら誰でもぺっちゃんこだ」
 警官が控え室に来たので、俺は一旦口をつぐんだ。結もそれに気付いて、視線をドアの方に向ける。
「こっちは……、えー、皆さん怪我はないですか?」
「ないっすよ。こっちはみんなすぐに中入ったから」
「そうか、それはよかった。後で皆さんに事情を聞きたいので、すみませんがここでしばらく待っててください」
 まだ若い警官はそう言い残してばたばたと出ていった。俺は結を両手で抱きしめてやってから続けた。
「大半が逃げたのは下りのエスカレーターだろ?下り階段を全力疾走したら1人や2人は転ぶ。ましてエスカレーターは動いてるしな。それであの人数だ、将棋倒しになるのは目に見えてる」
「だからこっちに……」
「そうだ。俺も一瞬外に出ようとしたけどな、お前のおかげで助かった」
 無表情に話を聞いていた結が、意外そうにまばたきした。
「あたしの?」
「お前の声が聞こえたから、それに気付いたんだ。あん時お前の声が聞こえなかったら俺もあっち行って、下で死んでたかもしれない」
 膝立ちになって結と視線を合わせた。こうすると結の方が少しだけ背が高くなる。
「ありがとな、結」
「……ありがとう、お兄ちゃん。また助けてくれた」
 ほんの少しだけ微笑んだ結を抱き寄せると、いつものようにふわっと抱きしめられた。
「何度でも助けてやるよ。俺の娘だからな」
「うん。お父さん」
「……でも呼ぶ時は兄ちゃんて呼べ」
 結が耳元でくすりと笑った。
posted by alohz at 01:02| Comment(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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